第十六話 逃げろ
「父上、長旅さぞお疲れでしたでしょう」
室内に入ってきた黄玉照を黄曵絶は恭しく向かい入れた。息子と並んでも引けを取らない若々しい体格をしている。眼光は鋭く、貯えた髭は黒々とした艶を放っている。曵絶は上座に玉照を導くと家宰に茶を命じた。
皇都に居を構える曵絶の屋敷の格式の高さは黄一族の権力の象徴だった。贅をつくした建築もさることながら家具調度の華やかさは目を見張るものがある。広々とした敷地には奇岩を組み合わせた石庭があり、その向こうには舟が浮かぶ池に円月橋が掛かっている。寝殿を囲むように東対屋、北対屋、細屋、が渡殿で繋がり、家臣が詰める詰め所や使用人の長屋、厩や車宿などの建物が並んでいる。その豪壮な屋敷の最も格式の高い寝殿の奥で曵絶と玉照は向かい合った。
「陛下が参内を催促しております」
黄曵絶が声をひそめるようにいった。人払いをしているので声をひそめる必要はないのだが、父親があまりにも尊大だと、つい息子のほうが萎縮した。それでなくても叡州から皇都まで九日ほどの日程なのに、それをなんと四十日もかけてやって来たのだ。いくら何でもかけすぎだ。遅延した理由も、肩こり腰痛、下痢に食あたりと、理由にもならないこじつけばかりだ。父に代わって陛下への遅延の言い訳と謝罪に明け暮れた曵絶としては、やり過ぎだと文句の一つも言いたいところだ。だが、言えない。いくつになっても父親は怖かった。
「いかがなさいますか。明日にでも参内しては?」
「風邪をひいては参内もなるまい。陛下にうつしたらどうするのだ」
「こんどは風邪ですか。しかし、これまでさんざん日数を稼いでの皇都ですので、あまり日延べしても……」
「かまわぬ。どうせ叱責で済む話だ」
「だが、このたびばかりはなかなか」
曵絶の表情に不安がよぎった。
「臆しておるのか」
「叡州からの陳情の民三人が消えた真相を嗅ぎつけられたようです」
「手を下した者は始末したか」
「はい」
「よし。公金の着服などどうにでも言い逃れできるが、陛下は我らの兵の多さを警戒しておられる。くれぐれも油断するな」
「厄介なことになったときは、そのときは」
と、曵絶が迫るように玉照に身を乗り出した。
「こちらには孫の淋がいる。正当な皇帝の後継者だ。なにも心配することはない」
玉照はそう言うが、妹の貴妃は未だ淋の立太子を取りつけていない。父上がいうほど我らの基盤は盤石なのだろうか、と曵絶は不満の言葉を飲み込んだ。
「父上。叡州に置いてきた私兵五万ですが、密かに都のそばに待機させてはいかがですか」
「それはいよいよの時だ。兵を少しでも動かしたら陛下に討伐の機会を与えることになる」
「しかし、このたびの岳告煙の自死は」
「自死ではない! 失火による焼死だ」
玉照に強く睨まれて曵絶は黙り込んだ。
岳告煙の屋敷跡の太い柱や梁などを撤去し、炭化した家具を運び出したら、あとには細々とした燃え残りの山が残った。この燃え残りの中には銅銭はもちろんのこと、熱で変形した金属類も多々あって、それらはもう一度鋳つぶして使われるので丁寧に収集された。玉などは高温に晒されると亀裂が入ってしまうため使い物にならないが、火事場跡からは意外に多くお宝が手に入る。装飾品に使われる金などがあったりすると儲けもので、人足たちは監視している兵たちに見つからないように、こっそり懐に忍ばせたりしている。さっきも一人、のろまな男が真っ黒な小箱の中にあった金貨や銀貨を見つけて着服し、それが見つかって兵から袋叩きにされて外に放り出されていた。
間引は見ないふりをしながら一部始終を見ていた。そして、男を放り出して戻ってきた兵に近寄り、懐からひしゃげた簪の塊を取り出して手に握らせた。
「おまえは感心なやつだな。せっせと集めて持ってこい」
兵が簪をじゃらりと掌で転がしながらいった。
「へい、旦那。雇ってくれたお礼ですんで」
間引はぺこぺこ頭を下げて阿呆のように笑いながら瓦礫のところに戻った。間引はけして真正直な人間でもなければ阿呆でもない。媚びているのでもない。兵を油断させること。あいつは金目の物を運んでくる阿呆だと思わせること。注意の目を引かないように、実に注意深く瓦礫の山を捜索していった。
間引が燃え残りの残骸の中から分厚い金属でできた箱を見つけたのは、燃え残りの解体清掃が開始されて七日めのことだった。煤で真っ黒になった一尺ほどの箱は南京錠で施錠されており、振るとかさこそ音がした。間引はちょっと考えてから、さっきの兵のところに持っていった。兵は鍵のかかった箱を見て目の色を変えた。
「見つけたか。よくやった」
奪うように取り上げて、兵は満面の笑みを浮かべた。
「こいつは大手柄だ」
呟いて手下に持っていかせた。残った同僚の兵たちは忌々しそうにそれを見送り、人足たちに向かって「お前らもぼやぼやするな」と、怒鳴った。間引は、あの箱がどこに運ばれるか知っていた。兵の上役に手渡され、さらにその上役へと渡っていき、最後は黄玉照の手に渡るのだろう。その前に役所の保管庫に侵入して盗み取るつもりだった。
その日の夕暮れだった。炭の山を鉄鋤で掘っていたら一抱えもある銅製の壺が出てきた。横倒しになって炭の中に埋もれていた銅の壺は、熱であちこち変形していたが、持ち上げて振ってみると音がした。周りの瓦礫は書籍の残骸が多い。大きな机の燃え残りや椅子の形がそのまま炭になって残っていたりする。書斎だったのではないかと思われる焼け跡だった。書斎だったならば、厨と違って水壺や味噌壺や醤油壺などは置いたりしない。あるなら装飾用の飾り壺だろう。飾り壺の中に物など入れておくだろうか。もっとよく確かめたいと思ったとき、さっきの兵に声を掛けられた。
「そんなに大きいんじゃ隠して持って帰れないなあ。仕方がない。小僧、それを荷車に積んでおけ」
「へい。旦那」
間引は、再利用できる物をひとまとめにしている荷車に運んで行った。この荷車はいったん役所の集積場所に運ばれて、さらに使い物になるものとならないものに仕分けされる。荷車の上に放り投げようとして壺を逆さに振り上げたとき、分厚い帳面がぽろりと転がり出てきた。帳面の表面や角は燃えていたが、中のほうまでは火が届いておらず、ぱりぱりになった紙をそっとめくってみると細かい文字でびっしりと埋め尽くされていた。その中に黄玉照の名前が何度も書かれていた。間引ははっとした。素早くあたりを見回し帳面を懐深く押し込んだ。何食わぬ顔で荷車から離れようとしたとき、例の兵が声をかけてきた。
「小僧。いま懐になにか隠しただろ。いい物でも見つけたか」
「いえ旦那。なにもないですよ。あったら旦那にいつものように渡しますんで。へへ」
「出せよ。隠すところを見てたんだぞ」
「ないですったら。あはは」
嘘笑いをしながらじりじり下がった。
「素直に言うことを聞かないなら」
そう言って、脅しのつもりなのか腰の剣に手をかけた。その瞬間、間引は脱兎のごとく駆けだしていた。間引が逃げたので兵が呼子を吹いた。空気を切り裂くような澄んだ甲高い笛の音が鳴り響く。兵たちが集まってきた。
「追え。雑魚一匹殺してもかまわんから逃がすな」
兵の大声が、逃げる間引にも聞こえた。追ってくる兵は十五人。岳告煙の屋敷跡は州府の近くにあった。日が傾き始めた町の中を全力で走った。脇道に逃げこみ、店の中を突っ切って店員に怒鳴られ、追いつかれそうになって屋台の荷車を追手にぶつけて怒鳴られ、走りに走って州門を目指した。韓大将のところに逃げ込むわけにはいかなかった。韓大将の部下は二十人足らず。追手が州兵を呼んだら全員殺される。下手をすれば目障りな薄氷も束端羅も紀呂尽もだ。敵の陣地なら、殺したあとの言い訳などいくらでも捏造できる。それに何より、朱旦兼たち医療部隊に類が及ぶのを恐れた。医療部隊には帆翔がいた。帆翔だけはなにがなんでも守らねばならない。州門には門兵が五人ほど常駐していた。間引はその五人に向かって突っ込んでいった。
「奴を掴まえろ! 逃がすな」
後ろで追手が叫んだ。門兵が驚いて槍を構えた。
「止まれ」
門兵が槍を前に突き出してきた。間引は槍の穂先を足で蹴り上げて跳躍した。長い槍が意外な速さで間引を追って突いてくる。空中で身体を回転させて槍の穂先を逃がし、地に下り立つ。間を置かず州門を抜けて走った。早く暗くなれ! 間引は心の中で叫びながら走った。闇に紛れて逃げおおせたかった。だが、追手はひたひたと迫ってきた。激しい息遣いの隙間に馬の蹄の音がした。騎馬の追手だ。馬蹄の音は間引の疲労を増幅させた。このままでは追いつかれる。あたりは州城に近いため田畑が広がる田園地帯だった。平坦で見晴らしが良い。身を潜ませるところがない。焦りが疲労と共にじりじりと気力を蝕んでいった。動かす足も重く遅くなる。それでも懸命に走った。背中に一筋、焼けつくような痛みが走った。切られた、と思った。だが、まだ走れる。間引は歯を食いしばって速度を上げた。振り返る余裕はなかった。追手の怒声と足音が後ろにぴったりついてくる。それを追い越す勢いで馬蹄の音が大きくなる。間引は焦ってあたりを見回した。田畑に引き込む用水路の水の流れる音が聞こえた。残照は平地に点在する林の梢に沈みかけていた。小川くらいの用水路をたどれば大河に行きつく。逃げ込むなら川しかなかった。深い川なら馬は入れない。追手だって泳げなければ入れない。気力を掻き立てて走った。ひゅん、と矢鳴りの音がした。左肩に激烈な痛みがはしった。息を飲んで見てみると、矢が左肩の付け根を貫通していた。兵の走る足音はいつの間にか聞こえなくなっていた。追うのに脱落したのだ。その代わり騎馬が追ってきていた。間引は矢を抜こうとして思いとどまった。抜いたら大量に出血する。このままにしたほうがいい。とっさにそう思った。痛みで目が眩みそうになった。しっかりしろ。逃げろ。二の矢が来ないうちに逃げろ。そう叱咤して走った。大丈夫だよ間引、足は無事だろ、足が無事なら走れるさ。そう自分を励ました。子供の頃は軽業の親方にさんざん殴られたじゃないか。幼い子供の骨の細さには耐えられないほどの暴力だ。身体中の傷を忘れたのか。輪くぐりの刃で切れた傷跡は全身に散っている。よく生きていたものだ。我はもう大人だ。だから、これくらいの痛みは何でもないさ。走りながら自分に言い聞かせた。
二の矢が耳元をかすった。間引は、はっとして振り向いた。追ってきているのは二騎、二人とも馬上で矢を番えている。間引は用水路脇の背の高い草叢に飛び込んだ。草をかき分けながら走った。またもや矢が飛んできた。矢は草藪に刺さったが間引との距離は二寸しかなかった。身体を動かすたびに肩を貫通した矢が動いて痛みが体中に伝わる。息は火のように熱く、肺は燃えそうだ。力尽きるのを感じた。間引は薄れていく意識のまま、用水路に倒れ込んで水に沈んていった。
「追え! 草の根を分けても掴まえろ!」
男の怒声が、薄れていく意識の中で消えていった。




