第九話 帆翔を追って叡州へ
遠常は碁盤の前で考えにふけりながら黒石をいじっていた。そこへ刑部尚書が足早に近づいてきた。
「陛下。叡州から陳情にやって来た三人の消息が消えました」
朝会で疫病発生の報告があったその日の夕刻のことである。
「詳しく申せ」
「昨日、常臨寺から少し離れた無縁墓地で死体が発見されました。一人は老人、あとの二人は壮年の男です。常臨寺の住職に確認させたところ、三人の無縁仏の報告は受けていないとのこと。三人は叡州の間諜からの報告と年恰好が一致します。連絡が絶えた時期とも合致し、間違いない思われます」
「ならば訴状はあったか」
「見つかりません。城内に入るための通行牌もありません」
「ふん」
遠常は鼻を鳴らして握りしめた黒石を強く碁盤に叩きつけた。そばに控えていた高兆が、人の気配に振り向くと、間引が帰ってきたところだった。顔付きがおかしかった。荒々しく高兆に近づき、囁いた。
「帆翔が、いえ、医療部隊が叡州に発ったというのは本当ですか」
「むこうへ行っておれ。邪魔だ」
高兆も囁き返す。囁きながら、煩そうに手で追い払う。
「いつですか!」
「大きな声を出すな」
「いつだ、いつ発った!」
「昼頃だ」
今はもう夕暮れだ。間引は走り出した。
追いつける。追いつかねば。帆翔が行ってしまう。それしか頭になかった。いつもいるものだと思ていた。医局へ行けば帆翔はそこにいる。それだけでよかった。会えなくても気にしなかった。気にならなかった。でも、土産を持って馬艶おばさんの所に寄ったとき、帆翔が遠い叡州に医療部隊と共に行ってしまったと聞いて、心の中で何かがガラガラと音を立てて崩れた。帆翔がいなくなった。どうしよう。帆翔がいてくれねば、我は怖い。
なにも持たなかった。ただ走った。高兆に返していなかった通行牌だけ持って宮門を通り、走りながらぼく頭を捨て、宦官の袍を脱ぎ捨てた。
「高兆。ねずみを掴まえろ。苛帆翔のあとを追わせるな。あのねずみは朕のねずみだ」
遠常がいった。静かな声だったが鋭い声だった。
「はい。陛下」
宇裕、と高兆はどこへともなく声を放った。刑部尚書が怪訝な面持ちで首をひねった。陛下のねずみ? あの小柄な側仕えが?
これまで遠常が隠していた「陛下のねずみ」の存在が、密やかに噂されるきっかけになろうとは、遠常も高兆も予想してはいなかった。
叡州までは八十一里、九日ほどかかる。荷駄は二十八台に及び、医官九名と側仕えが二十名、部隊を守る兵の一団を入れればそうとうな隊列になった。都から離れるごとに治安が悪くなるし、野盗も出没する。物々しい雰囲気のまま、慌ただしく都を発ってしまったが、間引に出立を知らせることができなかった。そのことが帆翔の心を重くしていた。愛想のない子で何を考えているかわらない子だが、きっと自分がいなくなったのを気にしているだろうと思った。屈折した性格のまま大人になってしまった間引だが、帆翔の心には、いつも間引がいた。一歩都から遠ざかるごとになぜか切なさが増してくる。今頃、自分がいなくなったのを知って、探しているのではないだろうか。十六になっても子供心が抜けない子だから、親を探すように自分を探しているかもしれない。そう思うと姿まで見えるようで胸が痛んだ。
「帆翔、ぐずぐずせずに早く来い」
先を行っていた朱旦兼が足を止めて帆翔を叱った。医療部隊の責任者には太医の朱旦兼が任命された。後ろを振り返りながら歩いていた帆翔は、だいぶ都から遠ざかってしまった野原を見て、諦めたように朱旦兼のもとに急いだ。
隊の一行の前後を旅人や商人が歩いていたが、やがてみな隊を追い越して先に行ってしまった。午後の休憩も手短にすませて再び歩き出した。宿場が近くなると茶店がちらほら旅人を目当てに店を出している。茶店が見えてきたころには夕方になっていた。隊が大きいからどうしても進みが遅い。ようやく宿場に着き、隊長の韓豊順が部下に指揮して駅舎に馬を預け宿の手配をしたが、隊の全員が泊まれる部屋数はなく、朝廷から遣わされた官吏監察の薄氷と河川総督の束端羅、治水部の紀呂尽の三人とその部下たちが分散して宿泊し、そのほかの者たちは医官も含めて荷馬車を守って兵たちと共に野営した。
連日、早朝からの出発だった。疫病は時間との戦いだ。一刻も早く到着して現状を把握しなくてはならない。一日、二日、三日、と旅を続けるうちに体力のない高官や医官、側仕えの者が疲労のため弱ってきた。歩く速度が遅くなり荷馬車を押す力も出なくなる。何度か盗賊が荷の多さに欲を出して近づいてきたが、兵の物々しさに臆して襲撃するまでには至らなかった。
日が重なるにつれて隊長の韓豊順が苛立ちを見せ始めた。しかし、足弱の高官や医官を置いて行くわけにもいかないので、隊がばらけ始めると、仕方がないので馬を走らせ叱咤して隊をまとめた。ばらついてしまったら盗賊のいい餌食だからだ。
高官や医官たちは足に豆ができるのはもちろんのこと、若い側仕えや歩き慣れている者でさえ足の甲やふくらはぎが痛み出した。そのうえ荷馬車は重く、引いている馬も疲れてだんだん動かなくなる。叡州まで残すところあと二日。疲労した全員を韓豊順が叱咤して進んでいると、今まで一本道だったのが三本に分かれる分かれ道に差し掛かった。
石の道標が各道に一本ずつ立っているが摩滅してほとんど読めなくなっている。右は平らな広い道、真ん中は山へ向かう上り坂の悪路、左の道は大きく左に蛇行し、もと来た道に戻りそうな曲がりかたをしていた。韓豊順は懐から地図を出して確かめた。真ん中の道を指す。その道は悪路のうえ山に入っていく暗く湿った道だった。荷馬車で行くには嫌な道だ。
「行くぞ。あと二日頑張れば叡州につくからな」
韓豊順が大きな声を出した。馬をなだめながら荷馬車の後ろを押していく。轍の跡を残しながら峠道をのろのろと進んだ。山中を抜け、峠をようやく下れば道は開け、あたりは明るい林の中を行く平坦な道になった。切通しの峠を下るときは野盗に用心したが、これまで盗賊のたぐいに襲われることもなく順調な行程が続いていた。叡州までもう少しだった。
「気を緩めるな!」
誰もがやれやれ、あと二日、と息をつき、右側の小高い丘の木陰に荷馬車が進んだ時だった。歓声とも怒号ともつかない大声が丘のあたりから沸きあがった。何事かと見上げると、人数にして二、三十人ほどの男たちが、鎌や鉈を振りかざして駆け下りて来た。野盗とも盗賊とも違うように見える一団だった。韓豊順の動きは速かった。すぐさま兵たちに荷駄を守る命を出し、駆け下りてくる集団に矢を射る号令をかけた。訓練され兵たちは動揺することなく次々に矢を放った。賊がばたばたと倒れていく。荷駄のところに到達した男が帆翔に鎌を振るった。帆翔は驚いてのけぞった。そのまま地を転がって逃げる。矢を免れた賊たちが叫びながら襲い掛かって来た。すると、叡州からの街道をこちらに向かって駆けてくる州兵の一団があった。韓豊順を大将とする兵が賊と戦っているところになだれ込み、賊を片っ端から切り伏せていく。何のためらいもない殺戮の仕方だった。帆翔は怒号渦巻く混乱に呆然と突っ立っていた。足元近くに、まだ幼さの残る若者が倒れていた。日に焼けた肌は労働者の肌だった。着ているものは粗末で、袈裟懸けに切られた傷口から血が吹き出している。まっすぐ帆翔を見つめてくる目は苦痛に歪んでいても曇りのない美しい目をしていた。医師である帆翔の本能が彼を突き動かした。帆翔は若者に走り寄り、血を止めようと傷口に手を伸ばした。そのとき、一本の流れ矢が帆翔の背中に飛んできた。
小川が流れている橋を渡ると茶店があったので、間引は木陰の縁台に腰を下ろして一休みした。銭入れの中の銅銭の数を数えてから茶店の亭主に、腹の足しになるものと茶を注文して、この先の叡州まで、あとどれくらい歩くのか聞いてみた。
「兄さん。この先は叡州じゃないよ。三又の分かれ道の道標を見なかったのかい。叡州に行くなら真ん中の山道だよ。あと二日はかかるよ」
それをきいて間引は肩を落とした。道を間違えていた。帆翔から遠ざかってしまった。間引はもと来た道に歩き出した。一人旅の大変さを物語るように間引の髪は埃だらけで、銭もわずかしか持ち合わせがなく、宿屋には泊まれないので野宿した。まともに食事もしていないので顔が痩せてしまっていた。足は痛み、今では腰まで痛くなっている。おまけに時間まで無駄にしてしまった。帆翔に追いつきたい。帆翔に会いたい。間引は腰に手を当て、痛む足を引きずりながら前に進んだ。
「兄さん、休んでおゆきよ。長旅に無理は禁物だよ」
茶店の亭主が間引の背中に声をかけたが、間引の足は止まらなかった。
山道を進んでいる宇裕はついに足を止めた。どこにも間引の気配がなかった。はじめは元気だった間引の走る歩幅が、日を追うごとに狭まり、走るのではなく足を引きずる歩き方に変っていた。だから宇裕は間引のあとを間違いなくたどることができた。だが、湿った山道に深い轍のあとはあっても間引の足跡は無かった。
「あいつ、道を間違えたな」
呟いて、迷うことなく来た道を引き返した。ひと山下った道の先に、項垂れてとぼとぼと歩いてくる間引がいた。ようやく掴まえたと思った。宇裕は立ち止まったまま間引を待った。そば近くまで来て宇裕に気づいた間引が、疲れた顔で眉を寄せた。
「おまえ、なんでここにいるんだよ。じいさんの手下なんだろ?」
「そのじいさんからお前を連れ戻せと命じられた」
「一人で帰りな」
間引は足を止めずに宇裕の横を通り過ぎようとした。宇裕が間引の腕を掴んだ。
「放せよ」
振りほどく。だが、間引の力は弱く、反動でふらついて倒れかかった。宇裕に抱きとめられた。
「そうとう疲れているな」
宇裕は間引を道の脇に座らせると、腰の袋から竹の水筒と、小麦粉を練って焼いたお焼きを取り出した。間引に差し出すと、奪うように水筒をとって喉を鳴らして水を飲む。
「ゆっくり飲め。むせるぞ」
聞こえていないのか、お焼きも貪り食う。
「なにも食べていなかったのか? 無茶をするやつだな」
宇裕は、夢中で食べている間引の口に干した葡萄を数粒捻じ込んでやった。甘くて酸味のある干し葡萄が疲れた身体に夢見るようにうまい。間引は宇裕の手から干し葡萄を奪うと、塊にして口に放り込んだ。宇裕は犬の頭を撫でるように間引の頭を撫でた。すかさずその手を叩き落とされる。懐かない犬も餌は手から食うんだよな、と宇裕は声を上げて笑った。
背中に気配を感じて振り向くと矢が目前に迫っていた。思わず帆翔は目を閉じて次に来る衝撃に死を覚悟した。
「帆翔! 危ない」
間引の声と同時に石が帆翔の頭に当たった。衝撃を受けて倒れ込む。矢はその背中をかすって地面に刺さった。帆翔は驚いて声のほうに顔を向けた。埃だらけの間引が帆翔に向かって走って来るところだった。
「だいじょうぶか帆翔。おや、強く投げすぎたかな。矢を落とすのは難しいから帆翔に当てたんだけど」
帆翔の額から血が出ているのを見て間引は肩をすくめた。帆翔の顔を見たら安心してしまって、今までの、帆翔に会いたいという焼けつくような焦燥感は消えていた。間引の心は落ち着きを取り戻し、冷静な目であたりを見回した。
「おかしなことになってるな。なんで州兵たちは民を殺しているんだ? 叡州の州兵の隊長はどこにいる。こっちの隊長は誰と戦っているんだ」
矢が飛んできたので間引は帆翔の頭をひょいと押さえて矢をよけた。
「ひとまず荷駄の後ろに隠れよう」
帆翔を引っ張って荷駄の後ろに隠れる。帆翔は驚いて声も出なかった。血が流れている額の怪我の痛みも忘れて間引の肩を抱き寄せ自分の胸の中にくるみこんだ。
「間引。どうしてここに!」
「馬艶おばさんのところに土産をもっていったら、帆翔が叡州に発ったときいて、あとを追いかけてきたんだ。宇裕ってやつも一緒だぜ。あれ? 宇裕がいないや」
帆翔の腕をもぞもぞと振りほどいて見回したが、宇裕の姿がどこにもない。叡州の州兵の一団が剣を鞘に収めて後ろに下がった。道には賊の死体が累々と倒れていた。その死体の中から宇裕が立ち上がった。
「あんなところにいるよ」
間引が見ていると、宇裕は隊後方にいた三人の官吏と話しはじめた。朝廷から遣わされた官吏だ。
「あれは、河川総督の束端羅様と治水部の紀呂尽様、そして官吏監察官の薄氷様だ」
道中、ずっと一緒だった上級官吏の三人を見て帆翔は呟いた。帆翔からみたら雲の上の遠い存在の偉い人だ。口をきくどころか、そばにも寄れない。それなのに、宇裕という簡素な身なりの若い男に上級官吏の男たちは拱手していた。
「宇裕とは、いったい何者なんだ」
呟いた帆翔に間引が答えた。
「高兆じいさんの手先だってさ」
けろっとしてそんなことを言う。帆翔は驚いた。
「給使様の。ということは陛下の……」
話を終えた宇裕がこちらに歩いてきた。隊長の韓豊順は隊の兵を集め、叡州から来た隊長と会話している。州兵の隊長は盛んに叡州の惨状を訴えていた。賊と化した農民集団が横行していて手が回らないことなど、愚痴とも言い訳ともつかないことを繰り返した。
間引と帆翔のところにやって来た宇裕が、荷駄の後ろに隠れてしゃがみこんでいた間引の腕を掴んで立たせた。
「帰るぞ。間引」
「よせやい」
振りほどいたが宇裕の手はびくともしない。
「いてえだろうが。放せったら」
それでも放さない。帆翔が宇裕の腕に手をかけた。
「放しなさい。痛がっている」
「嫌だね。こいつは自分勝手ができる身分じゃないんだ。飼い主が連れ戻せとおっしゃっている。だから、帰る」
「帰るって、どこにだよ。我に家や家族なんかどこにもないよ。我のいる場所は帆翔のところだけだ」
間引が食ってかかった。
「何を言っても無駄だ。お前が陛下のねずみである限り、お前に自由は無いんだ」
「ねずみ? 間引が?」
思わず帆翔が大きな声を出した。
「こいつは陛下がかわいがっている、おもちゃのねずみさ。陛下がおもちゃに飽きるまで飼い続ける動物だ」
帆翔は絶句した。
「間引はねずみじゃない! 貴い一人の人間だ」
おとなしい帆翔がこぶしを握って宇裕に殴りかかった。だが、宇裕は強い。すぐにかわされて地面に転がる。
「帆翔に何をする」
間引が腕を捕まれたまま宇裕の腹を蹴り上げた。そのまま乱闘が始まってしまった。




