第十四話 黄玉照 召喚
雨期が終わりに近づいてきて、小雨の合間に薄曇りになる日が増えてきた。大人たちは、あそこが痛いとかだるいとか、身体の不調を天候のせいにしているが、間引はいたって元気で今日も小雨がぱらつく中を傘もささずに診療所にやって来た。
「おい、帆翔。宇裕のやつがいないんだよ」
どこに行ったか知らないか、と診療所に顔を突っ込んで奥にいる帆翔に声をかけた。朱旦兼が顔を向けて睨んでくる。
「ここはおまえの遊び場ではない。失せろ」
慌てて帆翔が飛んで来た。間引の腕を引いて連れ出し、鼻覆いを取った。
「だから、ここに来ちゃだめだと言っただろ」
「だって、宇裕の姿が昨日からどこにもないんだ。何かあったんじゃないかと思ってさ」
「あいつのことなら心配しなくていいよ。あいつはもともと陛下の使いだから、私たちとは違うんだ」
「ふうん?」
よくわからないような顔つきで首筋をぽりぽり掻いている。間引の手をどかして帆翔は驚いた。赤い斑点が肌一面に散っていた。
「間引、ダニに噛まれているじゃないか!」
「うん。暇だからさ、二交河を見てきたんだ。そしたら、視察の役人が来たところは掃除されているけど、遠くのほうはあちこち洪水の後始末ができてなくて、家畜の死骸がほったらかしになっていたりして汚いんだよ。そこでダニに噛まれたみたいだ。でも平気だよ。我の血にはまだ毒が残っているから疫病には感染しないさ」
「何を言っているんだ。あれほど言ったのに。なんでおまえはそうなんだ。ちっとも言うことを聞かないで」
間引の両腕を掴んで揺すってくる。悔しそうな顔にも悲しそうな顔にも見える。
「そんなに怒ることないだろ」
「おまえに何かあったら、私は……」
声を詰まらせる帆翔に間引のほうが驚いた。
「どうしたんだよ。なぜ泣く」
「おまえには話したってわからない!」
急いで塗り薬を取りに行った帆翔に、「帆翔! 働け」と、朱旦兼が怒鳴った。
その夜、診療所から疲れて帰ってきた帆翔が、着物の上衣を脱ぎながら、机に突っ伏してうたた寝している間引を覗き込んだ。帆翔を追いかけて来た間引を陛下が許してくれたことを知って、朱旦兼が以前のように二人を同室にしてくれたのだ。間引が読み書き計算がろくにできないことを気にした帆翔が、遊んでばかりいないで勉強しろとうるさく言うので、仕方なく少しずつではあるが勉強することにしていた。帆翔はどんなに疲れていても、帰ってくると必ず間引の勉強の進み具合を確認する。ぼく頭をかぶっていない間引の髪を手で触りながら笑みを浮かべた。せめて、頭の上で髷を結えるくらいには髪を伸ばせと言ったら、膨れながらも言うことをきいて伸ばしはじめた。滑らかな頬やつまんだような小さな鼻が愛らしい。少し赤みがかった髪もだいぶ伸びて結えるようになった。高く結いあげた髪をぼく頭で隠してしまえばりりしい少年に見える。やがて間引が目を覚ました。
「おかえり。帆翔」
「だいぶ字を覚えたみたいだな。明日は計算を教えよう」
机の上に散らかした紙を見ながら言った。間引は眠そうにあくびをした。
「我はもう寝る。帆翔も休め。いつも師匠に働けと怒鳴られて疲れているだろう」
間引のせいなのだが、自分は寝台に歩いて行ってころりと横になった。またたく間に寝息が聞こえてきた。帆翔は笑みを浮かべて自分も寝台に横になった。感染者は減ることなく医療に追われてへとへとだが、疲れた身体を横にして目を閉じると間引の健やかな寝息が聞こえてくる。穏やかで、心配事など忘れてしまいそうな安らぎだ。帆翔は間引と共にいることの幸せを感じた。眠りに落ちる束の間、陛下も、もしかしたら、同じ安らぎを感じていたのかもしれないとふと思った。得難い安らぎ。手放したくない幸福感。陛下がそれを自分一人のものにしたいと望めば、自分は諦めるしかないのだろうか。そんな思いがよぎったが、疲れ切った身体は睡魔に負けて深い眠りに落ちていった。
朱旦兼は帆翔と数人の側仕えを連れて二交河にいた。韓豊順、紀呂尽、束端羅、薄氷、の四人もいて、さらに間引まで彼らの後ろを歩いていた。長官の岳告煙が兵を引き連れて朝廷の役人たちのそばを離れず、なんとか行く手を阻もうとしていた。
「もうだいぶお歩きになってお疲れでしょう。この先も同じような具合ですので、もうそろそろ引き上げてはいかがでしょう」
晴れてはいるが汗をかくほどの気温でもないのに太った頬に汗が流れている。岳告煙はあたふたしながら朱旦兼を押しのけて都の高官にすり寄った。河川の総督をしている束端羅が、白い髭を震わせながら岳告煙を睨みつけ、岸にひっかている牛の死骸を指さした。
「なぜ護岸を清掃しないのだ。この不潔な状態をそのままにしておくとは怠慢である。することは山ほどあるのに、一向に埒が明かない原因は何なのだ」
「働き手の男が少ないのです。人が集まらないから仕事が進みません。でも、ご安心ください。このあたりの汚物はすぐに片付けますから」
「流された橋の修復はどうした」
治水工事の専門家の紀呂尽も問い詰める。岳告煙の額の汗が増し始めた。
「修復したのですが、またすぐ流されてしまいまして」
岳告煙の言い訳を聞き流して朱旦兼は流れの淵に引っかかっている牛の死骸を見ていた。それは、枝や草が絡まって護岸のへりにくっついて小山のような状態になっていた。ハエが沸いていた。悪臭もする。虫がそこから出入りしている。見るのも不快な光景だった。
「あのような死骸は燃やすか埋めてしまわねばならぬ」
憤懣やるかたないというように朱旦兼が吐き捨てた。すると、そのごみに埋もれた牛の死骸から大きな鼠が数匹這い出してきた。それを見て間引が動いた。小石を拾って一匹の鼠に石をぶつけた。石は命中し、鼠は草の上で動かなくなった。間引は身軽に護岸の斜面を駆け下りて鼠のしっぽを掴んで帆翔に見せた。
「ほら、帆翔。鼠だよ」
「汚いから触るんじゃない。捨てなさい」
そう言いながら自身も斜面を下りて間引の横に立った。
「よく見てろよ。帆翔」
そう言うと、間引は鼠を川に沈めはじめた。まだ息があった鼠が水中で激しくもがいた。すると、無数のダニが鼠の体から逃げ出して水中に広がり水の色が変わった。
「ほらな。すごいダニだろ? 我はこいつが疫病の犯人だと思うんだよ」
「ほんとうにすごいダニだ」
気味悪そうに腕をさすってから帆翔は間引の手を叩いて鼠を川に落とした。鼠は顔を水から出して流れていった。帆翔が間引の手を引いて斜面を上ると、それを見ていた朱旦兼が難しい顔をした。
「帆翔、間引の言うことはあながち間違ってはいないかもしれん。鼠が様々な病気を運んでくることは知られている。その鼠の血を吸ったダニが人の血を吸って病気に感染するというのは十分あり得る。今まで患者の治療にあたることを最優先にしていたが、原因を取り除くことが重要だった。護岸の清掃と、鼠やダニの発生する場所、そして、家屋のダニの駆除。これをやってみよう」
帆翔は頷いた。
遠常は書院で宇裕が手に入れ書類の束に入念に目を通していた。それは、黄玉照が岳告煙と交わした証書や書類だった。
「宇裕の傷の具合はどうだ」
遠常の問いに墨を磨りながら高兆が答えた。
「深手で馬に揺られたため傷が開いてしまいましたが、今は手当を受けて命に別条はありません」
「宇裕の手柄である。しっかり養生させよ。傷が癒えたら神策軍の統領を命ずる。褒美である」
高兆は深く低頭した。書類の束を机に置いて遠常は高兆に顔を向けた。
「黄玉照を召喚する。手配せよ」
「はい」
高兆は深々と頭を下げた。ようやく黄玉照が網の中に入ったのだ。遠常はこの機を逃してはならないと思った。
「疫病の報告を読むと感染はまだまだ止みそうにないが、都に流入してきていないのが幸いだ。知らせによると原因の見当がついたようだ。同行していた小者の知恵らしい。小者の意見をきくとは、あの気位の高い頑固者にしては珍しいことだ」
「小者といえば、宇裕が言っておりましたが、間引が銭もろくに持っていないのに博打場に行ってすられ、宇裕に銭をねだったとか」
「あいつ。そんなに暢気にしているのか」
忌々しげに筆を乱暴に置いた。
「いい気になって遊んでばかりいるのだな。朕は少しも気の休まるときが無いというのに、とんでもない奴だ」
「陛下、筆が止まっております。急ぎの案件ですので続きをどうぞ」
「ううむ。朕は仕事ばかりしておるというのに、あいつは遊んでばかり。あいつは遊んでばかりだぞ!」
「陛下。筆が止まっております」
「ううむ。おもしろくないぞ」
黄玉照を追いつめる正念場だというのに、間引どころではないだろうと思ったが、高兆は聞こえないふりをした。
岳告煙はふくよかな身体を強張らせて、その人物を見つめていた。しわぶき一つない静かな邸内に蝋燭の芯が燃える音がする。息をするのも勇気がいるような緊張をはらんだ岳告煙の額には苦渋の汗が玉になっていた。机を挟んだ向こうにいるその人物が、人差し指で苛立たし気に机をとんと叩いた。それだけでめまいに襲われたように膝が震えた。
「そ、それは、しかし、私は命令に従っただけで」
岳告煙がひきつった声でそう言うと、相手の男が、こんどは人差し指と中指の二本で机を叩いた。二本で叩いたぶん音が大きくなった。岳告煙は自分が叩かれたように目をきつく閉じた。
「皇都に行かなくてはならなくなった」
静かではあるが、その声は地獄から聞こえてくるようだった。自分の落ち度ではない、密約や証書を盗まれたのはあなたの落ち度だ、と言い返したかった。その思いが顔に現れていたのだろう。その男が脅すように言った。
「今まで、十分甘い汁を吸ったであろう。どれほど財を貯えた。一族みな高い役職につき、女、子供、孫に至るまで栄華をむさぼったであろう」
岳告煙を追いつめてくる声はあくまでも静かだった。だが、圧力は並ではなった。その目付き、その貫禄。一声で何万という兵を動かすことができる権力者だった。
「そのほうの屋敷は兵で取り囲んだ。助けることができるのはそのほうだけだ」
静かな声がひたひたと追いつめてくる。岳告煙の頬が震えだした。
「一族皆殺しは、どうか、それだけはお許しください。これまでの忠誠に免じてせめて家族だけでも!」
「おまえの決心一つだ」
冷たい声には何の感情もなった。
「い、いつまで……」
「急ぐ」
「そんな」
岳告煙は言葉も出なかった。
暗い夜空を背景に、重厚な屋敷が紅蓮の炎に包まれていた。火が出た当初はおおぜいの使用人たちが消火に走り回っていたが、油をまいたような火の速さに恐れをなし逃げ出した。そして、まだ火が回っていない家屋に侵入すると我先にと家財を奪い始めた。強奪が続く中、火の勢いはとどまることをしらず、次々と屋敷を火の海に沈めていった。
「逃げろ、家財など放っておいて身一つで逃げろ」
岳告煙は、妻や息子、嫁と孫たちを火の中から外に追いたてたが、自身は逃げようとせず、屋敷の中に止まっていた。炎は床を這うように伸びてくる。その火は柱に移り天井まで広がっていく。何もかも、これまで苦労して築き上げてきたものがめらめらと音をたてて燃えていく。岳告煙は、家族だけは助けてくれるという言葉を信じた。無理にでも信じた。煙に巻かれて息もできず朦朧としながら、よろよろと書斎に歩いて行った。壁に穿った隠し穴から分厚い帳面を取り出た。それを持って、今朝、妻が花を活けた壺のところに行った。盛り上がるほどの花を飾った繊細な彫刻を施した銅の壺は、一抱えほどもある大きな壺だった。花は熱気のせいで蒸気を吹いていた。岳告煙はその花を腕で払った。たっぷりと入った水は湯になっていた。その中に手にした帳面を沈めた。水を入れた銅の壺が、崩れてくる柱や壁、天井に耐えて無事ならば、さらに、運よく水に浸かった帳面が燃え残り、そのままごみになるか、あるいは人の目にふれるか、さて、どうなるか……。このままでは悔しすぎると思った。
天井の梁が燃えながら落ちてきた。かの者は全焼した残骸の中から自分の死骸を確認するだろう。そう思って壺から離れた。壺を守りたかった。
岳告煙の家族は庭で岳告煙が屋敷から出てくるのを今か今かと待っていた。炎の勢いは強く、とてもではないが助けには行けない。岳告煙が自力で出て来るのをはらはらしながら待っていた。使用人たちは主だった人々を置いて、持てるだけの金目の物を持って門に駆けていった。だが、門の外には武装した兵がおおぜい取り囲んでいた。屋敷は一晩中燃え続けて明け方完全に焼け落ちた。焼け跡にはおおぜいの焼死体があった。門から出て逃げおおせたものは誰一人としていなかった。
間引は、明け方近く宿舎の満珍邸店に戻ってきた。着物から焚火の匂いがした。火事場から流れてきた煙の匂いだった。民がおおぜい集まってきた中に紛れて見ていたが、兵が槍をかざして追い払うのでいったんはその場を離れ、人がいなくなってから舞い戻って一部始終を見ていた。
いま、帆翔はぐっすり眠っている。そっと寝台にもぐりこんで帆翔に起こされるまで寝ていた。
早馬が皇都を目指して駆けていた。遠常は届いた速報を読んで、やられた、と思った。黄玉照は、すべての罪を岳告煙になすりつけてするりと網の中から逃げてしまった。遠常は呆然と自失した。




