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第十一話 ししんぎょじ、って、なんだ?

 どうして帰してしまったのだろう。せっかく自分のあとを追いかけてきたというのに、帰してしまった。たった一人で、どうやってここまでたどり着いたのか。ちゃんと宿屋に泊まれていたのだろうか。埃にまみれ、顔や手に切り傷をつくって、頬など削げてしまっていた。ふっくらした、かわいい頬だったのに。

 帆翔は自分を殴りたくなった。でも、仕方がない。叡州は今、危険な状況だ。帆翔はそう自分をなだめるしかなかった。

 一行が州城の門をくぐって街の中に入ると、まるで都かと思うような繁華な広がりを見せていた。通りを歩く人々の様子を見る限り、街は繁栄しているように思われ、疫病の不安などどこにもないように見えた。朝廷からの薬品や支援物資の荷駄を引きながら、一行はその様子に困惑を隠せなかった。一行は州府(州の役所)に案内され州長官の岳告煙がくこくえんに迎えられた。岳告煙はたっぷりと太った温和な顔立ちで声も柔らかかった。

「長旅ご苦労でございました。さぞお疲れのことでしょう。皆様の宿舎は用意しております。まずはそちらでお休みください。夜は歓迎の宴を用意しておりますので」

 揉み手をせんばかりの笑顔に韓豊順ばかりでなく、朝廷の官吏たちも顔をしかめた。剛直な朱旦兼が薄氷や束端羅、紀呂尽を差し置いて前に出た。

「宴会をしに来たのではない。疫病はどうなっておる」

 けんか腰ともいえる態度だったが岳告煙は笑顔を絶やさない。

「心配なさらずとも城内は安全です。疫病は城外で発生したので城門さえ閉じてしまえば安全です」

「なんですと。城外とはどこだ」

 朱旦兼がまなじりを釣り上げた。

「まあまあ、そう急がずとも」

 岳告煙がなだめながら両腕を広げ、全員を押し出すようにした。

「とにかく宿舎にご案内しますので、さあさあさあ」

 様子を窺っていた州府の役人に岳告煙が目配せすると、おおぜいの役人たちが荷駄をかってに動かし始めた。慌てて韓豊順が自分の兵を連れて後を追う。医療班もそれに続いた。薄氷と束端羅と紀呂尽の三人はそのまま州府に残った。三人は険しい顔をしていた。

 機嫌の悪い朱旦兼の後ろで荷駄を押しながら、帆翔は城内ではなく城外が疫病の発生源とはどういうことだろうと考えていた。一行は州府から離れた、商人を対象とした倉庫付きの大型旅館、満珍邸店に案内された。朱旦兼は、荷ほどきは後にして帆翔に街に出て、歩いている人を掴まえて疫病のことを聞いてこいと命じた。州府に戻って岳告煙に直接聞けばいいようなものだが、のらりくらりとした岳告煙の態度を見るかぎり信用ならないものを感じたからだ。結果、疫病は城外に広がる田園地帯で発生したことが分かった。ひえ(あわ)(きび)、米、麦、大豆、それと、様々な野菜を生産する地帯に疫病が発生したということは、そのうち生活に大きな影響を与える。朱旦兼は暗澹とした。そして、宴会などと暢気なことを言う州長官の岳告煙の態度に怒りを覚えた。

 韓豊順も部下に現状を調査させたら、病人は州城から締め出されて入れてもらえず、医者や薬剤にも困窮していることがわかった。被害は徐々に二交河流域に拡散しつつあった。一刻も早く現場に行きたかったのだが、調査が短時間で終わるわけもなく、結局韓豊順の指示で荷駄はそのままにして、その日は満珍邸店に泊まることになった。翌日城外に出て現場を見に行くことにして、その夜は疲れ切った身体を寝台で休めることなったのだった。


 夜、間引は洗濯場の川を川上に歩いて行って城壁のところまで来た。高兆は通行牌を貸してくれなくなってしまったし、ちょっとでも姿が見えないと大勢の宦官が探し回って遠常のところに連れ戻されるのでほとほと困っていた。間引が姿をくらますごとに遠常の監視が厳しくなり、宮中を抜け出そうとする間引と、掴まえようとする遠常の追いかけっこが始まっていた。

 遠常のもとには絶えず御史台や刑部からの報告があり、叡州からの情報も届くので、間引は報告者のあとを追って帆翔はどうしているか聞いてみるのだが、当然のことながら誰も帆翔のことは知らなかった。だが、遠常への報告で、医療部隊は州城の外の村落に仮設小屋を立てて仮の診療所を開いたこと、罹患者を出した村から離れたところにある別の村にも感染者が出たこと、さらには二交河の向こう岸にも罹患者が発生したことなどを知ることができた。死者の数も増えているようで心配でならない。真面目でずるいことなどできない帆翔だから、きっと無理をしているだろうと思うと心配が募った。

 間引は宮城のあちこちに抜け穴を見つけていたので、遠常が妃嬪のところに通っている夜に抜け出すことにしていた。だが、いつも宇裕が邪魔をした。どんなにうまくやっても宇裕は足の裏にへばりついた飯粒のようにくっついてくる。いつか、あいつをぼこぼこにしてやる。そう決めている。そして、今度こそ宇裕を出し抜いて逃げてやる。待ってろよ、帆翔。

 月も星も厚い雲に隠れる闇夜だった。川の風はいつも軽やかだが、今夜の空気は重かった。じっとりとまとわりつくような重さだ。雨期が近い証拠だった。今頃叡州は雨に飲み込まれているだろう。二交河がまた氾濫すれば厄介だ。治水工事の専門家の紀呂尽の報告では、堰堤は遅延しているものの、三県先まで伸びており、灌漑の用水路も二県まで終了しているというが、曳舟橋ひきふねはしが手付かずだという。川を利用した物資の輸送は都市経済には不可欠なものだが、下った舟を川上に戻すには牛や馬を使うが、場所によっては人力が必要になる。順風なら帆を張れるが、逆風なら人が舟に括りつけた綱を引いて川岸や川の中を歩いて遡っていくのだ。遠常はその負担を減らすために、護岸に曵舟橋を造ろうとしていた。増水しても橋が流されないように石で造るのだ。堤防といい、田畑のための用水路といい、曳舟橋といい、国を挙げての大工事ではあるが遠常の悲願でもあった。

 常に遠常のそばにいて、そういう話を聞かされていたので、間引には難しくてよくわからないながらも叡州が雨期に入ったらいろいろ大変なんだろうなということぐらいはわかった。陛下も大変だけど、きっと帆翔はもっとたいへんな思いをしているだろうと思った。苦しむ人を見過ごせない人だから、疲れても無理をしているだろうと思った。

 間引はするすると袍を脱いだ。脱いだ着物は、丸めて油紙にくるんで腰に括りつけて川の中に潜るつもりだ。水中に張られた鉄柵の壊れた個所から抜け出せば宮城の外に出られる。少しは濡れるだろうが、それを着て夜を走ろう。間引は長衣の紐に手をかけた。

「そこまでだ」

 声がした。

「宇裕」

 竹林の暗闇から宇裕が浮かび上がってきた。

「こりない奴だな」

 宇裕が言い終わらないうちに間引は川の中に飛び込んでいた。宇裕が川岸に歩いていく。おもむろに腕を組んで真っ暗な川面に目を凝らす。そして静かに笑い出した。その笑い声が大きくなって川面に響くと間引の頭がぽっかりと浮上した。

「壊れた柵はとっくに修理したんだよ。残念だったな」

 宇裕の勝ち誇った哄笑が川面に響いた。


 悔しそうな間引が、碁盤の前でのんびり茶を飲んでいる遠常の前に、ずぶ濡れの姿をさらしていた。床に正座し、両手を膝について項垂れている。着物から滴る水が床に溜まり始めていた。

「なんで、ここにいるんだよ。妃嬪のところに行ったんじゃないのかよ」

 身体を揺らして小さな声で呟いたら途端に黒碁石が飛んできて間引の頭に当たった。

「いてえな」

 当たったところを手でさすった。また飛んでくる。今度は肩に当たった。今度は悪態はつかなかった。すると次は胸に当たった。次々と飛んでくる。間引は頭を抱えて床に伏せ、上目遣いで遠常の顔色を窺った。怒っていた。ものも言わないということは本当に怒っているのだ。高兆が空になった茶碗に茶を継ぎ足した。熱い茶を一口すすって遠常は席を立った。遠常が寝所に姿を消したあと、高兆が怖い顔で口を開いた。

「今夜からおまえは陛下の司寝御侍だ。湯浴みしてから陛下の寝間へ行くがよい」

「ししんぎょじ、ってなんだ?」

「陛下の寝間の支度や夜間のお世話をするのだ」

「ふうん?」

 首を傾げる間引に高兆は言葉を添えた。

「湯浴みのお世話もだ」

「ふうん」

 いよいよもって赤ん坊だな。風呂も一人で入れないのか。そんなことを思っていると高兆が「今夜から陛下の寝間で寝よ。布団は床に敷いて、いつでも陛下のお声がかかったら起きてお世話するのだ。よいな」と、いった。

 念を押されたが返事をしなかった。嫌な予感がした。

「心してお世話せよ。それがお前の仕事となったのだ」

 きつく睨まれて、間引は言葉もなく頷いていた。

 その夜から遠常は間引をからかわなくなった。おもちゃ扱いしていたのが嘘のように冷ややかで近寄りがたい。皇帝であることを、間引は徐々に実感していった。


 二交河の濁った川面が大蛇のように膨れ上がっていた。しとしとと降る雨だったが止むことなく十日も降り続いていた。川が溢れるのは時間の問題だった。二本の川が一本に合流する地点の一番危険な箇所は十年前に川幅を広げて護岸を高く盛り上げてあるので、その場所で水が溢れることはなくなったのだが、川を全長広げる、あるいは蛇行しているところをまっすぐにする捷水路の工事が遅延していた。

 治水工事の専門家である紀呂尽と束端羅は、叡州の河川の担当者と二交河を歩いて見て回り、緊急の措置として流域治水を命じた。流域治水とは、堰を壊してわざと水を溢れさせて田畑や農家を水害から守る措置のことで、堰を壊す場所は広い窪地が選ばれた。言い訳だらけの地元の役人は、朝廷からの高官には逆らえず、雇った工人(労働者)たちに命じてまず水を貯める遊水地作りからはじめた。

 遠常が要望している河川の曳舟橋などまったくの手つかずだし、着工から十六年もたっているのに工事の進捗は遅く、このたび派遣された束端羅と紀呂尽は、その原因が多岐にわたることを知ることになった。蓑傘をつけてぬかるみを掘っている工人に話を聞こうと近づいて行くと、地元の役人が素早く遮り工人を追い払った。おおぜい働いている工人たちは朝廷からの官吏二人を遠目で窺うだけで覇気がなく、雨に濡れそぼり、寒さに身を縮め、泥に足を取られながら黙々と働いていた。

 医療班はというと、村の外れに建てた仮小屋の診療所に感染者を収容して治療にあたっていた。雨が降っているので肌寒いはずなのに、どこでダニが沸いたのか、患者はみな全身ダニに噛まれていた。針でついたような小さな赤い斑点が隙間もなく広がる全身を見たとき、思わず帆翔は鳥肌が立って診察していた手を引っ込めてしまった。帆翔はそれを恥じた。医師として恥ずべきことだと思った。

 診療所に並べた寝台は全部埋まっているが患者は増える一方だった。感染を防ぐには隔離すること。そのために兵たちは剣を持つ手を大工道具に替えて、雨の中、診療所の仮建設に励んでいた。みな疲労していた。荷駄に積んできた薬剤がどんどん減っていく。

 患者は三日から七日の潜伏期間を経たのち首の付け根や両脇の下、鼠径部が腫れて炎症を起こした。発熱、頻脈、促迫呼吸などを経て全身の臓器が侵される。脈がどんどん弱まってくると痙攣が始まり、やがて死に至る。

 朱旦兼は病名の確定に懸命だった。帆翔は治療に追われながら、ダニのひどさが気になった。もしかしたら、このダニが原因ではないだろうかと思った。夏にはまだ間があるが、雨続きでも屋内は蒸すせいで蚊も沸いている。側仕えに言いつけて蚊いぶしに丁子ちょうじの乾燥花蕾を焚かせた。

 ダニからの感染症というのはあるのだろうか。手を休めてそんなことを考え込んでいたら新たな患者が運ばれてきた。帆翔は立ち上がって急いで患者に走り寄った。鼻と口を覆っている布が取れそうになって慌てて紐を締めなおした。頭には髪が全部隠れる帽子をかぶり、身体を覆う上着を着て、手には防水を施した手袋をつけている。なるたけ肌の露出を避け、患者の体液がかからないように気を付けているが、呼気からの感染もあるため油断できない。運び込まれた患者は静かで浅い呼吸を繰り返していた。瞳孔を見ると開きかかっている。全身ダニに血を吸われた跡がある。まだ若い男の患者は、二交河の護岸の整備をしていたという。帆翔は一度この目で護岸を見に行かなくてはだめだと思った。

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