第十七話 間引が帰ってこない
17間引が帰ってこない
「陛下。参上するのが遅くなりまして、まことに申し訳ありません」
天清宮の玉座に座した遠常の前で、黄玉照は深々と拱手した。声色は柔らかく、肩を丸め、眉尻を下げた黄玉照の態度は、嫡男の曵絶と対面しているときとは別人のように気弱気な老人の風情だった。
「年にはかないませんで、あちこち具合が悪くなって、こんなに日にちがかかってしまいました。重ね重ね恐縮に存じます」
なおも頭を下げてくる。妻の父である黄玉照の腰が低くなればなるほど、皇帝とはいえ義理の息子としては労わらねばならなくなる。黄玉照の見え透いた駆け引きにうんざりするが、その手に乗らぬわけにはいかない。遠常は玉座から降りて義父の手を取り、高兆に椅子を持って来るように命じた。
玉座の前には文武の高官が五人ほど横に控えていたが、全員立っている。側仕えが四人がかりで運んできた立派な椅子に、黄玉照は悠然と腰を下ろした。
「それで、舅殿の体調はもう宜しいのかな。叡州を発たれたとたん、頭痛、肩こり、腹下しや熱や腰痛に見舞われたそうだが」
遠常はにこやかに嫌味を言った。
「陛下はお若いからわかりますまい。老人というものは環境が変わるとすぐいけなくなります」
なにが老人だ、と遠常は腹の中で毒づいた。年寄臭く見せているが、身体に力が漲っているのを見抜けない遠常ではない。玉座に戻り、軽い調子で黄玉照に言葉をかけた。
「朕の手元に叡州の報告が多数届いておる。舅殿に叡州からわざわざおいでいただいたのは、いろいろ問題が起きているようなので詳しく説明していただこうと思ってな」
「はて、問題とはいかがなことで」
遠常は吹き出しそうになった。面の皮が厚すぎる。すると、黄玉照の近くに控えていた、黄玉照とさして年の変わらない戸部尚書が前に出た。
「叡州からの報告では、河川改修工事の工人の給銀が正しく支払われていないというではないか」
調べはとうについていると言わんばかりの戸部尚書だが黄玉照は遠常に顔を向けたままで見向きもしない。
「私もそれには手を焼いておりました。岳告煙から再三報告を受けておりまして、岳告煙も何度も勧告したのですが、事務手続きがうまくまわっておらず苦慮しておるのです」
「それは黄刺史の責任ですぞ。いったいいつからそのようなことが始まっていたのですか。こちらに定期的に届いている財務報告と突き合わせをしたい。そちらの帳簿を見せて頂きたい」
戸部尚書は渡せというように手を伸ばした。
「もちろん渡しますとも。しかしですな、二交河の改修が始まって、かれこれ十六年ですぞ。その間、給銀の支払いが遅れるとこも多々ありましょう。それを着服したかのように言われるのは心外ですな」
二交河の改修の話がでたら土木の工部尚書が黙っていられないというように口を開いた。
「着服を支払いの遅延と言い逃れる気か。それなら川の曳舟橋はどうなっておる。陛下は下った舟を川上に引いて戻す木の曳舟橋が、増水のたびに流されるので、頑丈な石道で造るように命じたのに、着工した気配すらない。それなのに、毎年経費を計上しておる。その金はどこに流れていった」
「驚きましたな。曳舟橋を造っていないと? では工部尚書殿がじきじきに叡州に見に行かれるがよい。曳舟橋はありますぞ。水かさが増して沈んでいるだけです。わざと沈むように作っておるのです。そうすれば、洪水がおきても流されずにすみますからな。沈下橋というのです。そのようなこともわからずに、よく土木建設の長官になれましたな」
ははは、と黄玉照が笑った。工部尚書の顔面が怒りで真っ赤になった。
「今回の疫病のことだが」
と、官僚の人事や任命、罷免を統括する吏部尚書が言葉を続けた。
「二交河に打ち上げられた家畜の死骸を放置したのが原因というではないか。その腐肉を漁った鼠の血をダニが吸い、さらに人の血を吸ったさいに感染して疫病が蔓延したと。河川の管理は州刺史である黄殿の職務怠慢ですぞ。どれほどの死者、被害が出たと思われる。国庫は今や空ですぞ」
国庫が空と言われて遠常は嫌な顔をした。やせ我慢でも空とは言われたくない。
「たまたま家畜の死骸があっただけでしょうが。たったの一頭ですぞ。目くじら立てるほどのことではありますまい」
「その一頭のために、どれほど甚大な被害が出たか、あなたはわからないのですか」
頭から湯気が出そうなほどの吏部尚書の勢いだが、黄玉照は眉尻を下げたまま気弱な声でのらりくらりとかわしてしまう。財務の度支使が冷静な声で黄玉照に声をかけた。
「叡州から定期的に届いております財務の報告書ですが、どうもこちらの帳簿と齟齬があるようなので質問させていただきたい」
「財務のことならこちらの財務のものに聞くがよい。叡州に使いをやって呼び寄せる」
黄玉照の声に苛立ちが混じり始めた。
「同行なされていないのですか」
「同行するようにとは言われておらん」
「わざと連れてきておられないのではないですか?」
「知らん! 財務のことなど岳告煙に聞け!」
面倒になったのか、大きな声を出し始めた。遠常の表情が変わった。
「ならば黄玉照よ。岳告煙を連れてこい!」
「陛下」
黄玉照が慌てて椅子から降り、床に両膝をついてひれ伏した。
「岳告煙は死にました」
遠常は無言で黄玉照を睨みつけた。
間引が帰ってこない。屋台はとうに店じまいをして帰途についている。宿舎になっている満珍邸店がある通りは大店が並ぶ繁華街で、もうどの店も店先の大行灯に蝋燭を明々と灯している時刻だ。
「どうしたのだろう。こんなに遅くなったことはないのに」
矢も楯もたまらず、帆翔は岳告煙の屋敷跡に向かって走り出した。岳告煙の屋敷は満珍邸店から一区画離れたところにあって、屋敷から火が出た当時は家々の屋根の向こうに煙と炎が見えた。火消しが駆けつけたが屋敷を取り囲んだ兵の多さに邪魔をされてか消火がはかどらず、鎮火してからも当時のもようは人々の口に上り、不穏な噂が消えなかった。
庶民の家と違って州の長官の屋敷ともなるとそうとう広い。高い塀に囲まれた焼け跡は真っ暗で、未だに焚火跡のようなきな臭い臭いが立ち込めている。その焼け跡の各所にかがり火を焚いて見張りの兵が立っていた。帆翔はその一人に駆け寄って胸にしがみついた。
「間引を知りませんか。ここで働いていたんですがまだ帰ってこないんです」
「そんなものは知らん」
兵は乱暴に帆翔を突き飛ばした。地面に転がされても帆翔は兵の足元に縋りついた。
「若い子です。もうすぐ十七になる子です。身体も小さくて、まだ帰ってこないんです」
「だから知らんと言っているだろ」
今度は足で蹴りつけてきた。長身の帆翔だったが、暴力とは無縁の世界で生きてきたので簡単に転がされた。立ち上がって、今度は別の兵に駆け寄った。同じように縋りついたがやはり邪険に扱われた。何人に聞いても同じだった。帆翔は宿舎に駆け戻って階段を上り、朱旦兼の部屋に飛びこんだ。着物を泥で汚し、髪を乱した帆翔の顔つきを見て、書を読んでいた朱旦兼は顔をしかめた。
「どうしたのだ。そんなに取り乱して」
「間引が帰ってこないんです」
朱旦兼は書を机に置いて立ち上がった。そのまま無言で部屋を出ていく。帆翔もあとに続いた。韓豊順の部屋はさらに上の階にあって、声をかけて扉を開けると薄氷、紀呂尽、束端羅も顔を揃えていた。帆翔は机を囲んでいる四人に声を張り上げた。
「間引が帰ってきません」
助けを求めるというより、お前たちが間引に余計な仕事をさせたからだという非難のほうが強かった。
「落ち着け帆翔」
韓豊順が叱るようにいった。
「配下の者に探させている」
「何かあったんです。でなければ、とっくにあの子は寝ている時間だ」
「探らせたら、夕暮れに小僧が逃げて行くのを見たという者がいる。間引は手がかりを見つけたのかもしれない」
「ど、どこで間引を見たんですか。探しに行かないと」
「いま探している。どちらにしても夜が明けてからだ」
「待っていられない」
「黄玉照の手の者より先に見つけないと、せっかくの発見物が取られてしまう」
韓豊順がいった。
「貴重な証拠かも知れない」
束端羅も相槌を打った。
「間引より大切なものはない! 間引は州内にいるのか、それとも州外に出たのか、どうなんだ」
帆翔が声を荒げた。
「州門で騒ぎがあったらしい。もしかしたら」
と、韓豊順。
「州外は探したのですか」
帆翔は韓豊順に詰め寄った。
「州門は閉まっている。とにかく夜が明けてからだ」
わあー、といきなり帆翔が泣き出した。へなへなと床に崩れる。
「泣くな。いい年をして」
朱旦兼が叱った。帆翔はさらに大きな声で泣いた。何かあったのだ。きっと怖い目に遭っている。かわいそうに。たった一人で、どこにいるんだ。間引。
ふらふらと立ち上がって帆翔は階下の自分の部屋に戻った。医薬品と包帯と手元にあるだけの銭と羽織るものを一枚、布にくるんで背中に括りつけ階下に下りていった。宿屋の者に銭をわたして松明を二本譲ってもらい、火をつけた一本を持ち、もう一本は腰の後ろに差した。間引の足跡を追うつもりだった。焼け跡から何かを発見して逃げたのなら、出発点は焼け跡だ。帆翔は間引を見つけるまで帰るつもりはなかった。地の果てまでも探す。必ず見つける。帆翔は宿屋を出て岳告煙の屋敷跡に向かって走り出した。




