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第五話 馬艶おばさんはいつもやさしい

「間引や、最近見ないけど、どうしてたんだい。病気でもしてたのかい」

 洗濯おばさんの馬艶がいつものように声をかけてきた。今にも雨が降りそうな曇天で、庇が大きく張り出した屋根の下で、おおぜいが盥で洗濯していた。二人がかりで布を絞り雨が吹きこまない場所の竿に干していく。

「おや、間引。おまえさん、医者の見習いをやめて宦官になったのかい」

 医官のお仕着せが宦官のお仕着せに替わったのを見て馬艶おばさんが眉をひそめた。

「大変だったろう。よく決心したねえ。でも、宦官はうまくやれば出世できるから頑張りな」

 馬艶おばさんはいつもやさしい。横のおばさんも声をかけてくる。

「で、新しい暮らしに慣れたかい。いじわるされてないかい?」

 いじわるなんてもんじゃないよ、毎日俺様猫に追いかけられてるよ、と間引は心の中でぼやく。

「おや、その顔つきではあまり良くなさそうだね」

 そのおとりだよ、おばさん。猫だけじゃなく年寄り犬もいるからさ。

「元気をだしな。苛さんが寂しがってたよ。暇があったら顔を見せに行っておやり」

「苛さんといえば、新しい子が医局に来たんだね。苛さんが面倒見ていたよ」

「それがさ、身体の弱い子らしくてさ、どうもいけないらしんだよ」

「いけないって?」

「だからさ、危ないらしいんだよ」

「ええ? だって、まだ九歳だっていうじゃないか。だから最近、苛さんの様子がおかしいんだね。いやだねえ、死んじまったら大変だねえ」

「珍しくもないさ。子供が生き残る大変さは皇宮でも民でもおんなじだよ」

「そうだった。一皇子様だってそうだったものね」

「しッ。余計なことを言うんじゃないよ」

 間引は知らん顔で降ってきた雨の中に歩みだし、洗濯場をあとにした。一皇子が、生まれて一か月で亡くなったのは十五年前のことだった。ちょうど間引が生まれた一年後ぐらいだから間引は知らない。だが、女たちのおしゃべりによると、当時劉皇后と黄貴妃が同じ頃に出産し、どちらも皇子だったことからめでたいと宮城が喜びに沸いたという。しかし、その一月後に皇后の生んだ一皇子が突然死した。原因不明の突然死について密やかな噂が流れたが医局のものはそのことについて当然触れたりはしない。劉皇后は失意のあまり心と身体を病んで一年後に亡くなった。十五年も昔のことである。

 間引の足は医局に向いた。医局に来た新しい子供というのが気になった。朱旦兼はまた子供を買ってきたのだろうか。間引への毒の投与は継続しているというのに。

 医局へ行ってみると、相変わらず局員は忙しそうにしていたが、宦官姿の間引を見ると誰もが嫌な顔をした。六年間医局の世話になっていて、みんなと顔見知りだったはずなのに一人も声をかけてこないばかりか、顔を背けた。帆翔はいなかったので、住んでいた長屋のほうに行ってみた。部屋の前に便壺と嘔吐用の壺がたくさん並んでいた。間引は眉をひそめた。ここに来たころを思い出すのだ。室内から苦しそうな子供の嘔吐の音がした。覗くと、帆翔が小さな男児の背中をしきりにさすっていた。心配そうな表情は間引にも見慣れたものだった。部屋に入って二人のそばに立つと、ようやく帆翔が間引に気付いた。

「間引!」

 立ち上がって間引の両肩に手を置く。

「こんなに濡れて、傘はもってこなかったのか。心配してたんだ。あれから乱暴なことはされていないか?」

 間引は帆翔の手を払って子供の顔を覗き込んだ。青ざめた肌、全身に震えが走り、腹を抱えてうずくまっている。汗が浮いた額をてのひらで拭ってやると、子供は閉じていた目を開けてすがるように見上げてきた。間引は帆翔の机から小刀を取ってきて、ためらわずに自分の手首の薄皮を切った。吹き出すのではなくぽたりぽたりと血が出てくる慣れた切りかただった。その血を子供の口にもっていった。

「だめだ。おまえの血は薬だ。解毒薬だ。飲ませてはいけない。わかっているだろ」

 帆翔が間引の手を掴んだ。

 わかっているさ。だけど、この子は保たない。

 子供がまた嘔吐した。壺が間に合わず、帆翔が自分の両手で受けた。

 我の時もそうだった。汚いのも構わず、帆翔はこうして汚物を始末していた。どれほど尽くしてもらっただろう。どれほど大切にされただろう。いま間引がこうして生きているのは帆翔のひたむきな世話のおかげだった。しかし、この子は我とは違う。我は小さい時から殴られて育ち、飢えに耐えて育ったが、この子は我ほど強くない。

 帆翔が嘔吐物をこぼさないように注意して出て行った隙に、間引は子供の口に血が滴る手首を押し当てた。手を洗ってきた帆翔が部屋に戻ってきた。

「間引、わかっているんだ。師匠は功を焦るあまり仕事を急いている。こんなこと、やめてくれって、いくら頼んでも聞いてくれないんだ。私は無力だ」

 泣き出しそうな帆翔の苦しみも理解できた。やさしい若者だった。医師を志したのも苦しむ人を救いたいからだ。帆翔にとって、人薬を作る仕事はさぞ辛いことだろうと思った。だが、間引には帆翔をなぐさめる言葉がなかった。完全な人薬。それが朱旦兼の目指しているものだ。間引はまだ未完成だ。このたび、毒に侵された遠常に効果があったのもまぐれかもしれない。朱旦兼は杖刑を受けなくてすんだし間引も殴り殺されずにすんでいる。あの男……、と間引は遠常を思い浮かべた。

 四日ほど寝込んで遠常は回復した。毒見役の女官が死んだと御膳坊のおばさんが言っていたが、刑部の役人が天清宮に来て、そのことを報告していた。間引は奥に追いやられていたから話を聞くことはできなかったが、遠常の機嫌の悪さからすると厄介な事件らしい。

 帆翔が清潔な晒しを取って、間引の手首の切り傷を手当してから、手拭いで濡れた肩を拭きはじめた。頭のぼく頭を取る。いま間引がかぶっているぼく頭は庶民がかぶる一般的な布製ではなく、型の上に黒の紗を貼った高級品で高兆と同じものだ。着ているものも高兆の着物は皇帝の世話係なので刺繍がふんだんにしてあって格式が高いが、間引のは刺繍は入っていないものの形だけは同じ袍だ。

 帆翔が懐から柘植の櫛を出して間引の髪を梳き始めた。

「今ではこのひどい髪で良かったと思っている。これならおまえが女だとは気づくまい。かわいそうに、年頃の娘なのに」

 そう呟きながら、そっとやさしく、これ以上ないほどやさし髪を梳く。かわいそうに、小さい時から苦しい思いをして、かわいそうに、と髪を梳く。間引はじっと帆翔を見つめる。この人はやさしすぎる、と間引は思う。我はかわいそうではない。かわいそうなのは、今、死にかけている、そこにいる子供だ。我はここまで生き抜いた。これからは自分の力で生き抜くだけだ。でも、この子はそうではない。自分の身に何が起き、なぜ苦痛を受けなくてはいけないのかわからずに怯えきっている。

 間引は帆翔から櫛を取りあげた。櫛を帆翔の懐に戻し、子供の様子を見てからぼく頭をかぶって帆翔に背を向け雨の中に歩き出した。

「間引、辛かったら逃げておいで。一緒に逃げよう!」

 雨に濡れる間引の背中に帆翔の声が追いかけてきた。逃げるところなんかどこにある。どこにも逃げ場はないんだ。

 帆翔の声がいつまでも耳に残った。

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