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第七話 最後の投薬

 医局の長屋で間引が使っていた寝台は、新しく来た人薬の男児が使っているのだが、その豆児という名の男児は、部屋の外から目だけを出して室内を覗いていた。豆児の顔には恐怖が浮かび、小さな背中は震えていた。狭い室内には朱旦兼と帆翔、そしてもう一人、宦官の高宇裕がいた。三人が覗き込んでいるのは、寝台で呻いている間引だった。

 間引への毒の投与は続いており、今回の毒は強すぎたのか、あるいは抵抗力に限界がきていたのか、ひどい苦しみようだった。顔もどす黒く染まってむくみ、高熱で白目になり、痙攣の発作が起きて、開いた口からは唾液が泡となって流れ、意識が朦朧としていた。

「お願いです、師匠。このままでは死んでしまします。どうか、手当させてください。薬を、薬を飲ませてください」

 帆翔が膝を床につき朱旦兼の着物の裾を掴んで縋りついた。必死の面持ちで訴えるが朱旦兼の強情そうに引き結んだ口元は緩まない。

「許さぬ。今まで通り、耐えさせよ」

「でも師匠、見てごらんのように、間引はもう、虫の息です。死んだらどうするのですか」

「どうもせぬ。そのために豆児がいる」

 こちらを窺っていた豆児が小さく悲鳴を上げた。たまらず帆翔は間引の手をとり握りしめた。

「間引! 死ぬな。いま薬を取ってくる」

 叫ぶと帆翔は立ち上がって出口に走り出そうとした。だが朱旦兼が前を塞いだ。

「勝手は許さぬ。破門されたいか」

「しかたがない。間引の命には代えられない!」

 朱旦兼と帆翔が言い合っている隙に宇裕が煙のように消えていた。


義父上ちちうえ

 と、宇裕が書院の碁盤の所にいた高兆にすり寄った。宦官は子供こそ儲けることはできないが、家庭を持つことはできる。妻帯する者もいるし、妻帯せずに養子だけ取って親子となり家族を持つ者もいる。高宇裕は高兆の養子だった。

 碁盤の碁石を白黒に分けて碁笥に入れていた高兆が振り向いた。宇裕が顔を寄せて囁く。高兆の顔色がかすかに変わった。高兆はいつものように滑るような足取りで、机の前で次の奏上に手を伸ばしていた遠常の前に進み出た。

「陛下、どうも間引の具合が悪いようです」

 ん? と顔を上げる。

「ねずみがどうした。医局に行っておるのだろ?」

「はい。定期的に毒を体内に入れて抗体を作っているのですが、今回の毒はきつかったようで、どうも危ないようなのです。一応お耳にだけ、お入れしておこうかと思いまして、余計なことを申しました」

「なに」

 驚いて腰が浮いた。遠常が足早に歩き出す。

「陛下、どちらに」

「ねずみのところだ」

 慌てて二人も遠常の後を追った。

 遠常が間引のところに行ってみると、寝台で帆翔に抱き支えられた間引が大量に吐血したところだった。着ているものから布団から床にまで血がふりかかっている。朱旦兼が遠常と高兆に気が付いて拱手した。

「陛下。このような場所においでになってはいけません。お目が汚れます」

「これは、いったい」

 驚く遠常に帆翔が拱手もせずに身を乗り出した。

「陛下、お願いです。間引を助けてください。師匠に命じることができるのは陛下だけです。間引は、これだけ苦しめば十分です。たとえ生き延びても、毒におかされた身体では長く生きられません」

 たとえ子を身ごもっても、子は腹の中で死ぬのだ。それが毒におかされるということなのだ。あまりにもむごすぎる。

「お願いです陛下、間引を助けてください!」

 遠常は言葉を失っていた。

「間引!」

 帆翔の悲鳴が聞こえたのか、間引がうっすら目を開けた。遠常はすっかり驚いてしまって声も出なかった。いつも、蹴ろうが転がそうが平然としている間引が、どす黒く変色した肌で、朦朧としながら血を吐き続けている。抱き支えられているが、その身体もぶるぶる震えている。

「間引、死なないでくれ」

 泣き出してしまった帆翔にも驚いたが、もっと驚いたのは、間引が遠常に気が付いてうっすら笑みを浮かべたことだった。そして、帆翔に震える手を伸ばし、弱々しい力で帆翔の手を握った。

「はんしょう……」

 間引の言葉に全員が驚いた。

「ねずみ、おまえ、しゃべれるのか」

 遠常が大きな声を出した。

「う、る、せえやい」

 こんな状況でもまだ憎まれ口をきく。帆翔は間引が声を出せるのは知っていたが、しゃべるのを聞いたのは初めてだったので、開いた口が塞がらなかった。しゃべれないと思い込んでいたのだ。なぜ今まで、一言もしゃべらない? 話せたら、おまえの苦しみ悲しみを聞いてあげられたのに。なぜ訴えようとしなかった、この私に! この私にだぞ!

 帆翔は衝撃が少し収まると、様々なことが頭をよぎって混乱した。遠常が朱旦兼に振り向いた。

「朱旦兼。ねずみを死なせるな。死なせたらただではおかん。人薬もやめよ。こんなひどい苦しみを与えていたとは」

 遠常の言葉にがっくりしたのは朱旦兼だった。長い年月をかけた人薬の研究がこれで頓挫してしまった。無念極まりない朱旦兼だったが、人道に悖る行いだと思っていた帆翔は涙をこぶしで拭いながら遠常に頭を下げた。

「ありがとうございます陛下。だれか、間引を支えてください。寝かせて吐血したら気管に入って窒息してしまう」

 朱旦兼が怒りに顔を強張らせながら部屋を出ていった。遠常が前に出て両手を伸ばしたが、その横をするりと進んで間引を抱き寄せたのは宇裕だった。大切なものを受け取るようなやさしさで間引を抱きしめる。帆翔は急いで部屋を飛び出したが、物陰で豆児がしゃがみこんで泣いているのに気がついた。

「豆児、良かったな。もう苦しい思いをしなくていいんだぞ」

 涙で汚れた顔を上げて豆児がこくりと頷いた。

 間引は宇裕の胸の中にいた。大きくて広くて温かな胸だった。その胸を間引は帆翔の胸だと思っていた。我を見つけたのが帆翔で、我の最後も帆翔なら上出来だ、と意識を失った。

 ぼさぼさの短い髪、黒い気味の悪い肌、苦痛でやつれ、痙攣を繰り返している華奢な身体。間引を抱えながら、宇裕は捨てられた子犬を拾って抱き上げたときの幸福感を思い出していた。小さな弱い命が自分の腕の中で震えている。これが自分のものだったら、どんなにいいだろうと思った。自分だけの大切な命。宇裕は間引を抱きしめる腕に力を込めた。

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