第十話 再び都へ
「いつまでふくれているんだ」
間引の両手を縄で縛って、縛った先をくるくる回しながら宇裕が後ろを振り向いた。間引は地面を蹴りながらふてくされてのろのろ歩いている。来た道を帰るのは気が楽だ。知らない道を行くのと違って気持ちに余裕ができる。縄を引いている宇裕の機嫌はいい。
「見てみろ。いい景色じゃないか。天気はいいし、暑くも寒くもないし、風は心地いいし、最高だよな」
「ばかかよ」
間引はぺっと地面に唾を吐いた。なだらかな丘陵の街道を二人は歩いていた。緑は豊かに茂り、流れる川の水は清く、田畑に点在している集落からは炊飯の煙がたなびいている。野には花が咲き乱れ、蝶が舞い、本当にきれいだ。宮中にある造られた庭園も計算されていて美しいが、広々とした天の下に広がる自然の美しさは別物だ。胸の中まで洗われるようだ。
「桃は紅にして復た宿雨を含み、柳は緑にして更に春煙を帯ぶ。花落ちて家僮未だ掃はず。鶯啼いて山客猶眠る。いい詩だよな。間引もそう思うだろ? 俺も自由が欲しいなあ。この詩に出てくる隠者みたいに、世の中のめんどくさいことなんか放り投げてのんびり昼寝していたいよなあ」
手にした縄を気分よさそうに振り回してそんなことをいう。
詩なんか知らねえし、意味わかんねえし、と間引は石を蹴る。別れてきた帆翔のことを思い出す。間引の尊厳のために宇裕に殴りかかっていった帆翔。弱かったよなあ。あれじゃあ、我がいなかったらすぐにのされちまうぞ。そう思うと心がしぼんだ。陛下の命だと言われておとなしくなってしまった帆翔。別に反抗してくれというわけではない。陛下には誰もかなわない。そのくらいはわかっている。我だって、ほんとうは陛下は怖い。逆らって、本気で怒らせたら、我の命なんてゴミ屑だ。わかっているんだ、それくらい、と石を蹴る。でも、帆翔は帰れといった。叡州は疫病が流行っていて危険だから帰ったほうがいいといった。我は帆翔といたいのに帰れといった。
思い出すと悔しくてならない。そして、その怒りは宇裕に向いた。あいつが追いかけてくるからいけないんだ。また石を蹴る。強めに蹴る。石が宇裕の尻に当たった。
「やめろ」
尻をさすりながら怒る。間引はうつむいた。泣いたりしない。泣くことを知らないで大きくなったから、泣き方を知らない。泣き声の出しかたさえもわからない。かってに目から水がこぼれてくるだけだ。頬を濡らして塩味の水が唇に入ってくる。まずい味だ。それをこぶしでぐいと拭った。陛下は怖いけど、本気で怒らせなければ怖くない。理解できないのは、我など居ようが居まいがどうでもいいようなものなのに、どうして連れ戻すのだろう。宇裕は我が陛下のおもちゃだといった。おもちゃなら何をしてもいいのかと文句を言いたい。飽きれば捨てるなら、今すぐ捨ててほしい。自由ってなんだ? 自由が欲しいと宇裕は言うけど、もともと人に自由なんてあるのか? 生きているから生きているだけ。人なんて、それだけのものだろ? 宇裕は自由が欲しいのか?
「なあ、宇裕。おまえってさ、自由が欲しいの?」
突然の質問に宇裕が振り向いた。
「欲しいさ。決まっているだろ」
「なんで?」
「そんなこともわからないのか?」
「わかんない」
「俺の命は俺のものだ。その大事な命を守るためには自由が重要なんだ」
「自由って、いくらで買えるんだ?」
「買えやしない。欲しくても手に入らない。それが自由だ」
「へええ、そんなに大切なものなのか」
「お前だって、自分の命は大事だろ」
「我はべつに。我の命は帆翔のものだからな。帆翔が我を生かしてくれたから、我の命は帆翔のものだ」
宇裕は驚いて思わず足を止めてしまった。間引のところに歩み寄って顔を覗き込む。
「泣いたのか?」
「泣いてないよ」
「目が赤いぞ」
「それがどうした」
「そんなに苛帆翔と離れるのが嫌か?」
「帆翔は弱っちいからな」
そういって、つま先で土をいじる。拗ねたような寂しそうな様子の間引に宇裕は眉を下げた。
「好きなようにさせてやりたいが、言っただろ? 俺たちに自由は無いんだ」
「我にやさしかったのは、帆翔だけだった」
その一言に間引の孤独が込められていた。俺だって同じだ、と宇裕は心の中で呟いた。
俺だって、孤独で苦しいことばかりだった。こんな世の中で、幸せな奴なんているのだろうか。農民は汗水たらして朝から晩まで働いて、実った作物は税で取られて、食っていくのが精一杯。商人は羽振りが良さそうだが、そんなのは一部の大店だけだし、職人や工人は、かつかつの暮らしだ。俺のような貧しいものは宮廷にもぐりこむ。宮廷なら飢えることはない。その代わりの代償は大きいが。
蹄の音がした。都のほうから来た役人二人が馬を操り近くで止まった。間引の断髪を見てが頷きあう。一人が間引に声をかけた。
「陛下の側仕えの間引だな?」
間引は頷いた。何だろうと思った。
「陛下の命である。即刻宮殿に戻れ」
そういうと剣を抜いて縛られていた縄を切り、有無を言わさず後ろ衿を掴んで馬に引きずり上げて走り出した。
「おい、待て。俺も乗せていけ」
慌てて宇裕がもう一人の馬の背に飛び乗る。間引も宇裕も驚いていた。陛下が、たかがねずみごときに早馬を寄こすとはどういうことだろう。何かあったのか、あるいは、そうとう陛下が怒っているか、はて、どちらだろうと二人は揺れる馬上で首を傾げた。
書院の間である。間引と宇裕を前にして、遠常は無言だった。間引は一回り痩せてやつれており、髪はぼさぼさの埃まみれ。着ているものもあちこち裂けて、露出した肌から血の乾きが見える。
「ねずみ、靴を脱いでみろ」
遠常が不機嫌な声を出した。
「いやいや、それは、まずいでしょ」
「いいから脱げ」
だからさ、靴を脱ぐのは人の前で着物を脱ぐのと同じだろうが、と心の中で言い返す。
遠常は宇裕に間引の靴を取れと命令した。こうなったら仕方がない。間引は床に座って自分で靴を脱いだ。ひどいありさまだった。豆だらけの皮が破けて血まみれだった。
「よくそんな足で歩けたな」
遠常が呆れてため息をつく。高兆に二人を湯浴みさせて傷の手当てをさせるように言いつけた。拱手して去ろうとした宇裕を引き止める。
「報告せよ」
宇裕は拱手したまま話しだした。
「朝廷の一行は叡州に着く二日前に賊の集団に襲撃されました。すると間もなく、叡州から州兵がやって来て賊を一掃しました。皆殺しです。賊が息を引き取る前に聞き出したところによると、彼らは叡州の農民や工人たちの集まりで、護岸工事の無給の労働にたまらず、朝廷から支援物資が送られてくるという情報を得て、叡州の役人に奪われる前に奪おうとして襲ってきたといいました。民へ情報を流した出所が気になりますし、叡州からの兵の到着があまりにも都合がよく、しかも有無を言わさずの皆殺し。不自然の感は否めません」
遠常は考えるように目を伏せ、下がるように手で払った。宇裕は拱手しながら後退し、書院を出ていった。高兆が熱い茶を入れて遠常に差し出した。茶碗に手を伸ばしながら遠常がいった。
「黄玉照は、もろもろの責任を物盗りの民に押し付ける気だな。薄氷がうまくやってくれれば良いが。それと、束端羅と紀呂尽の護岸の調査だ。邪魔が入って苦労することだろう」
多難だ。熱い茶をすすりながら、遠常は間引が湯から上がってくるのを待った。あの髪をなんとかせねば。あの髪を見ると、つい、掴んで引きずり回したくなる。そんなくだらないことを考えている自分に気づき苦笑した。
陛下が久方ぶりに笑みを浮かべられた、と高兆は低頭して下がった。




