真実の愛はお腹を満たしてくれますの?
ご指摘いただいた部分を微調整しました。
貴重なご意見ありがとうございました!
「リディア、聞いてくれ。俺は真実の愛を知ってしまったんだ」
定例のお茶会の席で、婚約者様に告げられた言葉。
理解を拒んだのか、純粋にその言葉の意味がわからなかったのか……彼に応えられる回答を、私は持ち合わせていなかった。
真実の愛って何?
婚約している相手が真実の愛を知った相手は、……私ではなかったということ?
「だから、この婚約は破棄してほしい」
家同士の繋がり、契約。それはこんなにも簡単に破棄できるものだったのかしら。
「——このことは、侯爵様ご夫妻はもうご存知で?」
「いや、両親にはまだ話していないよ。まずは君に伝えることが筋だと思ってね」
筋、ですか。
「お相手はどなたなのです?」
「フォンテーヌ侯爵家のエヴァリンだよ。家の家格的にも、伯爵家の君よりも上の令嬢だ。両親も否とは言わないだろう」
……そうね。いつだって、家格を持ち出しては私を貶めていたものね、あなたは。
「かしこまりました。では、父にもそのように伝えておきます。正式な手続きは、書面で行いましょう」
「ああ、助かるよ。君はいつも冷静で、自分の立場を弁えている」
「ふふ。褒め言葉として、受け取っておきますわ」
そこで会話は終わり、婚約者——元婚約者のセドリック様が席を立つ。
その姿を見送りながら、「ですが」と声をかけた。
「真実の愛は、お腹を満たしてくれますの?」
決して未練などではない。ただ、疑問だっただけだ。
その問いにセドリック様は、いつもの人を見下したような笑みを見せて。
「愛は金にも勝る。心が満たされていれば、腹だって満ちるさ。何より、彼女は侯爵令嬢。我が家と同じ家格だ、伯爵家よりも財はあるだろう。愛もあり、金もある。最高の相手だろう?——ああ、もちろん相応の慰謝料は払うから安心してくれ」
そう言い残し、屋敷を後にした。
「愛は金にも勝るんですって」
「それならきっと、世界はもっと平和だったでしょうね」
「真実の愛と侯爵家の財はどこまで持つかしら」
ずっと傍で控えていた専属侍女のマリーと共に微笑む。
侯爵家の未来への憐れみを感じながら。
*
「——どうしてこうなった」
「どうしてもこうしても、お前が勝手に婚約破棄などするからだろう」
数ヶ月後、リディアの元婚約者の生家であるハイゼン侯爵家は、目に見えて衰退していた。
「何故だ……侯爵家は伯爵家なんかよりもすべてにおいて上回っているはずだ。なのに、何で……っ」
“真実の愛”のために婚約破棄をした後、領地に入ってくる食糧が減った。
王都と自領の間にある隣領、アッシュフィールド家は食糧の自給率が国内トップを掲げている。
今まではそれらを格安で仕入れることができていたのだ。……婚約者という、縁があったから。
だが、婚約を破棄したことで、それがなくなった。むしろ割高になった。
王都から仕入れようにも隣領を通らなければならないため、これまた割高になった通行税がかかり、隣領を通らずに輸送しようとすれば、日数が余計にかかるためすべての鮮度が落ちてしまう。
おまけに仕入れる量にも制限があるらしく、食卓に上がる品数は日に日に減っていった。
「金はまだある……が、このままだと……っ」
「だから私は反対したんだ! だが、一歩遅かった……。まさかお前がこんなにも愚かなことをするとはな」
はぁ、とため息をつくハイゼン侯爵の顔は疲れ切っていた。
事後報告で婚約破棄を知らされた当初は怒り、怒鳴り散らしていた声もすっかりと勢いがなくなっている。
「このままでは領民たちの不満が膨らんでいく一方だ。どうにかせねば……」
コンコン
「入れ」
「失礼いたします」
入ってきたのは、冷静を保ちながらもどこか困惑した表情を浮かべる執事だった。
「何かあったのか?」
「セドリック様にお客様がいらしております」
「誰だ?」
「エヴァリン・フォンテーヌ様でございます」
その言葉に、頭を抱え俯いていたセドリックが顔を上げる。
「エヴァリンが? 一人でか?」
「はい。……お付きの者は誰もいらっしゃいませんでした」
貴族の令嬢が外出する際には、世話をする侍女と護衛が何人か付くのが一般的だ。エヴァリンのように高位貴族の令嬢となれば尚更。
「何かあったのか……? いや、だが何にせよフォンテーヌ家の援助が得られれば心強い。エヴァリンはどこに?」
「応接室にてお待ちいただいております」
「すぐに行く。父上、行って参ります」
意気揚々と執務室を後にする息子を、ハイゼン侯爵が無言のまま見送る。
「援助、か……」
侯爵はわかっていた。
そんな上手い話はないことも。
今の侯爵家を救えるのは、フォンテーヌ家ではないことも。
「エヴァリン!」
「セドリック様っ、お会いできて嬉しいです」
ほんの数ヶ月前までは頻繁に会えていたエヴァリンとは、ここ数ヶ月は顔を合わせることもできていなかった。
婚約の破棄で発生した、様々な問題に頭を悩ませている間に時間だけが過ぎ、連絡を取ることすらままならなかったのだ。
「すまない、あまり手紙も出せずに。元気にしていたか?」
「いいえ、セドリック様。私の方こそ、何だか落ち着くことができずに……でも、元気にはしておりましたわ」
「そうか、それなら良かった。今日はどうしたんだい?」
自分の姿を見るなり縋りつくように甘えてくる愛おしい恋人。セドリックはその手を取り、ソファへ座るように促す。
「最近、何だかおかしいんですの」
「おかしい、とは?」
「何だか慌ただしいというか……お父様もずっとピリピリしていますし」
「何かあったのか?」
「わかりませんの。でも最近はお食事が質素になった気がしますわ」
「……っ!」
食の変化。それは、セドリックにとって心当たりのありすぎるものだった。
「それで、自宅にいても何だか落ち着かなくて。セドリック様にお会いしたくて、お父様にお願いをしたんです」
「……何をだい?」
「セドリック様と懇意にさせていただいていることをお伝えした上で、お会いしに行きたいと」
何だか嫌な予感がして、セドリックの背中を冷たい汗が伝う。
「そうしましたら、お父様が急にお怒りになって……怒鳴られましたの。『お前が原因か!』と」
「それは、」
「しまいには、私を修道院に入れるっておっしゃいますのよ! 私怖くなって……家を抜け出してきましたの」
——アッシュフィールド家の報復が、エヴァリンにも向けられている。
そう思うと、セドリックは憤りを感じた。
確かに婚約を破棄したのはこちらの都合だ。だからこそ、慰謝料もきちんとは払った。それで終わりのはずだろう? 何故、自分たちがこんな目に……、と。
「——リディアに会ってくる」
「リディアさんって、元婚約者の?」
「ああ。これは全部リディアが原因だ」
「まぁ……リディアさんはセドリック様のことが諦められないのね、きっと。だからこんな嫌がらせをしてくるのだわ」
十年間婚約をしていた相手だ、セドリックにも多少の情は残っている。
間違っていることは直接本人に伝え、改めさせなければならない。——そんな、正義感に似た感覚さえ覚えて。
「エヴァリンはここで待っていてくれ。部屋を一つ用意させよう」
「いいえ、セドリック様。私も行きますわ。元々は私がセドリック様と惹かれ合ってしまったのが原因ですもの。一度謝罪をしなければ、と思っておりましたの」
「エヴァリン、君は本当に……。では、一緒に行こう」
「はい」
微笑み合いながら二人は心を交わす。
この行動が、どれだけ傲慢なものなのか……考えることもせずに。
*
子供の頃から領地が大好きで、たくさんの領民たちと話しながら領地の改良をしてきた。
だけど十歳でセドリック様との婚約が決まり、侯爵家に嫁ぐための勉強をしなければいけなくなり、領地を見て回る時間がなくなってしまっていた。
「——終わったのね」
婚約破棄に関する手続きが終わり、正式に私は自由になった。
やりたいことを我慢し、自分を見下してくる傲慢な婚約者と向き合おうとしてきた私の献身は、数枚の紙と数十枚の金貨によって終わりを告げたのだ。
十年もの年月をかけて私に残されたものは、「婚約者に捨てられた令嬢」というレッテルだけだった。
「何だったのかしらね、この十年は」
「お嬢様……」
「みんなはまた、私を受け入れてくれるかしら」
昔、一緒に試行錯誤をしていた領民たちは今何をしているのだろうか。——と、思いを巡らせていると何だか廊下から騒めきが聞こえてきた。
「何かあったのかしら」
「ちょっと見てきます」
マリーが様子を見るために部屋を出て、すぐに戻ってくる。
「あら、どうしたの?」
「お嬢様……セドリック様がいらっしゃいました」
「え? そんな予定あったかしら?」
「いえ、前触れはありません。あと——女性と一緒です」
「——あら、そう」
自分の都合で婚約を破棄した元婚約者様が、女性連れで。
「真実の愛のお相手、かしらね」
「おそらくは」
「わかったわ。マリー、準備をお願い」
「かしこまりました、お嬢様」
「お待たせいたしました」
ゆったりと用意を済ませ応接室に入ると、二人は三人掛けのソファに横並びになって座っていた。
「遅いぞ! どれだけ待たせる気なんだ!」
「あら、失礼いたしました。何せ前触れがなかったものですから」
突然訪問しておいてこの態度……。相変わらずね、この方は。一歩引いたところから見ると、むしろ滑稽に見えてくる。
そしてお隣にいらっしゃるのがエヴァリン様ね。パーティーで何度かお見かけしたことはあったけれど、近くで見てもとても綺麗なお方だわ。
「まずは、お隣のご令嬢をご紹介いただけますか?」
ただ、あくまでもお見かけしただけ。ご紹介いただかないとご挨拶もできないもの。
「彼女はエヴァリン。俺の真実の愛の相手だ」
「初めまして、リディアさん。エヴァリン・フォンテーヌですわ」
出たわ、「真実の愛」。その言葉に嬉しそうな表情をされているエヴァリン様も……何というか、お似合いなお二人のようね。
「初めまして、フォンテーヌ様。私はリディア・アッシュフィールドと申します。以後お見知りおきいただけますと嬉しいです」
本当はちっとも嬉しくないのだけれども。笑顔で一言つける社交辞令は、面倒でも必要なものだわ。
「それで、ハイゼン様とフォンテーヌ様、本日はどのようなご用件で?」
さっさと話をして、さっさと帰っていただきましょう。
「何だ、当てつけのように他人行儀な呼び方をして。……まぁいい。リディア、俺たちの領地にしている嫌がらせを今すぐやめろ」
「まぁハイゼン様、ふふ。他人行儀ではなく、他人なのですわ。ところで、嫌がらせというのは何のことです?」
「——っ、とぼけるな。我がハイゼン領とエヴァリンのフォンテーヌ領への食糧供給の件だ。価格高騰だけに収まらず、量まで制限するとはどういうことだっ! そのせいで母上は寝込んでしまったんだぞ!」
感情を露わに目の前にあるテーブルをドンッと叩くセドリック様の愚行に、思わず目を瞬かせてしまう。
「侯爵夫人にはお見舞いを申し上げます。ただ価格高騰に関しましては、適正価格に戻させていただいただけですわ。誓約書にも書かれていたかと思いますけれど?」
「それにしても高すぎる! 制限についてはどうなんだ!?」
「それが……今年はどうにも不作のようでして。皆様には辛抱をかけてしまい申し訳ないと思っておりますわ」
「今まではそんなことなかっただろう!?」
「これまではハイゼン領を王宮の次に優先させていただいておりましたもの。そういった契約でしたし……でも、それももうありませんでしょう?」
そう、これまでのはあくまでも「婚約者」という肩書のもとに行っていた優遇措置だったもの。その肩書が取れたのだから、すべてが変わっていくのは当たり前のことではないかしら。そんなお顔をされても仕方がないですわ。
すると、ずっとセドリック様の隣でじっとしていたエヴァリン様が「ねぇ」と声をかけてきた。
「フォンテーヌ様、いかがなさいました?」
「では、私の領には? 最近お父様がピリピリしているのだけれど」
「フォンテーヌ領については、申し訳ございません。私は本当に存じ上げないのです」
「そんなわけないだろう! お前が、俺に捨てられた腹いせに何かをしているに決まっている!」
「何か、とは何でしょうか?」
「それはお前が一番わかっていることだろう!」
——話が通じない。そもそも、私は経営に関わっていないのだから何か小細工することなどできないというのに。
「だから、」
「——それを知っているのは僕ですよ」
反論をしようとした、その時。
ノックもなく開けられた応接室の扉からお兄様が入ってきた。
「ご無沙汰しております、ハイゼン侯爵子息様」
「あ、ああ、エリアス殿。久しぶりだな、元気にしていたのか?」
「元気……まぁ、元気ではありましたね。ここ最近はいろいろと面倒な処理があって忙しかったですが」
「そうか、大変だったな。ところで、さっきの発言についてなのだが……」
「面倒な処理」なんて、お兄様にしてはわかりやすい嫌味を言ったはずなのに全く気づいていらっしゃいませんわ。この方、社交界で上手くやれているのかしら。
「ああ、フォンテーヌ領のことですよね。そちらへの対応は、僕の方で処理させていただきました」
「! 何故だ!?」
「何故と言われても……むしろ何故、何もしないとお思いで?」
お兄様……笑顔のはずなのに目が怖いですわ。
「と、言いましても、きちんと契約内の範囲でですよ? ……まぁ、先日の契約更新の際に内容の見直しはさせていただきましたが」
「私が、セドリック様と懇意になったことが原因ですの?」
「ええ、そうですね」
「でもそれは……逆恨み、というものではありませんの?」
「そ、そうだ! 俺は真実の愛を見つけただけだぞ!」
「——だけ、ですか。そう思っている間は僕からお伝えすることはありません。どうぞお引き取りを」
笑顔のまま、お兄様は退室を促す。……が、二人は立つそぶりを見せない。
「……っ、リディア! 君を傷つけてしまったことは謝る! でもその慰謝料は払っただろう? 君からエリアス殿に言ってくれないか?」
そして、矛先を私に向け、憐れみを誘うように懇願してきた。だけど——ちっとも心は動かされないわね。
「ハイゼン様。何故、私が『傷ついた』と?」
「だって君は俺を愛していただろう? それなのに俺はエヴァリンを愛してしまった。だから君は傷つき、エリアス殿が……」
「それは違いますわ。まず前提から、私はハイゼン様に愛情というものを感じたことがありません」
「は……?」
「婚約者として、向き合おうとは思っておりました。ですがあの日、それまでのすべてを無にされました」
一旦そこで言葉を切り、意識して笑顔を作った。
「ハイゼン侯爵様の強い要望によって結ばれた婚約で失った、私の十年間を。たった、一言で」
セドリック様が驚いたように目を見開く。
その隣ではエヴァリン様も、同じような表情をしている。
「そちらの契約について、私は本当に何も存じません。ですが……『愛は金にも勝る』のでしょう? “真実の愛”があればきっと、どんな困難でも乗り越えられると思いますわ」
*
「お兄様、先ほどは助かりました。ありがとうございます」
予定外の来客たちが帰った後、無意識に張っていた気が緩み、沈むようにソファへと腰をかける。同じように正面のソファに座るお兄様にお礼を伝えると、何だか心配そうな目を向けられた。
「リディ……ごめんね、僕がもっと早く来ていたら」
「いいえ。お兄様が来てくださって、とても安心しましたわ」
ふふふ、と笑い合っていると、マリーが二人分のお茶を用意してくれた。
「ありがとう、マリー。——ところでお兄様、先ほどのお話なのですが……」
「ああ、契約の件かな?」
「ええ。何かしたのですか?」
「何か、というかね。ちょっと厳しめの契約にしただけだよ。食糧の価格と、アッシュフィールド領を通る際の通行税をね」
——婚約者として格安にしてきた諸費用が適正価格になるだけでも、ハイゼン侯爵家にとっては相当な痛手になると思っていた。
だけどまさか、それより更に上乗せされているとは思わなかったわ。
「とりあえず今回の件は、ハイゼン侯爵家とフォンテーヌ家の両家に抗議文を送っておくよ。そこで誠意を見せてもらえたら少し緩和することも検討しようかな。……侯爵家が困るのは構わないけれど、領民たちに罪はないからね」
「お兄様……」
「あ、でもうちの領民たちの怒りは収まっていないけれどね」
「領民たち、ですか?」
もうずっと会えていない領民たち。気性が荒い人も確かにいたが、優しくて賑やかな人ばかりだったと思うのだけれど。
「そう。リディの婚約が決まって領地に顔を出せなくなった時も、寂しがる人がたくさんいたんだ。でもリディが幸せになれるなら、と祝福していた。それなのに今回のことがあって……大変だったんだよ? あの人たちを宥めるの」
その時のことを思い出したように緩むお兄様の表情に、涙が頬を伝った。
「私の、ために……?」
「そうだよ、リディ。まだ小さなリディが領地を回り領民たちと築いてきた絆は、なくなってなんかいない」
「十年も離れていたのに……?」
「この十年、みんなリディの幸せを祈っていたよ」
十年、どんなに辛くても寂しくても流さなかった涙が、とめどなく溢れてくる。
「私は、またみんなに会いに行ってもいいの?」
「ああ、リディの笑顔を見せてあげて。みんな泣いて喜ぶよ」
「……はい。ありがとうございます、お兄様」
*
「——セドリック。お前はしばらく北の農地に行って来い」
「え!? 何故ですか! 俺は侯爵家の跡継ぎですよ!?」
「跡継ぎに関してはお前の気にするところではない。お前のせいで食糧不足になったんだ。その手で畑を耕し、少しでも領地に貢献するんだ」
リディアの屋敷へ訪問した翌日。セドリックは執務室に呼ばれ、今後の処遇について言い渡されていた。
「無理ですよ! 俺は農業などやったことがないですし……っ」
「何、誰しも最初は未経験だ。北の農地は我が領でも特に生産量が少ない地域だから、お前の力で何とかしてやってくれ。リディア嬢は幼い頃から農業の知識が豊富だったと聞くしな。十年も婚約していたんだ、そういった話くらい聞いたことあるだろう?」
「……っ」
そんな話、聞いたことなどない。セドリックはいつだってリディアを家格で見下し、農業で栄えている領地のこと嘲笑していたのだから。
「話は以上だ。お前にはなるべく早めに北へと向かってもらう」
「何故、そんな急に……」
「それが、この領地を救う最善の方法だからだ」
「! それって……っ」
「連れて行け」
屈強な男たちに引きずられるように、セドリックは連れて行かれた。
自らの行いが招いた事態を、緩和するために。
「——エヴァリン、お前の嫁ぎ先が決まった。早急に仕度をして家を出るんだ」
同日、フォンテーヌ家ではエヴァリンが父である当主に呼ばれていた。
「え、どういうことですの? 私はセドリック様と……」
「奴はハイゼン侯爵領の北へ行くことになった」
「そんな話は聞いておりませんが」
「急遽決まったのだ。奴はこれから北の農地で農夫となる」
「なんてこと……。あ、リディアさんの差し金ね!? なんて卑劣な……っ」
「馬鹿者!!!」
父から聞かされた恋人の処遇に思わず激昂すると、大きな声で怒鳴られる。今までに見たことがないほどの怒りで歪んだ父の表情に、エヴァリンの顔から血の気が引いた。
「卑劣だと……? 卑劣なのはお前らだ! 一人の令嬢を侮蔑し、真実の愛だなんてふざけた言葉で自分たちを正当化するなど……頭が沸いているとしか思えん」
「な……っ」
「お前を早急に家から出さねばならん……が、私は何もお前に不幸になってほしいとは思わん。我が領には、数は少ないが畜産業を営んでいる地域がある。そこの男爵家の息子がお前と同じ年頃でな、利害も一致したことで縁を結ぶことになったんだ」
「畜産業……? 私が、家畜の世話をするんですの……?」
「そうだ。我が領も少しは自給率を上げねばならんしな、いい機会だと思わんか?」
今までずっと一人娘として両親に愛され、侯爵令嬢として社交界の中心にいたエヴァリンにとって、それは未知の領域だった。
「嫌よ! 何で私が……っ」
「お前の愚行が原因で、領地に入ってくる食糧が減った。地位があろうと財産があろうと、食糧がなければ人は生きていくことはできんのだ。……お前が一番知らなければならないのは人の心だが、きっとあそこに行けばそれがわかる。命の大切さとありがたみも一緒にな」
きっともう、貴族社会では良縁に恵まれないであろう愛娘。
アッシュフィールド家との関係緩和のためには、家に残しておくこともできない娘のために、フォンテーヌ侯爵が用意できた最良の縁談。
「大丈夫だ。きっと、幸せになれる」
そうして、エヴァリンもお付きの侍女によって連れて行かれる。
「お前がその心に気づきさえすれば、だが」
侯爵が呟いた最後の言葉は、エヴァリンには届かなかった。
*
「いい天気だわ」
セドリック様たちが突然屋敷に訪問してきた日から数日後、私は久しぶりに一人で領地を見て回っていた。
顔を合わせると見せてくれる笑顔が嬉しくて、十年ぶりの「お嬢」という呼び名が何だか照れくさくて。だけど、すごく居心地が良くて安心できる空気に、自然と笑みがこぼれる。
「変わったところもたくさんあるけれど……この空気だけは変わらないでいてくれて嬉しいわ」
——そういえば。昔よく一緒に遊んでいたあの子はどうしているだろうか。
私よりも少し年上の、元気な男の子。いつも外にいるからか、肌は小麦色に焼けていて赤茶色の髪の毛を短く揃えていた。
領主の娘である私を、何の忖度もなく一番最初に受け入れてくれた、一番の友達。
もう、すっかり大人になっているのだろう。結婚はしているのだろうか。
「お嬢?」
そう、大人になったらきっと、こんな感じに——
「お嬢だよな? おーい」
目の前で手を振る男の人。小麦色の肌に、綺麗に結ばれた赤茶色の長髪。記憶の中の顔よりも精悍な顔つきをしているし、身長も見上げるほど高くなっている……けれど。
「……ソル?」
「! ああ、俺だよ! 久しぶりだなー。元気だったか?」
「え、ええ。元気にしているわ」
「そっか、良かった。……ていうか、俺こんなに気安く話しかけたら駄目だったかな?」
眩しいくらいだった笑顔が、気まずそうなものに変わる。
「え? どうして?」
「いや、何か……怒ってるのかなって」
「あ、違うの! 今、ちょうどあなたのことを思い出していたからびっくりしてしまって」
誤解させてしまったことが申し訳なくて正直に伝えると、またとびっきりの笑顔を見せてくれた。
「そうなのか? なら良かった。帰って来てるのは聞いてたから……会えて嬉しいよ」
「私も嬉しいわ。すっかり大人の男の人ね」
「はは、そうかな」
昔と変わらない、こちらを優しく見つめる瞳。
どこか照れたように笑う、そのしぐさ。
「だけど、変わらないわね」
「お嬢は……すごく綺麗になった。どこかのお嬢様かと思ったよ」
「あら。私は正真正銘、伯爵家のお嬢様よ?」
「あ、そうでした。これは大変失礼を」
わざとらしく、うやうやしい礼をとるソルに思わず声を出して笑ってしまう。
こんなに笑ったのはいつ以来だろうか。
「ねぇソル。私、帰って来たの」
「うん」
「また一緒に、領地のことを考えてもいいかしら」
「もちろんだよ! 俺らはいつだって、お嬢のことを待っていたんだから」
心が軽くなる。気持ちが晴れやかになる。
「ありがとう。私やっぱり、ここが好き」
「——うん。もう、ずっとここにいればいい」
そんな夢みたいなことが叶うのかしら。
でももし、許されるのなら。
「そうね。ずっとこの空気を吸っていたいわ」
私が、私らしくいられるこの場所で。
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