第六話 月光の中 間引 川に浮かぶ
遠常が文武百官の前に姿を表すことはめったにない。すべての臣下が皇帝の顔を拝める機会はそうそうあるものではなく、では、どのように政治を行っているかといえば、外廷の恩承殿が即位式や新年の賀や儀式、外国の使者との謁見など、重要な行事に使われる場所であるのに対して、遠常が生活する天清宮が実際の政務の場となっている。
二日に一度の朝会に六部の高官が出席し、皇帝と直接顔を合わせて様々な問題を俎上に乗せ議論し決定する。その場で結論が出ない場合は、後日、専門家や学者を招いて遠常自身が結論を出す。朝会のない日は官吏や武官が直接奏上を持ってくる。遠常が奏上を読むのは朝堂ではなく、その奥にある書院で、宰相や大臣、将軍などの上級家臣が奏上の内容を説明する。遠常の机の上はそういう奏上でいっぱいになる。
書院には仕事をかたづけるための大机の他に、永成国とその周辺の国の地形図が細かく彫られた大きな地図版が床に置かれ、竹簡や紙類を収納する大棚があり、窓のほうには、床から一段高くなった台があり、そこに碁盤や茶道具が置かれて休めるようになっている。書院は仕事場兼居間のようなものだった。
遠常は奏上に目を通しながら間引を目で追っていた。間引は開けた窓のそばで火鉢を両足の間に抱えて座り、背中を丸めて竹簡を燃やしていた。麻糸を小刀で切ってばらした竹を一本一本だらだらと火にくべている。雨が降る季節が間近に迫っているので空気が湿って重い。煙がうまく窓から逃げていかなくて部屋に漂ってくる。
高兆が茶を遠常に渡しながら囁いた。
「陛下、お調べの結果でございます」
書付を渡すと、それを読み終えた遠常が蝋燭の火で燃やした。間引の調書だった。徹底した調査で、間引の生い立ち、生活、交友、好きなものから嫌いなものまで多岐に及び、文字で丸裸にされたも同じだ。知りたかったのは間引の背後関係だった。もっとも注意しなければならないのは、どこかから送り込まれた間諜かどうかだ。だが、間引には親はもちろん親戚身内はいないし、育てたのは軽業家業の親方と、間引を買い取った朱旦兼だ。世話をしたのは苛帆翔で、遠常が心配する不安要素はどこにもなかった。
遠常はちらりと間引に目をむけた。竹簡は紙よりも安価なので日常的に使われていた。極秘の書付ではないが外の者にいいつけて悪用されたらまずいので、この場で燃やすことにしていた。それを間引にさせているのだが、ふてくされながら燃やしている。
「煙を何とかしろ。こっちに流れてくるぞ」
尖った声で遠常が机の上の香炉の蓋を間引に投げつけた。青銅でできた小物だが、当たりどころが悪ければ怪我をする。
煙はそこまで届いていないだろ。あいかわらず乱暴だな、と耳のそばに飛んできた香炉の蓋をひょいと竹簡で払い落した。今度は筆が飛んできた。訴状も飛んでくる。机の上のものを手当たり次第に投げつけてくる。そのたびに間引は座ったままで、身を捩ったり、足で蹴り返したりとかわす。だんだん腹が立ってきたのか、ついに遠常が立ち上がり、歩み寄ると足で蹴りつけてきた。だが、間引のほうが動きが早い。何といっても若さが違う。くるりと床に頭から回転して遠常の背後に立つと、ぐいと腰を落として片足を上げて蹴ろうとした。が、その様子を黙って見ていた高兆が素早く懐から銅銭を出して指で弾いた。銅銭が、体重をかけて立っていた間引の膝の裏に命中した。がくんと崩れて尻もちをついた。遠常が振り向いて、今度こそ間引を蹴って転がした。転がる前に銅銭はしっかり拾っておく。高兆は気前がよかった。間引にはかなわない遠常を助けるのは高兆だが、高兆は銭を使うのでいい小遣いになる。この銭は、皇宮を抜け出して街に遊びに行ったとき、甘い菓子を買って帆翔の土産にする。だから、遠常に蹴られても、金になるからうれしかった。
間引を一蹴りして満足したのか、遠常は再び奏上に戻った。ここには遠常と高兆と間引の三人しかいないので、よくこういう遊びを遠常はする。苛ついたときもする。機嫌が良い時はもっとする。興がのると髪を掴んで引きずりまわす。息が切れるまで追いかけまわした後はすっきりした顔をして乱れた髪やはだけた襟元を直してすましている。間引にとっては皇帝というより、遊び足りないまま大人になってしまった権力者にしかみえない。もちろんむかつく。
「叡州の洪水のことだが」
報告書を読み終えて茶を飲みながら遠常がいった。高兆は花形の桃色の菓子をいくつか出しながら頷いた。
「困ったことでございます。二交河の氾濫から一年もたっているのに、いまだに支援金を催促しております」
「そうとう送っているぞ」
菓子をつまみながら眉をひそめた。洪水はとっくに収まっているというのになぜ工事がこんなに遅々として進まないのか、何が原因なのか、内偵で調べがついているのでわかっているが遠常は口には出さない。叡州を流れる二交河は、北と東から蛇行して流れてくる二本の川が交わって、一本の川になったもので、雨季になると必ず決まった箇所が氾濫する。遠常が即位してまず着手したのは二交河の護岸工事だった。川幅を広げ、用水路を造る工事は財政を圧迫したが、どうしてもやらなければならないと心に決めて十五年になる。そろそろ結果が出てもいい頃なのだが、まだ川の暴れが収まらない。その間、不正や汚職と陰で暗躍する者が後を立たなかったが、成帝の熱意を信じている民の粘り強さに助けられて今日まで続いていた。
「この一年ほど、民の陳情が増えている。これもそうだ」
そう言って手にした書類をぽんと机に置いて続ける。
「徴用で働き手を取られて、田畑を守り、暮らしを支えているのは女や子供や年寄りだ。苦労が多いことだろう。叡州を治めている黄玉照に再三善処を求めているが埒が明かない。いつも部下の責任で言い逃ればかりだ」
「いっそのこと、黄刺史を左遷させては?」
高兆が控えめな口調で言った。遠常が首を振る。
「時期ではない。尻尾を掴んでからだ」
そう言うものの、貧困の苦しさ、役人の不正や賂、時に振るわれる暴力。民がそれらを役所に訴えても少しも改善しない悔しさや怒り。それがわかるだけに遠常も苛立ちが募った。
遠常は残った菓子を取って「ねずみ」と間引に声をかけ、ひょいと菓子を投げた。間引が片手で受けてつまらなそうな顔で食べ始める。
「毒が入っていても平気なんだから、おまえはいいなあ」
そんなことをいう。
うるせえやい、陛下のおかげでどれだけ苦しい思いをしていると思ってるんだ、と心の中で言い返す。だが、菓子をぱくついている間引を見る遠常の口元にはかすかに笑みが浮かんでいる。目元も和らいでいる。そのことに気づいて高兆も間引を見る。いいおもちゃだ、と高兆は頷く。陛下には気晴らしが必要だ。後宮には陛下の妻たちが大勢いるが、誰一人として陛下のお心を和らげることができるものはいない。小さくため息をつきながら、高兆は今夜の伽の札を乗せた盆を遠常に差し出した。
ちらりと盆に並べられた妃嬪たちの名前の札に目をやる。遠常の眉間にしわが寄ったが、高兆は知らぬ顔で腰を屈めた。
「陛下、久しぶりに黄貴妃とお食事を共になさってはいかですか。二皇子殿下もお呼びになって」
「淋か。あいつはちゃんと勉強しているのかな」
「師の周文総様がおほめでございましたよ」
「どうだか」
ふん、と鼻を鳴らして遠常は黄貴妃の札を取った。叡州を総括している官吏は刺史の黄玉照だ。刺史は大きな力を持っている。軍も動かせるのだから小さな国の王といってもいい。その刺史の黄玉照は黄貴妃の父であり第二皇子遠淋の祖父である。遠常はなんとか黄玉照の力を削ごうとしてきたが、小さな汚職や賄賂など、捕まるのは小役人ばかりだ。経験豊富な上に狡猾で、遠常など太刀打ちできないのが現状だ。だが、そろそろ何とかしなければと思っている。叡州に間諜は放っているが全員消息不明になっていた。これも我慢がならない。黄貴妃の権勢は黄玉照が背景にある。遠常が即位した当時は後ろ盾に力のあるものが必要だったので皇后に劉氏を迎え、劉一族の押さえに黄氏を迎えたのだが、劉皇后は第一子を出産したのち突然我が子を亡くして、悲しみと心労がたたり子の後を追うように亡くなってしまった。皇后の座は今も空席のまま、現在は黄貴妃一族の天下のようになっていた。
今夜は貴妃できまりだな、と間引は勝手に茶を入れて飲んだ。陛下が貴妃のところに行ったら遊びに行こう、と心の中で頷く。遠常は間引をねずみと呼ぶが、たしかに間引はねずみのようにどこへでももぐりこみ、抜け出すことができた。今夜は川に泳ぎに行こう、と間引は暢気にあくびした。
衛士の警備は宮門と外廷と内邸の建物全般だが後宮へは入れない。後宮の警備は主に宦官と女官で警備にあたっている。夜は皆寝静まり、警備の者たちが巡回するほかは静かだ。寝苦しいからといって外をうろつこうものなら屈強な宦官に捕まって取り調べを受けてしまう。だが、間引はそんなへまはしない。闇から闇へまぎれてするすると歩いていく。夜の後宮は昼とは違う美しさがある。闇が支配する美しさだ。妃嬪が暮らす宮殿を避け、いつものように洗濯場に出る。馬艶おばさんたちがせっせと洗濯している川場よりももっとずっと川上のほうへ行くと宮城の西の壁にぶつかる。
川は皇宮の高い壁の下をくぐって宮殿に流れてくるのだが、外部からの侵入を防ぐために壁から川底に向かって鉄の柵が張り巡らせてある。実は、この柵も潜ってみるとわかるのだが一か所破損しているところがあって、身が細ければくぐって城外に抜けることができる。遊んでいて偶然見つけた抜け穴だが他にもあちこち抜けがあって、意外と間抜けな宮城なのだ。
竹林を歩いて河原に出ると月光が冴え冴えと照らしていた。瀬の光が青光りしてきらきら反射している。風が吹いていて竹林の葉を揺らしているが、葉擦れの音と瀬の音が重なってけっこう煩い。河原の石は乾いていて、そこに衣類を全部脱ぎ捨てる。水に足をつけると意外に冷たい。だが、いつも遠常にいいようにおもちゃにされて気が塞いでいるのでこの冷たさがかえって刺激的だ。
間引はするりと水に身を滑りこませた。泳ぐのではなく顔を月に向けて両手両足を広げ、水に乗って流れていく。ああ、なんてきもちいい。
間引は心に澱がたまるとよくここに来た。毒で苦しみぬいた後の深い疲労感。帆翔の尽きぬやさしさへの申し訳なさ。苦しみは、なぜ自分めがけて襲ってくるのか。我はなにも悪いことはしていない、と大きな声で叫びたい。それなのに、なぜ、我はこんな辛い思いをせねばならないのだ、と叫びたい。何もかも、憎らしい。何もかも、悔しい。だが、そこに親への思いはなかった。親など最初からいないのだと言い聞かせて大きくなった。親なんかいらない。自分を川に捨てた親なんかいらない。間引は冷たい水に浸かったままどこまでも流れてゆく。泣かない。泣くもんか。帆翔の前でだって泣かなかったんだ。誰の前でも絶対泣かない。やさしさがよくわからない。帆翔はやさしいけど、本当は、あのやさしさもわからない。帆翔は誰にでもやさしい。我にだけのやさしさではない。
そう思うと、なぜか心が苦しくなった。だれか、我を特別な存在と思ってくれないだろうか。たった一人でいい。広いこの世の中の誰か、たった一人だけでいいから、この傷だらけの我を特別に思ってくれたら、うれしくて、その人のために死んでもいいのに、と思った。
間引は気づいていなかった。まさか、闇にまぎれて竹林の中からじっと自分を見つめる者がいることを。若い男だった。夜目にも通った鼻筋、肩は広いが撫で肩で厳つくはない。すらりと伸びた身長、隙の無い身構え。男は水に乗って流れ下っていく間引をじっと見ていた。
女か……。呟く声には、まだ初々しさがあった。高宇裕は間引が視界から消えてもしばらくそこを動かなかった。




