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第十八話 間引の帰還

 書院の連子窓からさしこむ柔らかな午後の光が、黄貴妃と遠常の横顔を染めていた。二人は書院のたいで卓を挟んで座り、茶を飲んでいた。

「茶商人が吐蕃までの長い道のりを行くのだが」

 遠常が茶器を置きながら言った。

「ええ。茶葉古道を行くのでしょう?」

「遥かな高原や険しい山岳地帯を越えて行くのだから大変な苦労だ。そうやって運ばれてくる茶は貴重だから値が張る。向こうでは茶を大切な馬と交換したりするのだ。とびっきり良い馬だぞ。その馬を先日数頭手に入れたのだ」

「そういえば馬のことで淋が騒いでいましたわ」

「その馬を種馬にして交配し、生まれた子を育てる。どんな馬が生まれるか楽しみだ」

 馬に目がない遠常は、立派な体格の美しく賢い馬を乗りこなすのが好きで、空いた時間があると厩に足を運んで自分で世話をするほどだ。機嫌がいい夫の様子に黄貴妃は笑みを深くした。

「陛下。父が陛下に拝謁したあと、屋敷に帰ってから寝込んでしまいましたのよ。もう年なのですから、あまり父をいじめないでくださいね」

「それはいかんな。さっそく見舞いの品を送ってやろう」

 あっさりした物言いに黄貴妃が軽く睨んだ。

「父が信頼して叡州を任せていた部下の不始末のせいですわ。兄が、陛下の誤解があってはならないと心配して拝謁を求めておりますの。会ってやっていただけますか?」

「そのようなことは直接朕に言えばよい。そなたが口を挟むことではない」

「でも陛下、家族のことですから」

 遠常は黄貴妃を正面から見つめた。

「勘違いしてはならぬ。そなたの父と兄は、家族の前に君臣である」

 遠常の冷めた眼差しに負けぬほど黄貴妃の表情も冷たく変わった。ここで頭を下げればいいのだが黄貴妃はへりくだらない。夫と妻であっても皇帝は君であり絶対の存在なのだが、強力な父の後ろ盾が黄貴妃を尊大にしていた。遠常は黄貴妃のほかにもおおぜい妃嬪を抱えている。だが、遠常は誰に対しても本気で向きあたりしない。だから、後宮の頂点に立つ黄貴妃は、ほかの妃嬪と寵を競う必要はなかった。父の黄玉照がいる限り、黄貴妃に怖いものはなかった。それがたとえ皇帝でも。

 興覚めしたように遠常が腰を浮かせた。そこへ高兆が慌てたようすでやってきて遠常の耳元で囁いた。遠常の顔色が変わった。

「朕の部屋へ運べ」

 そう高兆に言いつけて、黄貴妃には「下がってよい」と言葉をかけ立ち上がった。急ぎ足で書院を出て行こうとする。黄貴妃はそっとあとをついて行った。遠常は書院の間を抜け、居間兼寝室の私室に入って行く。黄貴妃は太い柱の陰に身を潜ませ、そっと中の様子に耳を澄ませた。

 遠常が部屋に入ってみると、宇裕に両腕で抱き上げられた間引がぐったりしていた。宇裕の衣は宦官の衣ではなく神策軍統領の刺繍入りの立派な衣に変わっていた。ぐったりと目を閉じた間引の顔は泥で汚れ、腰まで伸びた髪は土まみれで、着ているものは人足の労働着。それもひどく汚れてかぎ裂きまでできている。そばに立っているだけで異臭がするほどだ。左肩のあたりが一面乾いた血で汚れていた。

「一体どうしたというのだ。このありさまは」

 遠常の驚きに満ちた声で間引がうっすらと目を明けた。血の気のない頬に乾いた唇。抱かれてだらんと垂れている指先は小さく痙攣している。間引が身じろぎしたので宇裕が間引に代わって答えた。

「朝、宮門を開けたら倒れていたそうです。高兆様の名を言ったので、念のために門衛が上のほうに確認をとったところ、陛下付きの側仕えであるとわかって連絡が入り、かけつけてみたら、このようなありさまで」

「怪我をしているのではないか?」

「はい。背中に一太刀と左の肩の付け根を矢が貫通しています」

「矢は抜いたのか?」

「いえ、本人が邪魔な部分を自分で折ったみたいですが、矢は身体の中に残っています」

「高兆。侍医を呼べ。急げ」

 側に控えていた高兆は側仕えに侍医を呼ぶように言いつけて、自分は間引を抱きとろうと手を伸ばした。宇裕がその手を拒むように後ろに下がった。

「この者は自分の宿舎に連れていきます。でもその前に、この者がどうしても陛下にお目通りしたいと申しますので」

 間引、と宇裕が腕の中の間引にそっと呼びかけた。うっすら開けていた目が、遠常を探す。そして視界に遠常をとらえると口元に小さな笑みを浮かべた。

「陛下、お元気でしたか」

 蚊の鳴くような弱々しい声でそう言われた途端、遠常の心臓がどくんと音を立てた。遠常は食い入るように間引を見た。宮廷を馬で逃げ出した時の間引ではなかった。汚れてはいるが、なめらかな頬や鼻の線。濃いまつ毛に縁どられた深い眼差し。首すじからはだけて見える細い鎖骨。間引はもう子供ではなかった。大人になって帰ってきたのだった。遠常は両手を伸ばして間引を抱きとろうとした。

「いけません陛下。お召し物が汚れます」

 宇裕がさらに一歩下がった。間引が懐から水を吸って膨れ上がった帳面を取って差し出してきた。

「なんだ?」

「役にたつといいのですが」

 そういって間引は気を失った。床に落ちた帳面を高兆が素早く拾った。そして宇裕に、間引を早く連れて行くように手を振った。

「朕の部屋で良い。運べ」

「ですが陛下。このような状態では陛下の部屋に置くわけには行きません」

 高兆が困ったように言う。遠常は宇裕から奪うように間引を抱きとった。抱きとる一瞬、宇裕が抵抗するように間引を強く抱いた。

「陛下、いけません。不潔です」

「かまわぬ」

 強く睨まれて宇裕は怯んだ。間引は遠常の寝室に運ばれていった。宇裕の横を、駆けつけた侍医と助手が数人、急ぎ足で通り過ぎていく。帳面を持った高兆が、去れ、というように手を大きく振って遠常のあとを追った。束の間、宇裕は動けないでいた。なぜ奴婢の間引を皇帝が自分で抱いて自分の寝室に運んでいくのか、まったく理解できないでいた。天と地ほどの身分の違いだ。絶対の差だ。その時の宇裕は、男には境界線をまたいでしまう一瞬があるということを知らなかった。ただ無性に腹立たしかった。腕の中の傷ついた小さな生き物を横から奪われた悔しさだった。何もかも持っている最高権力者が、何もない、何も持っていない自分から、あの小さな生き物を奪っていく。その理不尽さに宇裕は身体が震える思いだった。


 黄貴妃は遠常の部屋から出てきた宇裕が、自分の前で足を止め、拱手するのを見守った。

「陛下の部屋で何があった?」

「は、」

 宇裕は言葉に詰まって目を伏せた。拱手したまま頭の中で言葉を探した。間引のことを言うのはなぜかためらわれた。

「なぜ答えぬ」

「は、陛下の側仕えが戻ったので連れてまいりました」

「神策軍統領のお前が、わざわざか」

「怪我をしておりましたので付き添いました」

「だから侍医が来たのか。その側仕えの名はなんという」

「知りませぬ」

「知らぬわけがなかろう。お前が付き添うほどの者だ」

「高兆様にお聞きください」

「そういえば、陛下が飼っていたねずみとやらがしばらくいなかったが、帰ってきたのは、そのねずみか?」

 宇裕は無言で拱手したまま深く頭を下げた。

「そうか。陛下が寵愛していたねずみが舞い戻って来たのか。そうか」

 宇裕はそっと後退ってその場を離れた。いやな予感がした。黄貴妃は美しいが、宇裕にはその美しさは禍々しかった。黄貴妃そのものが禍々しかった。


 帆翔が露店の饅頭屋で肉入り饅頭を二つ買って、一つは懐にしまい、まだ暖かい饅頭を食べながら歩き出してすぐ、赤子を抱いた夫婦に声を掛けられた。

「苛医師(せんせい)ですね。このあたりで見かけたというので探していたんです。子供を見てくれませんか」

 またか、と帆翔は口中の饅頭を急いで飲み下した。髪は乱れ、着物は埃にまみれたみすぼらしさで、どう見ても医者などには見えないはずなのに、行く先々で帆翔は声を掛けられた。帆翔自身は気がついていなかったが、間引を探して放浪するうちに、苦しんでいた病人を手当したのかきっかけで、腕のいい流れ医者がいると人の口に上るようになっていた。姿はみすぼらしくても、澄んだ聡明な目付きや礼儀正しい言葉遣いや態度に、人品の良さが顕れていた。露店の椅子にかけて食事をする間も惜しんで、歩きながら食べていたので、ついその思いが言葉に出てしまった。

「すまないが、人を探して先を急ぐのだ。私のような者ではなく、街の医師に見せたほうがいい。そのほうが確かですよ」

「いえいえ、評判は聞いています。流れだけど、腕は確かだと。命拾いをした人が何人もいると」

「そんなの嘘ですよ。ほんとうに先を急ぐのです」

 帆翔はそそくさと歩き出した。二ヶ月前の真夜中、岳告煙の燃え尽きた屋敷跡から松明をかざして、帆翔は地面を這いながら間引の痕跡が残っていないか探して回った。役所の兵が見張りに立っているので、塀に囲まれた屋敷から逃げ出すには裏門だろうと考え、そこから走って逃げたことを想定して探しはじめた。範囲を徐々に広げてゆき、明け方、松明を消して、屋敷から続く道をたどって街の中に入った。すると、まだ目覚めていない街の通りに、破損した屋台が散らばっているのがあった。喧嘩があってとばっちりで屋台が壊れたのだろうかとおもった。それとも、追われた間引が逃げるとき屋台を追手に向けて力まかせに押したために壊れたのだろうか。わからない。とにかく、間引は叡州の州門を出た。帰ってこないし、韓大将の部下たちが探してもいないのだから、それは確かだ。帆翔も州門が開くのを待って城外に出た。広々とした緑の田園が広がっている街道を、目を皿のようにして歩いた。奇跡的に血痕のような茶色い染みを地面に見つけたのは用水路の近くのあぜ道だった。地面に這いつくばって血のような汚れを追った。それは用水路の草藪に続いていて、矢が一本草の中に突き刺さっていた。間引は怪我をしている。みるみる帆翔は青ざめた。草藪の根をかき分けて間引を探し回った。三日間、あたりを探し尽くした。泳げないのに用水路の中に入って必死になって川底をさらいもした。その様子を見る者がいたら、きっと狂ったように見えただろう。水は口にしても食物はなにも口にしていなかった。頬は削げ、目は大きく釣りあがり、体重も減って、人相は様変わりしていた。ついに帆翔は地に倒れて気を失った。雨が降り、顔に当たる雨粒に叩かれて目を覚ました。虚ろな瞳で雨雲の天を見つめた。涙と雨水が混じって帆翔の頬を濡らした。間引がいない。どこを探してもいない。間引! 帆翔は大声で叫んだ。

 それから二月。帆翔は諦めきれずに間引を探し続けた。死んではいない。あの子が死ぬわけがない。あの子はそんなやわじゃない。そう自分に言い聞かせて探し回った。もはや執念だった。手持ちの銭が尽きてしまい、仕方なく頼み込んで病人を診させてもらった。銭はそうやって稼いだ。わずかな銭だが、それでいい。間引を探し続けることができるのならそれでいい。そうやってさまよううちに帆翔の名前はしだいに広がっていった。

「女の子なんですが、足が変なんです。広がらないんです。赤ん坊は、がに股でしょ? でもそれが、片ほうの足が真っすぐなんです。おかしいでしょ? 見てくれませんか」

 母親が赤ん坊を胸に押し付けてきた。

「どうしてこんなに布で全身をくるんでいるんですか」

 赤ん坊を見て、とっさにそう言ってしまった。

「だって、泣くんですもの。こうして布でくるむとおとなしくなるんです」

「こんなくるみ方じゃだめです。赤ん坊の股関節は固まっていなくて柔らかいんです。上のほうはくるんでも下半身はくるんじゃだめだ。こんなふうに棒を包むように足を真っすぐくるむなんて危険だ。ああ、もう!」

 帆翔はじれったそうに赤子を抱き取り、地面にしゃがんで自分の両ひざに頭を向こうにして乗せると、布を剥いで両足を広げ股関節の広がり具合を見始めた。すると、しだいに人が集まりだし輪ができてきた。

「骨が固まる前に脱臼してしまうと、今の医術では治せないのですよ。一生痛みと歩行困難で苦しむことになるんです。そういう子供、見かけたことあるでしょう?」

「先生、この子もそうなんですか」

「ほら、片方の太ももに太くて長いくびれがあるでしょう? これ、脱臼しかけているんです。股関節もよく広がらないし」

 周りからどよめきが起こった。

「そんなこと、近くの医者は言ってなかったぞ」

 父親が心配そうに覗き込んだ。

「布でくるむのはいいのですが、足のほうはくるんではだめですよ。真っすぐ伸ばしてくるんでしまうと脱臼させるようなものです。抱き方も股に腕をくぐらせて抱いてください」

「それで子供の足はどうなんだ」

 と、父親。

「脱臼しています」

「ええ! な、治りますか」

 母親がおろおろしだした。

「このぐらいの幼さなら何とかなるでしょう。足を牽引するんです。治るには何カ月もかかります」

「お願いします」

 すると、人の輪の中から、うちの子も見てくれという声が上がり始めて帆翔は慌てた。

「だめだだめだ、こうしてはいられないんだ。行かなくては。間引を探さなくては」

 赤子を母親に返して帆翔は立ち上がった。だが、帆翔の着物は赤子の両親ばかりか、あちらこちらから伸びた手に掴まれたのだった。

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