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第三話 不穏のきざし

 夕顔の次は魚だった。コイ科の胆のうには毒があって使い方によっては薬にもなるのだが中毒症状を引き起こす。下痢、嘔吐、腹痛、黄疸、急性腎不全、さらには手足の麻痺・痙攣、意識不明などの症状がみられ、死亡することもある。胆のうに含まれる5α-キプリノールの硫酸エステルが原因だ。だから御膳坊ではコイ、ハクレン、ソウギョの調理には神経質になる。

 我々が暮らす自然の中に共存する動植物、昆虫、菌類など、毒を持ったものがあまたあるが、そういうものを自然毒という。そのほかにも鉱物毒というのがある。しかし朱旦兼は鉱物毒は間引には使わない。取り返しのつかないことになるからだ。

 間引は苦しみに悶えながらも淡々と毒を飲み、あるいは皮膚に塗られ、毒虫に刺されるという日々をおくった。それでも間引の背が一年ごとに伸び、顔つきも大人びて娘らしさが匂う十六歳になる頃には、人薬としての抗体が体内にできつつあり、朱旦兼の人薬の研究は完成間近に迫っていた。

「間引。おまえさんはいつもぷらぷら遊んでばかりでいいねえ」

 尚服局の裏にある小川の洗濯場で、洗濯物を叩き洗いしていた馬艶おばさんが、通り過ぎようとした間引に声をかけてきた。馬艶は尚服局の洗濯係で、身分は極めて低いが、太りじしの気のいい中年女だ。間引を見つけるといつも声をかけてくる。川のほとりのあちこちで洗濯していた女たちも馬艶の大きな声に振り向いて手を動かしながら声をかけてきた。

「間引や、御医士の苛帆翔さんに手紙を届けておくれよ。恋文を書いたからさ」

 たらいにムクロジと貝灰を混ぜた洗濯液で手洗いをしている初老の女が笑いながら声をかけてきた。

「あんたからの恋文じゃ苛さんはご飯も喉を通らなくなるなるだろうよ。でもさ間引、兄さんがわりの苛さんが嫁さんをもらったら、あんたはさびしくなるねえ。ほおって置かれて忘れられちゃうよ。あはは」

 横の女が混ぜ返すと笑い声が上がった。女たちは間引を見ると必ず帆翔を引き合いに出してからかうのだ。年齢にかかわらず、女たちの間で帆翔は人気があった。細身のすらりとした姿に加え、若者らしい匂い立つような顔立ち。そんな帆翔が間引を大切にしているのは知れ渡っており、しゃべらない間引をからかって笑うのはいい遊びになっていた。

 宮中に流れている川は二本ある。一本は宮中の北西から東南に蛇行して流れ、皇帝が住まう内廷の庭に池を作り、その流れは外廷の恩承殿の前を過ぎて宮城の外に流れ出てゆく。もう一本の川は本流から人工的に尚服局のほうに引き込んだ流れで、尚服では洗濯に、ずっと下った下のほうでは汚物関係の洗浄に使われている。

「間引や、陛下はどこかお悪いのかい」

 せっせと布を棒で叩きながら馬艶おばさんがきいてきた。間引は首を横に振る。

 しらないよ、陛下のことなんか。

「このところ、洗濯物が頻繁なんだよね。汚れ具合からしてお腹の調子でもお悪いんじゃないのかね」

 だから、しらないって。と、肩をすくめる。

「間引は医局にいるから何か知ってるかと思ってさ」

「この子に聞いても無駄だよ。耳は聞こえても口がきけないんだから」

 女官の方々と違って下々の者たちは上役がいないとなんでもあけすけに物をいう。宮廷で皇帝陛下の腹の調子が悪いのかなどと口にしようものなら首が飛ぶ。皇帝陛下の健康状態は秘匿だからだ。間引は医局にいるからなんとなく耳には聞こえてくるが、触れてはいけない話題なので知らん顔をしている。間引からしたら、皇帝陛下であっても人に変わりはないのだから腹だって下すだろうと思っている。女たちの煩いおしゃべりをあとに、間引の足は御膳坊に向かった。尚服局から御膳坊までは表の路を歩けばけっこうあるが、洗濯場から竹林を抜けていくとすぐだ。御前坊に行くと、たいがい誰かが何かくれる。新鮮な果物だったり、ふかし芋だったり、時にはめった口に入らない菓子だったりする。くれるたびに、おまえはちっとも背が伸びないねえ、男の子なのにさあ、と気の毒そうに頭を撫でられる。

 御膳坊の建物を囲む高く長い塀が見えてきた。竹林から切ってきた太くて長い竹を塀の脇に転がしてあるので、その竹を持ち上げて塀に立てかけ、その竹にひょいと乗ってするすると上っていく。塀の上から顔だけ出してあたりに人がいないのを確かめてからぽんと身を躍らせて地に降り立った。

 御膳坊はいつになく雰囲気が浮足立っていた。調理場へは部外者は入れないが、間引が行くのは調理する前の食材の下処理場で、芋や野菜の泥を洗ったり痛んだ葉っぱを捨てたりする雑役場だ。忙しそうに働いていてもおしゃべりぐらいする余裕はあるが、今日はみんなぴりぴりしていた。井戸水を汲んで中に運ぼうとしていた雑役のおばさんが通り過ぎながら囁いた。

「間引、今日はお帰り」

 顔がこわばっている。間引は首を傾げた。毒見役が死んだんだよ、と囁いてくる。

「早くお帰り。役人がいっぱい来てるんだ。えらい騒ぎだよ」

 背中を外に向かって押された。足早に水を運んでいく雑役のおばさんの後ろ姿を見送りながら眉をひそめた。

 間引は皇宮の底辺で暮らしているから騒がしくても平和な生活を送っていた。しかし、同じ皇宮でも政治を行う外廷と皇帝が住まう内廷には絶えず嵐が吹き荒れていた。そのことは医局にいると肌で感じることができる。皇帝はもちろんのこと、皇后や妃嬪、皇子や皇女たちの脈をとり薬を調合する医官たちが、小声で話し合っている雰囲気で感じることができる。だが、それも間引には関係ない。間引の場合、毒を飲むのが仕事で、あとは気楽に遊んでいられる。ここでは飢えることもないし、着るものもあてがわれるし、寝るところもあった。

 御膳坊の裏口から表の通りへ出て医局に戻ろうと歩き出したら、向こうから帆翔が青ざめた顔つきで走ってきた。息を切らせながらやってくるといきなり間引の手首を掴んだ。

「探したぞ。どこをうろついていたんだ!」

 いつにないきつい口調だった。間引は眉をひそめた。

「陛下がおまえを所望している。御前に拝謁する前に湯浴みをさせたいが時間がない。行こう」

 言い終わらないうちに走り出していた。間引は帆翔の手を振りほどこうとした。

 手を離せよ、子供じゃないんだ。

 足を止めた帆翔が強く睨んでくる。そして、さらにきつく掴まれて引きずられるようにして走った。帆翔の不安が掴まれた手首から伝わってきた。いやな予感がする。これまで血を採られることは何度となくあった。病気や毒に感染させた鼠に、採取した血液を投与して結果を観察するのだ。今まではそうだった。でも、直接皇帝陛下に呼ばれたことはない。帆翔の緊張はわかるが、間引にはその緊張がどう自分に結びつくのかもう一つわからないでいた。


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