第四話 皇帝 ねずみを飼う
間引が連れていかれたのは内廷の天清宮だった。外廷の恩承殿は国の重要な儀式や国際政治関連の場だが、内廷の天清宮は日常の政務を行い、皇帝が住まいする殿であった。
入ってすぐの大広間が玉座のある朝堂で、その奥の西側が書院、東側に私室や寝室がある。入り口には警備兵が等間隔に立っており、桐油をしみ込ませた防水・防風の紙を貼った窓から入る光のせいで室内は意外に明るい。朝堂の、赤い塗料で染められた太い柱に支えられた玉座は美麗で重々しく、その天井部分には如意宝珠をくわえた龍の彫り物が玉座を見下ろしている。王ではないものがその玉座に座ると龍は怒って宝珠を落とすという。その朝堂の入り口で朱旦兼が待っていた。慌てて朱旦兼に拱手してから帆翔は息を整え、間引の乱れた短髪を両手の指で梳いた。
「だから髪を伸ばせと言ったのに。ひどい頭だ!」
横に朱旦兼がいるというのに間引の髪をせっせと梳かしてくる。間引は煩そうに帆翔の手を払った。帆翔はなおも間引の着物の乱れに手をかける。自分こそ結いあげた髪が走ってきたせいで緩み、ぼく頭(結いあげた髷が入るように登頂が高くなっている黒い帽子)がずれてしまっている。
「陛下がお待ちです。お急ぎください」
控えめな声がかかった。宦官姿の高兆だった。役職は給使。身分は奴婢で年齢は五十歳。腰が低く、声も話し方も静かで目立たない。だが、皇帝の信は厚く、そのせいで誰もが一目置く存在だった。帆翔は高兆の前で慌てて拱手した。
「申しわけありません」
「さ、急いで」
と、囁くように言う。帆翔に向ける顔は柔和だったが間引への一瞥は冷静だった。朱旦兼と帆翔、間引の三人は伏し目がちに玉座の前に進んだ。そこにはすでに薬箱を持った二人の侍医が不安そうに待っていた。
成帝遠常は、黄金の玉座のひじ掛けに片手を乗せ、屈むような姿勢で歩み寄る帆翔と間引を見ていた。髪は下ろし髪。着物は白の絹の単の打衣に漆黒の表衣を着ている。はだけた胸元、たっぷりした袖からのぞく繊細な指先、顔立ちは鋭利で特に目が鋭い。かすかに苦悶が浮かんでいる青ざめた額に艶やかな髪が乱れ、三十七歳という年齢にもかかわらず色香があった。
間引がぼーと皇帝を眺めていたら朱旦兼から跪拝せよと頭を押さえつけられた。叱責されて初めて、朱旦兼のほかにも孫忠懐と楊雨完もいることに気が付いた。朱旦兼は太医だがあとの二人は皇帝専属の侍医である。彼らはそれぞれ自分専用の薬箱を持っていた。
「医士の苛帆翔と人薬の間引でございます」
朱旦兼が拱手しながら二人を引き合わせた。
「お前が人薬か」
遠常が間引に声をかけてきた。間引は床に顔を伏せたまま無言で上目遣いに遠常を見上げた。皇帝の顔を許可なく見るのはとんでもない不敬で、下手をすると打ち首になる。遠常も無言で間引を見下ろしてくる。
「ふてぶてしい童子だな。なんと醜い」
大きなお世話だ、と間引。
「ほんとうに効くのか」
疑っているわけでも、半信半疑でもなく、単に言葉を発しているという感じで遠常がきいてくる。
「試してみなければわかりません」
拱手しながら朱旦兼が答えた。不遜な態度だったが朱旦兼の剛直さを知っているものには慣れた態度だった。
「血を飲むのだな?」
遠常が無表情にきいた。
「はい」
「よかろう。効かなかったらそこの童子は打ち殺す。お前は杖刑五十回だ」
朱旦兼が弾かれたように平伏した。二人の侍医は顔を伏せ無言を通した。帆翔が素早く立ち上がって朱旦兼の薬箱を取り、間引を廊下へ連れて行こうとした。
「どこへ行く」
遠常の声が飛んだ。
「この者の血を採ってまいります」
「かまわぬ。ここでやれ」
「いえ、陛下のお目が汚れまする」
「急ぐ」
遠常の声が苦しそうに細くなった。
「しかし、陛下」
さらに言いつのろうとすると癇性な筋が遠常の額に浮かび、玉座の階段を降りてきて間引の前に立った。
痩せてるなあ。皇帝のくせにろくなものを食ってないのか?
目の前に立ち塞がる遠常のはだけた胸元を見ながら間引は心の中で呟いた。いきなり遠常が間引の髪をわしづかみにして顔をのけぞらせ、着物の前を大きく広げて細い首に噛みついてきた。間引の胸のふくらみが半分見えた。娘らしいふくらみに帆翔が目を見開く。驚いて顔をそむけたが、他の医師たちには遠常の身体に遮られて見られずにすんだ。
噛みつかれて首筋から血を流しながら間引はさりげなく着物の前を合わせた。女だと気づかれた、殺されるかもしれない、と思った。やがて遠常が顔を離した。遠常は赤く濡れている唇をぐいとこぶしで拭った。すかさず高兆が手巾で遠常の手を拭いた。
「体中から薬のにおいがする」
吐き捨てるように言って遠常が間引を思いきり足で蹴った。間引の身体がまりのように転がっていく。
「間引!」
帆翔は薬箱を掴んで間引に駆け寄った。間引の首筋を広げ、流れている血を拭き取り晒しを当てて血を止める。
「大丈夫か」
耳元で囁いた。ひどい噛み方だった。肉はちぎれていないものの、傷は深く、痛々しい。間引が遠常を睨みつけると、癇に障ったのか寄ってきてまた蹴ろうとした。
「お許しください。陛下!」
帆翔が庇って間引を抱きしめた。間引のほうは顔を遠常に向けたままふてぶてしく見上げている。
「人薬とは痛みも感じないのか。声さえ出さず、薄気味悪い奴だ」
遠常は帆翔から毟り取るように間引を引き剥がすと、首を掴んで頭を床にぐりぐりと押し付けてきた。すると、間引の肩が回転して、遠常の手をどのようにはずしたのか、身を起こしてゆらりと立ち上がった。そして、軽く拍子をとるように跳ね始めた。全身の力は抜いてある。手もぷらぷらさせている。だが、全神経が全身に廻っていて、遠常に動きがあれば電光石火となって反撃に出る、そういう動きだった。
「高兆、鞭を持ってこい」
高兆が走って鞭をとりに行き遠常に手渡した。その時、「高兆、気が付いたか」と囁いた。
「はい。娘です」
小さな声で答えて恭しく低頭する。うむ、と頷いて鉄の鞭をひと振りすると硬質な音が玉堂に響き渡った。体罰に使う鞭は普通、細い竹でできたものか撓る木だ。高兆に持ってこさせた鞭は硬鞭といって打撃用の戦いのときなどに使う鞭だった。この武器は剣を受け止めることができるほど硬く、人体に使用すると大変な損傷を与える。肉だけでなく骨まで砕く。
「陛下、お許しください。この者はまだ幼く、教育もできておりませぬ。すべて私が悪いのです。どうぞ硬鞭だけはお許しください」
帆翔が這いつくばって低頭し懇願した。だが、遠常の振るった鞭はうなりを上げて間引を襲った。ひらりとかわす。また硬鞭が間引に向かって舞った。しかし間引はまたしてもゆらりとかわしてとんと床を蹴った。宙を舞い、着地する前に再び硬鞭がうなりを上げる。だが、間引の身体をかすりはしても当たらない。遠常の息が切れてきた。肩が上下に動く。鼻からつつっと血が流れた。遠常の顔色は真っ青だった。
「陛下!」
高兆が声を張り上げ走り寄った。高兆の腕の中に遠常が倒れ込んだ。遠常が震える指先で間引を指した。
「ちょろちょろと逃げ回って、ねずみのような奴だ。許さぬ。ここに置いてゆけ。朕が飼ってやろう」
そういって気を失った。侍医たちが走り寄り脈を取って薬箱を広げた。その様子を間引は息も乱さず無表情のまま見ていた。帆翔と高兆と朱旦兼の三人は、遠常ではなく間引のほうを見ていた。三人とも浮かべている表情はそれぞれだった。




