第十三話 流域治水
掘り進めていた遊水地がそろそろいいだろうということで、そこに川の水を誘引することになった。紀呂尽と束端羅、それと監察御史の薄氷、州長官の岳告煙、州の役人などが護岸におおぜい集まっていた。様子を見にきた農民はみな不安そうな表情をしていたが、岳告煙は朝廷の役人の顔色を窺うばかりで治水には関心を示さなかった。
帆翔も治療の合間をぬって師の朱旦兼と共に見に来ていた。三日ぶりの曇天で、雨は昨夜から止んでいたが、川の表面が護岸ぎりぎりまできており、黄土色に濁って波立ちながら流れていく川は、まるで巨大な大蛇のようだった。
草の生えた護岸の上に立っている彼らの足元は湿っていた。土を崩したら、さぞ水の勢いは凄かろうと思われた。人々は、五人ほどの工人(労働者)が護岸の土を掘るのを見物していた。
危険な作業だった。護岸に唐鍬を打ち込んで少しづつ土をえぐっていくのだが、降り続いた雨のせいで護岸はぬかるみになっていた。一人が作業を監督し、残りの四人が唐鍬を土に打ち込むと、難なく土は掘り返される。掘り返されたところから水がぴゅっと吹き出してきた。帆翔は強い不安を覚えた。自分が立っている場所は、工事をしているところから離れているので安全だが、あんなに土が柔らかかったら水の力に負けて、あっという間に堰を崩して流れ出し、工人たちの足を掬うのではないか。そんな危惧に駆られる。だが、水位は限界に達しているので、後日、護岸が固まるまで待ってからというわけにはいかない。はらはらして見ていると、唐鍬を数度入れただけなのにいきなり大量の河水が堰を割る勢いで膨れ上がり、五人の工人たちを押し流した。
「危ない! 下がれ」
帆翔はそばにいた人々に向かって叫んだ。だが、見ている人々は騒ぐばかりで動こうとしない。そうしている間に護岸はみるみる削られて水がこちらの足元まで迫った。土が足の下で溶け始めた。あっという間だった。河水の水力は想像以上の圧力で人々を押し流した。薄氷、紀呂尽、束端羅、岳告煙らが、役人たちとひと固まりになって水に流されていった。叫ぶ間もなく朱旦兼と帆翔も水に飲み込まれた。濁った水で目を塞がれ、水流で身体が回転し、早い速度で流されて行く。息もつけないまま、見えないのに濁流の中で目を見開き、もがいて両手を振り回した。耳の中で轟音がした。鼻に入ってくる水の痛さ、口を開ければ水が塊で喉に突っ込んでくる。あまりの苦しさに悲鳴を揚げそうになったとき、ぐいと手首を掴まれた。強い力が身体を押し上げてくる。息が絶えそうになった時、奇跡的に顔が水から出た。帆翔は大きくあえいで咳込みながら空気をむさぼった。目を開けてみると、目の前に間引の顔があった。
「帆翔はどんくさいなあ」
そういって白い歯を見せて笑っている。帆翔は驚いて言葉が出なかった。間引が帆翔を抱えたまま濁流の流れに対して斜めに泳いで岸に向かった。右耳を水に沈めて横寝するような体勢をとり、左腕で帆翔を抱え、両足で水を蹴る。右腕で力強く水をかくと徐々に流れから抜け出し地面に足が付いた。
「どうしてここに」
息が乱れたまま帆翔は間引に取りすがった。
「話はあとだ」
そういうと濁流に目を戻した。朱旦兼がみるみる流されていく。間引は流れに飛び込み、カエルのように顔を水に出して朱旦兼を追った。沈みかけた朱旦兼の髷に手が届き、その髷を掴んで顔を水の上に出す。高齢の朱旦兼は息も絶え絶えだった。間引は朱旦兼の髷を掴んだまま横泳ぎし、岸に戻った。走り寄った帆翔が師に取りすがり呼吸を確かめたら、かすかに息があった。
「師匠、しっかりしてください。もう大丈夫ですよ。自力で息をしてください」
そう声をかけて朱旦兼の肩を軽く何度も叩いた。すると、ようやく朱旦兼が薄く目を開けた。
「帆翔……」
「間引が助けてくれたんですよ」
「間引が……」
見上げると、間引は犬のように頭を振って髪から水滴を飛ばしていた。
「なぜここに間引がいるのだ」
目を釣り上げて朱旦兼が睨んでくる。間引は肩を竦めて「帆翔、働け」と言わないだけましかと思った。そして再びあたりを見回した。游水地では流されてきた人々が溺れそうになっていた。
「宇裕のやつ、どこ行ったんだ?」
「宇裕って、彼も一緒なのか」
帆翔が朱旦兼を抱きかかえてよろよろと立ち上がった。
「うん。あいつは我の足の裏の飯粒だからな」
そんな訳の分からないことを言う。帆翔は宇裕も一緒だと聞いてまたもや驚きながら同じようにあたりを見回した。宇裕は紀呂尽と束端羅を助けてから、二人より若い監察御史の薄氷を水から引きずり上げているところだった。土木の専門家の紀呂尽は中年だったからまだ元気だったが、治水監督の束端羅は高齢だったので息も絶え絶えだった。いちばん水に浮きそうな体形の岳告煙が沈んだり浮いたりを繰り返していた。その岳告煙も岸に上げてから、宇裕はまた水の中に入っていった。泳げるものは放っておいて溺れそうなものだけ救い出している。二交河の水量は衰えることなく流れ続けた。
見立てでは遊水地から溢れたとしてもたいした被害はないだろうと踏んでいた。あくまでも流域治水は緊急措置なので、少しぐらいは誤算があっても仕方がないと考えていた。だが、思った以上に水量が多かった。水はどんどんあたり一帯を沼に変えていった。
ずぶ濡れの紀呂尽と束端羅はこのあたりの農地の損害を話しはじめた。幸い、人家の被害がないのだけはよかった。河水は一時辰(二時間)ほどして衰えていった。その間、宇裕は、監察御史の薄氷と何か話し込んでいたが、束端羅の疲労が激しく、紀呂尽が朱旦兼を支えて薄氷ともども四人は帰っていった。岳告煙はというと、真っ先に州兵にかつがれて帰っていた。
水に浸かって冷えた身体がこたえてくるころ、ようやく宇裕が戻ってきた。あたりにはもう人の姿はなく、広がる沼があるばかりだった。
「さあ、行くか」
相変わらず暢気な宇裕の掛け声で三人は歩き出した。
「宇裕、遊びに行こうぜ」
三日後、小雨の中、傘をさした間引が療養所の入り口で中に声をかけた。室内には疫病で苦しむ患者が大勢いるというのに、一向に気にした様子もない。患者の背中に軟膏を塗っていた帆翔は、入り口にいる間引に走り寄り、懐から口と鼻を覆う布を取り出して間引の顔につけた。
「ここに来てはいけないと言っただろ。鼻覆いもしないで。移ったらどうするんだ」
「平気だよ。ダニに噛まれなきゃいいんだ」
「ダニに噛まれると病気になるというのか」
「そうだよ。だって、みんなダニに噛まれているじゃないか。ダニが病気を持っているんだよ」
「簡単に言うんじゃない」
機嫌を悪くした帆翔が、邪険に間引を外に追い出した。そこへ、診療所の様子を視察していた宇裕がやって来て鼻覆いを外しながら話に入ってきた。
「どこに遊びに行くんだ?」
「決まっているだろ。州都だよ。叡州には陛下がいないから気分がいいんだ。向こうではいつも一緒で、寝るときも一緒なんだからな。ふざけてるよな」
布団から飛び出して寝ているくせにそんなことをいう。だが帆翔と宇裕はぎょっとした。
「陛下と寝るときも一緒とは、どういうことなんだ」
帆翔が目を釣り上げてきいてきた。
「だから、陛下の寝所で床に布団を敷いて寝ているんだよ。陛下が夜中に起きたりしたときもお世話せよ、って高兆じいさんが」
「それって……」
帆翔と宇裕は顔を見合わせた。
「だよな」
と、宇裕。
「だよね」
と、帆翔。ふつう司寝御侍は宦官の仕事で、陛下の寝所の支度や片付けなどをする役目だが、女官だと、陛下が病気で看護が必要な場合に床に布団を敷いて共に休み、夜中に水を欲しがったら水をだし、寒かったら布団を足し、汗で肌着が濡れたら着替えさせ、ときに求められれば夜の……。二人は大きく首を振った。
「まさか、間引に限って、ないない」と帆翔が言えば、「うん。こいつに限って、ないない」と宇裕も頷く。だが、と宇裕は間引を見つめながら言葉を続けた。
「こいつがここにいられるのは陛下が城門を通してくれたからなんだ。俺に守れと」
間引がぽんと手を叩いた。
「そうか。だから外廷の宮門で衛士に槍で刺されそうになった時、とっさに槍を引いたんだな。あれは危なかったんだ。危ないと言えば、黄貴妃を見たぞ。あのきれいさは異常だぞ。それと、馬の乗り方を教えてくれた二殿下は、あれはがきだな」
行こう、と間引は宇裕の手を掴んで引いた。帆翔の目の前で、一つの傘の中で寄り添った二人が雨の中に歩き出した。間引……、と去っていく間引に帆翔は呼びかけた。間引に置き去りにされるような気がした。
「帆翔、働け!」
診療所で朱旦兼が呼んでいた。
街に出ると間引の身体は弾んでくる。身体がじっとしていられない。雨粒まで傘に弾かれて転がっていく。そんなにひどい降りではないので通りには人がけっこう出ている。店の軒下では客引きが声を張り上げているし、酒楼から聞こえてくるのは陽気な音曲だ。賭場はひときわ活気がある。間引は吸い込まれるように賭場に入っていこうとした。
「待て待て。おまえ、博打をするきか?」
「面白そうじゃないか。行こうぜ」
「行こうぜじゃないよ」
しょうがない奴だ、と宇裕が間引の後ろ衿を掴んで引っ張った。
「何だよ。行きたくないならどこかへ行けよ。我は博打がしてみたい」
「銭はあるのか」
「あるよ。十銭」
「それっぽっちかよ」
「十分だろ」
そういうと止める間もなく賭場の中に飛び込んでいく。仕方がないので宇裕も傘を店先に立てて後に続いた。賭場の中は賭け台がいくつもあって壺振りがサイコロの入った壺を景気よく回していた。賭け台を取り囲んだ客が興奮した声で「大」「小」と、自分が賭けた目を叫んでいる。熱気と興奮で酔いそうな空気の中を間引は見て回る。ちょうど壺振りがサイコロを入れた壺を振り出したので間引も懐から銭を出して「大」と叫んだ。すると笑いが起こった。
「兄さん、たったの十銭かい。それじゃあ肉入りお焼きが五個しか買えないぜ」
笑われても間引は「大」を連呼した。壺振りが回すサイコロの音が早くなる。周りの男たちの声も大きくなる。そして壺振りが台に壺をばんっと置いた。「大!」「小!」の声が盛り上がる。壺を見る目が食い入るように大きくなる。息詰まるような瞬間。壺をどかした台の上にはサイコロが三つ。目は五、二、二。歓声と罵声が同時に起こった。
「宇裕、我は勝ったのか? 勝ったんだろ?」
「サイコロの目の合計を数えてみろよ。勝ったか負けたかわかるだろ」
「計算なんかできないよ。読み書き計算、全く駄目だ」
「おまえ、計算の仕方も知らないのか? あきれたばかだな。五、二、二、の合計が九だから、おまえは負けたんだよ。十一以上が大、十以下が小だ」
「ちぇ、負けたのか。宇裕、銭を出せ。次は勝つぞ」
宇裕は有無を言わさず間引を賭場から引きずり出した。だが、この一件のせいで間引はこの先帆翔から字と計算を叩きこまれることになるが、今は遊ぶことに夢中だ。
宇裕は傘をさしながら、逃げられないように間引の着物の帯を掴んで暢気に歩きだした。道を歩く人の身なりは皇都と変わらないし繁栄も変らない。だが、物陰には流民が目立ち、悲惨な物乞いも皇都より目立つ。繁栄と貧困が同居しているような街だった。
「なあ宇裕。ここの民は、富める者は富んでいるが、貧しいものはとことん貧しそうだな。都にはこれほど哀れな民は見なかったぞ」
帯を掴まれた間引が小さな声でそんなことをいった。陛下がこれを知ったら怒るだろうか、それとも悲しむだろうか、と遠く離れた遠常を思った。
いつしか大通りを過ぎていた。どこへ行くのかと思ったら、宇裕は大きな屋敷の前で足を止めた。黄家の屋敷だった。
「黄府か」
門の扁額を見上げて宇裕がいった。
「すげえ立派だな。皇都の黄府も立派だったよな」
「ここの屋敷には黄玉照が住んでいて、皇都の屋敷に住んでいるのは嫡男の黄曵絶だ」
「皇都の屋敷が黄玉照の息子の屋敷だとしたら、あれだな」
「あれってなんだよ」
「だからさ、皇都にいるとき、街でうどんを食っていたら目付きの悪い連中がいてさ、そこに身なりのいいおじさんが来てさ、卓の下で重そうな銭袋を渡して去っていったんだよ。会話が聞こえたんだ。叡州からの三人は掃除しておいたとか、書状とか言って、手紙と木牌をこっそり渡してたんだ。陛下がよく叡州のことを話していたから気になって、おじさんの後を付けたら黄家の屋敷に入っていったんだよ。おまえも覚えているだろ?」
「ああ、あれか。おまえは余計なことに首を突っ込むな。陛下に叱られるぞ」
「陛下か。どうしてるかな」
「恋しいか?」
「まあな。でも、陛下と遊ぶのはおもしろかったぞ」
ごつんと頭をげんこつで叩かれた。
「油断するな。陛下は人ではない。天である。心して仕えよ」
改まった言葉遣いをする宇裕は高兆の配下であることを思い出させた。間引は肩を竦めただけだった。
夜、宇裕は薄氷と韓豊順、紀呂尽、束端羅の五人で酒楼の一室で向かい合っていた。一階と二階は客たちで賑わい、音曲が奏でられ、舞台では踊り子たちが肌の露出が多い異国風のあでやかな衣装で群舞を踊っている。客たちの笑い声、甲高い嬌声、時々荒っぽい怒声も混じる。女たちの化粧の香料と酒と体臭がまじりあった空気。香炉から立ち上る紫煙。揺らめく蝋燭の明かり。だが、五人がいる三階の奥まった部屋にまでは喧騒は届かず静かだ。
卓の上には形ばかりの酒と料理。茶は飲んでも酒と料理に手を出すものはいない。家具調度は皇都と同じくらい、いや、同じに洗練されていて華美だ。州都には遊郭や酒楼、賭場、旅館などが多々あるが、それらは貴族が経営していて利益を得ている。州都の大型店舗はすべて州府の長官、岳告煙の名義になっていたが、実は真の所有者は黄玉照だった。
韓豊順が肩を怒らせて口を開いた。
「賭場、酒楼、遊郭、邸店などから得られる利益と、貴族に与えられた封戸の収入に加え、広大な私有地から得られる年貢が黄玉照の資金源になっていて、黄玉照はなんと五万の私兵を養っている。さらに叡州の州兵二万を加えたら七万の兵を動かせる。それに加えて、黄玉照の嫡男の黄曵絶は一万の私兵を持っている。皇都は北方を守るのに兵を取られて、いま皇都を守っている兵は四万だ。謀反を起こされたら皇都は簡単に落ちる」
そういって、韓豊順は卓に拳を叩きつけた。卓に置いた箸が跳ねた。
「黄玉照の収入源はそれだけではありません。河川を行き来する商船からも高額な税を取っています」
宇裕がいうと束端羅も口を開いた。
「まだあるぞ。黄玉照は護岸の曵舟橋の資金を着服しておきながら着工もしていない」
「たちの悪いことに役人が工人の給銀の上前を跳ねていても黙認している。役所全体で汚職すれば怖いもの無しだからな」
と、薄氷。
「だが、今回は監察の薄様が朝廷から派遣されたので少しは慌てているでしょう」
宇裕が言うと紀呂尽が憤懣やるかたないというように頷いた。
「叡州に向かっているときに襲ってきた賊どもは、給銀をもらっていなかった工人たちの集まりだったというではないか。黄玉照はどこまで朝廷を愚弄する気なのだ」
「愚痴を言っても始まらぬ。叡州は黄玉照に握られている以上、朝廷に取り戻さねばならぬ。それが陛下に遣わされた我々の任務だ」
薄氷が呻くようにいった。
「証拠が必要です」
宇裕が四人の高官を見回して韓豊順に視線を止めた。
「韓様。腕の立つ配下を三人貸してください。黄玉照の屋敷に忍びこんでみます」
「よし。手配しよう」
五人は杯を掲げ、飲み干した。
更深の頃、街は寝静まり、物音一つなく、月の明かりが建物の屋根瓦を照らして暗い路上に物の影を落としていた。家々は固く戸を閉ざして漏れる蝋燭の明かりさえない。ときおり犬の遠吠えが聞こえ、猫が暗がりから暗がりに走って行く。その路地を四人の黒装束の男たちが激しい息遣いで走っていた。それをおおぜいの兵たちが追っていた。逃げている男たちの一人は手負いと見えて身体の動きがおかしかった。その手負いを守るように三人の男たちが付き添って走っていた。兵たちがじりじりと距離を狭めていった。最後尾を走っていた黒装束の男が、仲間を逃がす時間稼ぎをするために立ち止まった。切り合いが始まったが、追手の兵は数人残して、逃げた三人を追いかけて行く。三人の男たちはついに追手に追いつかれ、剣を抜いた。兵たちの剣が次々に襲ってくる。剣と剣がぶつかる物々しい音が響き、その剣に月の光がきらめく。兵に囲まれた男たちは剣の使い手だったが相手が多かった。一人が倒れ、もう一人が手負いの仲間を突き飛ばして、兵が振り下ろした剣から助け、相手に立ち向かっていった。その隙に、手負いの男が乱闘から逃れて闇の中に逃げ込んだ。戦っている仲間の静かな断末魔の気配を背中に聞きながら、負傷した腹を手で押さえて男は逃げた。その男は半時辰(一時間)後、馬に乗って街道を皇都に向かってひた走っていた。




