第十二話 黄貴妃は嫣然と笑う
懲りずに逃げ出しては苛帆翔のもとに走って行こうとする間引という娘を、自分はどうしたいのか、どうするつもりなのか、遠常は自分でもわからなかった。親子ほども年が違う。身分の差は天と地だ。だが、この娘には年齢の差も身分の差も意味を持たない。そのようなものは間引にとって無価値なのだ。遠常にはそれがわかった。間引にとって価値あるものは苛帆翔だけなのだろうか。
いま間引は、遠常の寝所の一角で床に布団を敷き眠っていた。始めの頃は警戒してこちらに背を向け、身を守るように丸くなって眠っていたが、なにも起こらないとわかると、だんだん警戒心が薄れていって、今では枕などどこかへ飛ばして布団を蹴り、眠りこけている。
健やかな寝息が聞こえる。寝顔はまるで子供のようだ。あどけなくて、邪気などみじんもなく、健康な眠りの中で楽しい夢を見ているようだ。燭台の蝋燭の灯が揺らめく中で、遠常は夜具の上に身を起こしてじっと間引の寝顔を見ていた。
「陛下、黄貴妃様と二皇子殿下がおみえになりました」
高兆がやってきて二人の来訪を告げた。遠常は書院の机で報告書を読み終え、指示を紙に書き込んでいた。筆の手を止めずに「通せ」と返事をした。相変わらずの宦官姿で遠常の脇で硯の墨を磨っていた間引は、黄貴妃ときいて思わず入り口のほうを見てしまった。
「ねずみ、お前は奥の間に下がっていよ」
遠常がそういうのでがっかりした。あの黄玉照の娘がきたのだ。どんな女か見てみたかった。
「間引よ、ぐずぐずするでない」
高兆が怖い声を出したが、好奇心には逆らえず墨を磨り続けた。遠常がちらりと間引を見た。
「そんなに気になるのか?」
返事をしないでいると黄貴妃が遠淋と侍女たちを従えて入ってきた。黄貴妃は背が高かった。髪は高く大きく複雑に結いあげ、色とりどりの玉を散りばめた大きな金の冠を付け、身に着けている衣装は宮廷職人たちが何年もかかって完成させたであろう絢爛たる総刺繍。化粧も目を見張るほど美しい。間引はあまりの美しさに息をするのも忘れてしまった。それほど黄貴妃は輝いていた。
歩くのではなく、侍女の腕に手を添えて、静かに床を滑るような流麗な身のこなし。口元に浮かぶ微笑みは天女のようだ。まっすぐ遠常を見つめて近づいてくる黄貴妃に、間引は心が吸い取られるような心地がした。
「陛下」
左腰に両手を添えて、かるく膝を折って挨拶する黄貴妃の、小さな赤い唇からこぼれた声は蜜のようだった。
我とはまるで違う。我が泥の塊なら、この人は天界の仙女だ、と思った。墨を磨るのも忘れて見とれていると小さい笑い声が起こった。遠淋だった。
「そこの内臣。顔を上げて堂々と貴妃様のご尊顔を拝するとは無礼である」
言葉では叱っているが笑っていた。あまりにも我を忘れて見とれていたからだ。間引ははっとして拱手し跪いた。
「お許しください。あまりにもお美しくて」
黄貴妃は間引など最初からいない者として遠常を見つめたまま笑みを深くした。
「このところ華蓉宮においでにならないのでお顔を見に参りましたの。淋も行きたいと言うので連れてまいりました」
黄貴妃が後ろに控えている侍女に合図を送った。侍女が捧げ持っていた盆を黄貴妃に差し出す。盆の上の蓋のついた青磁の器を手に取り、優雅な身のこなしで机の上に置いた。
「菓子を作ってまいりましたの。茶を入れますから、すこし休憩しましょう」
高兆が側仕えに言いつけて椅子を二脚持ってこさせて自身は茶の支度をはじめた。間引は跪いたままだった。立ってよいと声がかかるまで立つことは許されない。黄貴妃の代わりに遠常が「よい」と声をかけてくれてようやく立つことができた。
ふわりと椅子に掛けながら、その様子を見ていた黄貴妃が口を開いた。
「陛下がねずみをお飼いになっているという噂があるのですけど、本当ですの?」
遠淋が椅子から身を乗り出した。
「驚きました。猫とか犬ではなく、ねずみ、ですか。見てみたくて母上についてきたのです。どこにいるのですか、そのねずみ」
どこにいるのかと聞きながら間引を見ている。知っているぞ、という目だ。
「ねずみなど飼ってはおらぬ」
「父上。大きなねずみだそうではないですか」
「そのねずみは寝所にも出るそうですわね」
と、黄貴妃。黄貴妃も間引を見ている。間引はうつむいて遠常から少し離れた。遠淋がどういうつもりか皿から菓子を一つ取って間引の顔めがけて投げつけた。その菓子をひょいと掴んだ。掴みながら、親子だけあって人に物をぶつけるところはよく似ていると思った。遠淋の表情がぱっと明るくなった。
「ほんとだ。すばやいな。やはりおまえがねずみだな! ほかに何ができる?」
十五歳の遠琳を見て、こいつ、がきだな、と間引は思った。間引は手にした菓子を背中に回して垂直に高く高く放り投げた。落ちてくるまで下を向いて腰を屈め低頭していた。そして、投げたところと寸分変わらぬ位置に落ちてきた菓子を後ろ手に受けて、そっと皿に戻した。柔らかい梅の形をした菓子は崩れることなく皿に収まった。
「ほかにも何かできるか!」
目をきらきらさせて遠淋が催促した。
「煩い奴らだ。お前たちは向こうで遊んでおれ」
遠常がいった。
「行こう。馬の乗り方を教えてやる」
遠淋が椅子から立ち上がった。間引は遠常を窺った。遠常が頷いたので退去の礼をして遠淋について行った。
「陛下、あの官臣は何者です。毛色の変わった宦官ですこと」
見透かしたような黄貴妃の笑みを遠常は睨み返した。
「あの者は、朕直属の側仕えである。貴妃の管轄にはない者だ」
「わたくしの管轄にないということは、後宮宦官ではなく外廷宦官なのですか?」
陛下の身の回りのお世話をしているのに? と、黄貴妃がねっとりと尋ねた。後宮の最高管理責任者は皇后だが、皇后不在のため、次席の黄貴妃が後宮を取り仕切っていた。その、後宮最高権力者の黄貴妃からしだいに笑みが消えていった。
遠淋に乗馬を教えてやると言われて間引はほいほいついて行った。馬場は外廷の広大な敷地の中にあって、歴代の皇帝は競馬を好み、よくここで競馬の催しをした。打球もここで行われた。遠常は馬の改良にも着手していて、波斯国の馬との交配でより大きく強い馬を生産しようとしていた。
厩で遠淋が間引に選んでくれた馬はおとなしい牝馬で、遠淋は自分の馬を持っていたのでその馬を出してきた。
馬は近くに寄ると大きくて背が高い。鞍の鐙でさえ間引の背丈には高くて、鐙に足を乗せるだけでも一苦労だ。面倒になって、鞍を掴んでぽんと地を蹴り馬に乗った。
「馬は初めてではないのか?」
自分の馬の手綱を引きながら遠淋がいった。
「初めてです。二皇子殿下」
「初めてなら手順を面倒がってはならぬ。何事も基本が大事だ。もう一度乗り直せ」
おや、性格はきちんとしているんだな、だけど、すぐ手が出るのは親父譲りだ。そんなことを思いながらせっかく乗った馬を下り、言われたように馬の手綱と鬣を一つにして握り、鞍の前橋に軽く添え、右手で鞍の後橋を掴んできちんと左足を鐙に乗せた。反動を利用して鞍に乗る。遠淋が良しと頷いた。すぐさま走らせたかったが、遠淋が指導し始めた。馬の歩かせ方、止め方、曲がり方。初歩中の初歩だ。だが、間引にはそれで十分だった。十分というより、それ以上はじれったくて聞いていられない。間引は両腿できゅっと馬の腹を挟んで馬に合図を送ると、鐙に乗せたかかとで馬の腹に直角に軽く蹴りを入れた。馬は軽やかに走り出した。慌てて遠淋が馬であとを追ってくる。
「気をつけろ。初めてなのだろ。落ちるぞ」
「そんなへまするかよ」
間引は馬の腹を強めに蹴った。馬の速さが増した。そのまま馬場を抜けだして外廷の宮門に向かった。馬場をかってに出たので遠淋が驚いて後方でおおきな声を出していた。
外廷には重要な建物がたくさんある。宮城を守る警備の兵もおおぜい随所に立っている。警備体制は厳重で、何かあったらすぐさま情報は全部署に伝達される仕組みになっている。警備の衛兵が、外廷に乱入した馬に気づいてすぐさま駆けつけてきた。剣を抜き、槍を構え、次々と集まって来る。この時点で外廷の宮門にはおおぜいの衛兵が集結してしまった。だが間引は馬の勢いを緩めなかった。
間引は外廷の宮門を目指してさらに馬を煽った。外廷の宮門の突破に成功すれば、次は都の大通りを突っ切って城門を出る。そうすれば城外に出て一目散だ。間引は手綱を握りしめて鐙にかけたつま先に体重をかけ、腰を浮かせて前傾姿勢をとった。風が耳を叩くように吹き付けてくる。目を見開き、前方に集中した。後方で遠淋の叫ぶ声がした。
「陛下」
黄貴妃との会話中にもかかわらず、高兆が耳元で囁いた。遠常がしばし沈黙する。
「間引が馬で馬場から逃走し、外廷の宮門に向かっています」
少し考えてから遠常がいった。
「行かせよ。宇裕を護衛につけよ」
頷いて高兆はその場を去った。黄貴妃の勘は鋭い。ねずみをここに置いておくのは危険だ。とっさにそう思った。遠常は何事もなかったように黄貴妃に向き直った。黄貴妃は遠淋を立太子にと希望していた。立太子とは公式に皇位継承者と定めることである。遠常には遠淋のほかにも皇子は四人いる。皇女は二人だ。どれもまだ小さい。順当なら遠淋が皇太子になるのは自然の流れだ。だが、遠淋はまだ十五歳だ。下の皇子たちが成長してから彼らの資質を見極めてからでも遅くはない。それに、これ以上黄一族に力を持たせるのも考えものだと思っていた。
「淋はどうしたかな。遊び相手に逃げられたようだが」
茶化すように言って立太子の話題を避けようとした。
「あの者は遊び相手にもなりませんわ。だって、人ではなく卑しいねずみですもの。こんど淋のそばをうろちょろしたら、殺してしまいましょう」
そういって黄貴妃は嫣然と笑った。たしかにこの皇宮では召使いの身分は低い。皇族だけではなく高官、貴族にとって、彼らは買い替えのきく道具に過ぎなかった。ましてや宦官など人扱いされていない。黄貴妃に目をつけられたら宦官の命など紙のように吹き飛んでしまう。さらに女だと偽って宦官になりすましていたとわかったら死は免れない。その間引が逃げていった。逃げるが良い。だが、遠常は間引を手放す気はさらさらなかった。
外廷の宮門には、おおぜいの衛兵が槍と盾を構えて待ち構えていた。研ぎ澄まされた何本もの槍の穂先が陽光にぎらぎら光っている。馬で飛び越えても柄の長い槍の刃が間引の身体を貫くだろう。だが、決然とした間引の表情に恐れはなかった。急所さえ外れれば、何とかなる。痛みなど一時だ。間引は宮門を塞いでいる衛兵の群れに強引に突っ込んでいった。
「行かせよ! 陛下の命令だ!」
後方で衛士の大声が届いた。間引の腹に槍が刺さる直前だった。驚いた兵がとっさに槍を引いた。宮門を突破することができて間引は繁華な都の大通りを駆け抜けた。次は城門だ。遠常から連絡がいっていることなど知らないので、城門にも兵が待ち構えていると思っていたが兵はおらず、門衛はすんなり脇にどいて通してくれた。気抜けしたが城門を出てしまえば城外だ。街道がはるか先まで伸びていて、田園が広がっている。田には水が張られ稲が育って、やわやわと風になびいている。いつの間にかぼく頭は脱げてしまって頭が軽い。若緑の大海原を風が音をたてて吹いていた。馬上で髪を風になびかせて間引は叫んだ。
「待ってろよ、帆翔!」




