第一話 軽業一座
永成元年、皇太子遠常が、二十一歳の成人を迎えて成帝に即位した年は、飢饉と疫病に苦しめられた年でもあった。
飢えに苦しむ民のために義倉や社倉だけでは足らず常平倉まで開放して備蓄米を放出し、疫病の蔓延を防ぐための病坊を各所に建て、官民の医師総出で治療にあたり、都に流れ込んでくる難民に苦慮しながらも善政に全力を尽くした。その甲斐あって徐々にではあるが疫病が終息に向かい、翌年は天候にも恵まれたおかげて農作物の収穫もあり、世は落ち着きを取り戻していった。
間引が生まれたのは飢饉と疫病が蔓延するさなかの年で、川や山には育てられずに遺棄された哀れな赤子がおおぜいいた。間引もその一人だった。生れ落ちてすぐに藁の籠に薄布一枚被せられて川に流された。冬の川面は朝霧で覆われ、半時辰(一時間)もしないうちに凍えて死んでしまう寒さであったが、ちょうど河原で天幕を広げて一夜の宿をとっていた軽業一座が、むずかって泣いている赤子の声に気づき、川を流れてくる藁籠を竹竿で引き寄せてくれたおかげで一命をとりとめた。
軽業の親方は赤子に間引と名付けた。間引きされた子供だったからだ。それから十年。十歳になった間引は親方からの過酷な訓練に耐え、猿のような身のこなしの少女に育っていた。
村の広場に軽業一座の色鮮やかな幟が、五月の風に何本も翻っていた。賑やかで軽快な笛太鼓や銅鑼の音が、村人の心を躍らせ落ち着かなくさせる。藁草履をはいた子供たちが待ちきれなく走り回り、使いや仕事の手を止めたおとなたちも、芸が始まるのを今か今かと待っていた。
横に渡した竿に大きな垂れ幕を掛け、その向こうが楽屋代わりになっていて、人の頭の三倍はある大きな男面と女面を頭からかぶった二人が囃子方に相図を送り、ぱっと垂れ幕を跳ね上げて外に躍り出た。
派手な衣装に身を包み、身振り手振りで踊りだす。被り物の面が大きく重いので頭がぐらぐら揺れる。男と女に扮した座員がじゃれあいふざけあう様子がおもしろおかしく、早くも拍手が起こり笑い声が高まる。
垂れ幕の奥では次の出し物の準備も整い、客の集まりと反応に気を良くした親方が、一番の呼び物である輪くぐりの三つの輪を揃え始めた。大、中、小、と大きさの違う木の輪には、切れ味の鋭い小刀が何本も内側に向かって取りつけてあって、演者はその輪を潜り抜けるという荒業だ。大きな輪なら余裕があるが、中の輪はなかなか危険で、小の輪となると幼い間引でも刃物との隙間がなくなる。間引の不安はその輪を潜り抜けるときの危険ではなく、このまま成長して身体が大きくなったときの自分の軽業としての価値がなくなることだった。子供が危険な技をするから客がはらはらし、成功した時の歓声につながる。間引はそのことをよく知っていたので大人に近づくのが怖かった。刃物で肌を切られることより怖かった。
身体にぴったり添わせた腰までの紺の着物に緩みがないか確かめる。ひざまでの細い袴は裾を縛っていて、ふくらはぎは剥き出しのままだ。垂れ幕の向こう側では出し物が進み、もうすぐ最終幕の演目の出番だった。間引は、鉈で毟り切ったような短いざんばら髪をかきあげ、紺のはちまきを額にきりりとしめた。とても十歳とは思えない大人びた顔つきだった。
親方が一番大きな輪くぐりを高く掲げて観衆の前を一周した。観衆は見るも恐ろしい刃物のきらめきに色めき立った。間引は大きく息を吸って幕を跳ねのけると、大胆にとんぼを切って観客の前に姿を現した。
薬草の大荷物を背中に背負った苛帆翔は、広場の人だかりに目を輝かせた。賑やかな鳴り物といい観衆の興奮したざわめきといい、十五歳の帆翔の好奇心を引き付けるには十分だった。そうでなくても皇宮に住み、医局で医生として働いている身であれば、師匠の付き添いで普段手に入らない希少な薬草を仕入れに出るときぐらいしか世間の賑わいを味わうことはできない。広場の興奮はたちまち帆翔に伝染した。
「師匠、ちょっと覗いてみましょう」
期待に瞳を輝かせながら、いつの間にか背を追い抜いていた太医の朱旦兼を見下ろして言う。朱旦兼は人の輪を一瞥しただけで道の先に顔を戻した。
「急ぐ道のりだ。今日中に宮城に戻らねばならぬ」
頑固な師の足は動き出そうとしている。帆翔はその足が動く前に観衆の輪の中にもぐりこんでいった。大きい輪をくぐり終えた直後だったらしく観衆の拍手がおこっている。最前列の子供たちも、自分と年が違わない演者の演技に目を丸くし息を飲んでいた。帆翔も、次に親方が台の上に乗せた中の輪の中心に向いている刃物の列に息を飲んだ。額に紺のはちまきをきつく締めた野生の猿のような髪をした子供が輪の向こうで、何度か軽く調子をとるように飛び跳ね始めた。笛太鼓が緊張を煽るよう大きくなり、演者の足拍子も次第に高く飛び上がる。鳴り物の音と足拍子の緊張が最高潮に達した時、間引は大きくひと跳ねして勢いをつけると、まっしぐらに走り出した。勢いよくぽーんと地を蹴って両腕を耳にぴったりと付けて伸ばし、輪の中に、海に飛び込むように身を躍らせた。うまく輪をくぐり、そのまま地に両手をついて頭から回転して軽快に立ち上がる。間引の身体と刃物の間は指一本分の隙間しかなかった。喝采が起こり、帆翔も夢中で手を叩いた。後ろで帆翔を呼ぶ師の声が聞こえたが、帆翔の目は次に親方が取り出した一番小さな輪に釘付けになっていた。
どよめきが起こった。いくら間引が子供で小さくても、その輪は間引の肩すれすれの大きさだったからだ。間引の表情が変わった。この輪をくぐるときは息を止め腹を絞り、両腕を顔の前で捩じるように交差して肩を狭め、身を細らせねばならない。油断すると皮膚が切れるだけでなく肉も切られる。痛みは構わない。一日たつごとに痛みは引いていくからだ。怖いのは、親方から捨てられることだった。そうしたら、どうやって生きていこう。どうやって食い物を手に入れたらいいのだろう。間引にとって生きるということは今日一日の食物が明日も、その翌日もと続くことだった。
間引が輪の向こうで、先ほどと同じように軽く飛び跳ねて調子をとりだした。鳴り物が耳を裂くように大きくなり銅鑼が鳴る。最前列で固唾を飲んで見守っている子供たちの見開いた目がさらに大きくなった。銅鑼が大きくじゃーんとなった瞬間、間引が地を蹴った。近くにいた子供の一人が興奮して立ち上がった。そのとき、子供の足元の小石が弾けた。間引が足をつこうとしたその場所に小石が転がり込んできた。間引は驚いて一瞬身体を固くした。体勢を崩したまま間引の身体が狭い輪に飛び込んでいった。そのまま地面に落下して、おもしろいように滑っていく。観衆から悲鳴が上がった。倒れた間引の足元から血溜まりが広がっていった。興行がぶち壊しだった。興覚めした人々が次々と帰っていく。親方の怒声がとんだ。動けないでいる間引の衿をわしづかみにして幕の裏に引きずっていった。帆翔は驚いて動けないでいた。座員が失望もあらわに道具を片付け始めた。幕の向こうでは何かを叩く湿った重い音がしていた。
帆翔は助けを求めるように朱旦兼に振り向いた。朱旦兼も困ったように白いものの混じった眉を寄せている。帆翔は幕の向こうで何が行われているのか予想がついた。思ったとおり、地面で丸くなって頭を抱えている間引を、親方がところかまわず蹴り上げていた。一蹴りするたびに小さな身体が跳ね上がる。間引は呻き声さえ上げずに耐えていた。左のふくらはぎがざっくり切れて血が流れ真っ赤だった。
「これで一銭も入らなくなっちまった。おまけにおまえはしばらく仕事ができねえ。どうしてくれるんだよ、こいつめ」
親方がまた蹴ろうとするので、帆翔は間引の前に飛び出した。
「やめてください。こんなにひどい怪我なのに」
「関係ないお方は首を突っ込まないでくだせえよ。こっちはこれが商売なんだ」
「師匠!」
帆翔は幕の向こうの朱旦兼に助けを求めた。
「師匠、この子を助けてください。深い傷で縫わないとだめです。お願いします」
お願いしますと何度も乞われて朱旦兼はしぶしぶやってきた。腰を屈めて間引を覗き込む。顎を掴んで顔を見る。肩や背中の骨格を確かめるように触り、着物の後ろ衿を広げて身体を覗きこんだ。
「傷跡だらけだが丈夫そうな子供だ。しかも我慢強い。この子の親はどうしたのだ」
朱旦兼が尋ねると、親方が薄ら笑いをうかべた。
「親なんざいませんよ。間引かれて川に捨てられたのを拾ったがきですんで」
「ふん」
朱旦兼は鼻を鳴らした。なにか思惑があるときの鼻の鳴らし方だった。
「この子は男か女か、年はいくつだ」
朱旦兼の問いに親方は女で十歳だと答えた。朱旦兼はまんざらでもなさそうな顔をした。
「女の子供は男の子供より丈夫にできている」
師の呟きに帆翔は慌てて師の着物の袖を掴んだ。
「丈夫でもこの怪我は手当しないとだめです、師匠」
「うむ。肉だけではなく腱まで切れてるな。これでは怪我が治っても、今までのような具合には行かぬぞ」
親方が顔をしかめた。本当は腱までは切れていない。わざと言ったのだ。
「ちっ、それじゃあ、軽業はできねえな。用無しだ」
痛みに歯を食いしばって大人たちのやり取りに耳を傾けていた間引は、諦めたように目を閉じた。捨てられるんだと思った。
「私がもらってやってもいい」
朱旦兼の言葉に驚いたのは帆翔だけではなかった。間引も驚いたし親方も驚いた。しかし親方の驚き方は帆翔と間引の素直な驚き方とは違っていた。
「へええ? 旦那。こんな生き物でもただでもらおうとは虫がよかないですかね。人買いに売ればこれでも銭にはなりますからね」
「こんなに痩せていて、体中折檻だらけの子供などはいくらにもならんだろう」
そう言って朱旦兼は懐から銭入れをだし、銅銭の束を一掴み親方に握らせた。その様子を見て帆翔は嬉しそうに笑みをうかべた。だが、間引は人を信じていなかったので自分という子供が右から左にやられただけだと思った。期待や希望とは無縁のところで育った子供だった。
帆翔は間引を助け起こすと、汚れた顔を上に向けてぼさぼさの髪をかきあげ、顔を見てはっとした。目つきは反抗的で強情そうだが、猫の子をおもわせる愛らしい顔だった。
親方は銅銭を懐にしまうと用はないとばかりに背を向けた。
「そうだ、まだ名前を聞いていなかったな。この子の名は?」
朱旦兼の呼びかけに親方は「間引かれた子供だから間引」と答えた。帆翔はひどい名前だと思った。だから腕に抱えていた間引に、こっそり囁いた。
「名前、変えてあげようか? もっといい名前に、女の子らしい、やさしい名前に」
どうだい? というように顔を覗き込むと間引は疲れたように首を横に振った。
「いくぞ」
朱旦兼が促した。とりあえず、この場から立ち去って、どこかで間引の傷の手当をしないといけない。帆翔は背中に背負った薬草の大荷物の上に間引をぐらりと背負いあげた。
広場のそばに井戸を見つけ、水を汲んで間引の傷を洗った。
「本当は煮沸した水がいいのだが、まあ仕方がない」
朱旦兼が言った。遠出なので最低限の医療道具は携行していた。帆翔は師の指図にしたがって手を動かしながら、この子は本当に我慢強い子だと思っていた。一言もしゃべらないし、呻き声も上げない。だが、痛がっているのはごまかせない。眉を絞り顎をかみしめている。砂だらけの傷を洗い終えてから針と絹糸を用意する。帆翔は器用だった。傷口を一針一針丁寧に、しかも迅速に縫っていく。全部で二十三針にも及んだこの傷は残るだろうと思った。血が滲む傷口に油紙を被せ、傷が動かないように布を少しきつめに巻いていく。本当はこのまま動かないほうがいいのだが、今日は何としても宮城に帰らなければならない。
帆翔はためらわずに背中の薬草袋の上に間引を乗せて歩き出した。宮城までまだまだ遠い。歩きながら朱旦兼が呟いた。いい買い物になりそうだ、と。
「なんですか? 師匠」
「こんな大怪我なのに、ぐずともいわない。これならいい人薬になるだろう」
帆翔はぎょっとした。
「人薬にするんですか!」
朱旦兼は返事をしなかったが満足そうだった。人薬。何ということだろう。人薬とはその言葉どおり人そのものが薬だ。これから間引は、ありとあらゆる毒を与えられ、その効果を試す実験に使われるのだ。そして、最後は人薬となり、皇帝の生きた薬になる。血を採られて。
苛帆翔は言葉を失って黙々と歩き続けた。




