余命わずかの兄が隠し通した、十五年間の嘘について
「雪……か」
口元を離れた白い吐息が緩やかに飛散する。数年ぶりに降り立った故郷の駅。ホームを出てすぐに歩みを止め、優衣は空をまっすぐに見上げていた。
「どんな顔して会ったら良いんだろ……バカ兄貴」
兄・大樹から連絡があったのは、三日前のことだった。優衣は兄からの電話に出たためしがなかったから、SMSでのメッセージ。『余命一週間だ。最後くらい顔を見せろ』。愛想がなく自分本位のメッセージ。優衣を突き放すような冷淡さは変わっていなかった。
病室のドアの前で大きく深呼吸をした優衣は、取っ手に手をかける。優衣の気持ちが乗り移ったかのようにドアは冷たく重い。意を決し、ドアを開け病室に入る。
「うっ……」
消毒液の匂いが鼻を突き、優衣の脳裏には忘れたはずの『あの日』の記憶がチラついた。ベッドに視線を移すと、優衣の記憶の中の『兄』とは似て似つかない男が横たわっていた。頬はこけ、肌色も悪く、逞しかった身体も驚くほど痩せ細っていた。
「……来たか」
大樹は視線を優衣に向けた。その眼差しだけは変わっていなかったようで安心した優衣だったが、目があった途端、家を出る前の自分に気持ちが蘇った。
「あんたねぇ、余命一週間だなんて、一体どう言う性格しているの?」
優衣は腕組みをしたまま、大樹を見下ろすように罵声を浴びせた。
「まぁ、落ち着け。遺言だけ伝えたくてな」
十五年前、二人の両親は事故で亡くなった。学校に連絡が入り、兄と病室に駆け込んだときには、既に息を引き取っていた。
当時十八歳だった大樹は、決まっていた大学進学を辞退し、地元で働き始めた。九歳だった優衣を育てるためだ。だが、大樹は優しい兄ではなかった。優衣が甘えようとしても「自分のことは自分でしろ」と相手にしてくれなかった。そんなことが続き、家を出たいという思いが強くなり、高校卒業と同時に都会へ出たのだった。
「遺言?」
「そうだ。家の棚の引き出しに父さん母さんが残した通帳がある」
「通帳?」
「そうだ。オレは自分の稼ぎだけでやってきたから、自由に使え」
酸素マスクをし、息苦しそうな様子で、大樹は淡々と伝える。
「駄目な妹の面倒をみるのも最後だと思うと清々するもんだな。あとは、好きにしろ」
「好きにしろって? 分かったわ。あとは好きにさせて貰うから」
病室を飛び出す優衣。背中越しに大樹の咳が聞こえたが、そんなのはどうでも良かった。これが二人が交わした最後の会話になった。
◇
大樹が亡くなったのは、その二日後のことだった。葬儀は付き合いのあった親族数人で済ませ、静かなものだった。遺影の中の兄の視線が、自分を責めるようで直視できなかった。
優衣は四十九日を待たず、実家の整理に訪れていた。二階建て木造の古い家屋だった。両親が居た頃は賑やかだったこの場所も、今は誰もおらず、寒々しい空気に包まれている。
ガチャリとカギを開け、居間に足を踏み入れた優衣は思わず眉をひそめた。
「……何よ、これ。汚すぎる」
部屋は、かつての面影がないほどに散らかっていた。弁当の空殻、飲みかけのペットボトル、洗濯物は畳まれずにソファの上に積み上げられていた。
「あれだけ私に片付けろって言っていたクセに。自分は全然ダメじゃない! 本当にバカ兄貴ね」
優衣はゴミ袋を片手に、部屋を片付け始めた。大樹の部屋の机の整理を始めた時だ。引き出しの奥から『日記』と書かれた数冊のノートが出てきた。
「そう言えば、毎日日記つけてたんだっけ……」
大樹は几帳面なところがあり、毎日欠かさずに日記をつけていた。
「最後だし……中身を見てから捨ててやるか」
きっかけはほんの好奇心。自分の悪口がどれだけ書かれているのか見てやろうという意地悪な気持ちも少なからずあった。
日記は、優衣が中学生の頃に始まっていた。予想通り、そこには優衣への不満が綴られていた。
『〇月✕日。優衣がテストの点を隠した。将来のために勉強しろと何度言っても聞く耳を持ちやしない。あいつを見ているとイライラする』
『〇月✕日。俺の作る料理にいちいち文句を言ってくる。今日は一口だけ食べて残しやがった。腹立たしい』
「やっぱり……」
日記に並ぶ不満の数々に嫌気がさす。優衣は、『本当に嫌われていたんだな、私』と、諦めともとれるため息をつく。そこから数ページめくった所で、ふと指が止まる。
『〇月✕日。肉じゃがを作った。優衣が「今日のは悪くなかった」と言った。砂糖を半分に減らしてみたが、あいつは甘すぎるのが好きではないのか。レシピを記録しておく』
『〇月✕日。卵焼きの甘い味付けをやめてみた。今回も「今日のは悪くない」と言っていた。ようやくあいつの好みが分かってきた。だが、もうすぐ高校卒業。あいつに手料理を食わせてやれるのもあと少し……。もっと早く気づきたかった』
優衣の胸が、わずかにざわついた。大樹は自分の作る料理に『不味かったか?』といつも聞いてきた。毎度毎度聞いてくるので鬱陶しいと感じていた。だから、希に美味しかったときにも素直に美味しかったとは言えず、『悪くなかった』とだけ伝えていたことを思い出す。
「……バカみたい。直接言えば良かったのに……」
更に数ページ。優衣が家を出た時期を境に、日記の余白は目に見えて増えていった。それまでは毎日びっしりと書き込まれていた文字が、数日に一度、たった一行だけの記述に変わっている。
『〇月✕日。優衣に連絡しても電話に出ない。折り返しの連絡もなし。元気でやっているのか?風邪をひいたりしていないか……』
『〇月✕日。仕送りを受理してくれた。良かった。少しでも美味しい物を食べて欲しい』
ページをめくる指が小刻みに震える。日記に綴られているのは『優衣』の事ばかりであった。
「心配、してくれてたんだ」
だが、優衣は電話を拒否し続けていた。今更遅いが、後悔の念が優衣の心を締め付ける。
そして――
『〇月✕日。精密検査の結果。ステージ4。胃癌……冗談だろう』
そこからの日記は壮絶なものだった。日に日に衰えていく体、止まらない吐き気。それでも仕事を休むことはしなかった。治療費で金が減ることを極端に嫌い、最低限の処置だけで働き続けた。
『〇月✕日。優衣にどう伝えるべきか。いや、伝えない方が良い。あいつはようやく自分の足で歩き始めたところだ。今更死にゆく俺の世話などさせてあいつの未来を奪うわけには行かない』
日記の文字は後半になるにつれ、震え、乱れていった。葛藤の跡が窺える。
『〇月✕日。余命一ヶ月と告げられた。さすがに伝えなければならない。最後にひと目会いたい気持ちもある。だが、どうせ死ぬなら嫌われたまま死ねば良い。俺を憎んでいれば、俺が死んでもあいつは泣かずに済む。悲しむ時間を、自分の幸せのために使ってくれれば嬉しい」
優衣の視界が、一気に涙で歪んだ。あの病室での『清々する』の言葉。彼が演じていた冷徹な兄の仮面の下で、どんな思いで優衣を見つめていたのか。
「……バカよ。本当に、バカなんだから……」
ノートを抱きしめ、優衣は床に崩れ落ちた。彼女の嗚咽だけが響き渡る。兄が守りたかったのは、妹の「幸せ」だったのだ。
◇
その時、玄関の引き戸がガラガラと開く音がした。
「優衣ちゃん……いるの?」
入ってきたのは、叔母の和江だった。両親が亡くなった後、何かと気にかけてくれていた女性だ。泣き腫らした顔の優衣、そして優衣が手に持つ『日記』を見て、和江は全てを察したように静かに歩み寄り、優衣の肩に手を置いた。
「日記、読んだのね」
「……和江さん。これ、どういうこと?」
優衣の声は掠れていた。
「お兄ちゃん、私のことあんなに邪魔そうにしていたのに。清々するって言っていたのに……」
和江は優衣の正面にしゃがみ込むと、少し申し訳なさそうに、ポケットから一冊の通帳を差し出した。
「葬儀の時に渡せなくて、ごめんなさいね。大樹くんから時期を見て渡してくれって預かっていたの」
優衣は震える手で手帳を受け取った。いかにも大樹らしい角張った筆跡で、表紙にフルネームが書かれていた。
「これ、お父さんとお母さんの遺産……ではないのね。お兄ちゃんが頑張って……」
「そう。あの子……十八で働き始めてから、必死に頑張っていたわ。妹のためにこの家を守るんだって。あなたを大学にやって、幸せにしてやるんだって。ご両親の遺産ね、残念だけどほとんど残っていなかった。全部、大樹くんがゼロから積み上げたお金なの。『親の遺産だと言わないと、優衣は遠慮して受け取らないから』って口止めされていたけれど、今のあなたにならそんな必要ないわね」
和江の目からも一筋の涙がこぼれた。
「あの子、最後の日まで私に言っていたわ。『優衣は強い子だから、俺の事なんて忘れて、明日から笑って生きていけるはずだ』って。あなたに、大樹くんのことをちゃんと知って欲しかったの。安心したわ」
◇
都会の狭いワンルームマンションのキッチンに、小気味よい包丁の音が響く。仕事帰りの疲れた体を引きずりながら、優衣は使い慣れた鍋にジャガイモと人参を放り込んだ。実家の整理を終え、持ち帰ってきた大樹の日記をカウンターに広げる。
『砂糖を半分に減らしてみた』
開いたページの記述通り、慎重に砂糖を量り、煮込んでいく。立ち上る湯気は、あの日実家で感じた匂いと同じだった。出来上がった肉じゃがを、一口、口に運ぶ。
「あ……」
喉の奥が熱くなった。甘さを抑えたことで引き立った、出汁の香りとジャガイモの素朴な味。満員電車に揺られ、仕事に追われる都会の喧騒の中で、自分はずっと一人だと思っていた。けれど、この味を知っている限り、私はもう一人ではない。
「……美味しいよ、お兄ちゃん」
涙を拭い、優衣は机に向かった。日記の余白に、新しいペンで言葉を添える。
『〇月✕日。私も作ってみたよ。お兄ちゃん直伝のレシピ。ちゃんと、あの時の味がした。明日からも私、頑張れるよ。見守っていてね』
窓の外、都会の夜空は明るく、星は見えにくい。けれど、冷たく澄んだ空気の中に、確かな春の気配を感じた。ずっと凍りついていた彼女の時間は、兄が十五年かけて灯し続けた不器用な情熱によって、今ゆっくりと雪解けを迎えていた。
明日にはまた、慌ただしい日常が始まる。彼女の日常は、ここから静かに始まろうとしていた。




