第90話 崩壊
267階層の広間で、私は動けなくなっていた。
座り込んだまま、ただ呼吸をしているだけの状態が、どれくらい続いたのか分からない。時間の感覚が、完全に失われていた。
「……ゼノ」
名前を呼ぶ。
だが、答えはない。
当然だ。ここには、私一人しかいないのだから。
立ち上がる。足が震える。膝が笑っている。それでも、何とか立つことができた。剣を握る手も震えていたが、それでも剣は落とさなかった。落としてはいけない。この剣だけが、今の私に残された唯一のものだから。
「……探さなきゃ」
呟く。
ゼノを。
彼は、どこかにいるはずだ。
死んでいるわけがない。
ゼノは強い。Bランクの冒険者で、200階層まで到達した実績がある。簡単に死ぬような男ではない。きっと、どこかで生きている。傷を負っているかもしれないが、生きている。そう信じるしかなかった。
私は階段へ向かった。
268階層へ。
足音が、静寂の中に響く。
自分の足音だけが、聞こえる。
それが——ひどく、寂しかった。
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268階層は、長い通路だった。
壁が両側から迫り、天井も低い。松明の光が、オレンジ色の影を作り出している。
「……ゼノ」
歩きながら、呼びかける。
「どこだ」
答えはない。
通路を進む。一歩、また一歩。足を引きずるようにして進む。体が重い。疲労が、全身に蓄積している。一週間の休息では、足りなかったのかもしれない。それとも——心の疲労が、体にまで影響を及ぼしているのか。
モンスターが現れた。
黒い鎧を纏った騎士。Aランク。
私は——何も考えずに剣を振るった。
体が勝手に動く。最適な軌道を描き、最短の動きで首を斬る。騎士が倒れる。私は、それを見ることもなく先へ進んだ。
269階層。270階層。
階段を下り続ける。
「ゼノ」
呼び続ける。
「ゼノ」
何度も、何度も。
だが——答えは、ない。
271階層で、広間に出た。
そこには、転移装置があった。だが、私は使わなかった。使えば地上に戻れる。体を休めることができる。でも——それをしてしまえば、ゼノを見捨てることになる。ゼノは、まだここにいるかもしれないのだから。
私は、転移装置を素通りして、次の階段へ向かった。
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272階層。273階層。274階層。
階層を下り続ける。
時間の感覚が、ない。
どれくらい歩いたのか。
どれくらい戦ったのか。
分からない。
ただ——ゼノの名前を呼び続けていた。
「ゼノ」
「ゼノ」
「ゼノ」
声が、掠れてきた。
喉が、痛い。
水も飲んでいない。食事もしていない。ただ、歩き続けている。
275階層で、ミノタウロスと戦った。
大斧が振り下ろされる。私は横に跳ぶ。反撃。ミノタウロスの脇腹に剣を突き立てる。だが、浅い。ミノタウロスの尾が私を薙ぎ払う。吹き飛ばされる。壁に叩きつけられる。痛みが走る。だが——立ち上がる。もう一度、剣を構える。ミノタウロスが迫る。私は——剣を振るった。首を狙う。刃が、肉を切り裂く。ミノタウロスが倒れた。
私は、治療薬を飲んだ。
傷が塞がる。
だが——心の傷は、塞がらない。
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276階層。277階層。
「ゼノ」
呼び続ける。
「どこだ」
「答えてくれ」
だが——。
やはり、答えはない。
278階層で、私は気づいた。
自分が——おかしくなっていることに。
壁に、ゼノの姿が見えた気がした。
「……ゼノ?」
駆け寄る。
だが——そこには、何もなかった。
ただの壁。
影が、ゼノに見えただけだった。
「……」
私は、壁に手をついた。
息が上がっている。
幻覚を、見始めている。
疲労が、限界を超えているのだろう。
でも——止まれない。
ゼノを、探さなければ。
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279階層。280階層。
階段を下りる。
足が、もつれる。
何度も、転びそうになる。
それでも、歩き続ける。
「ゼノ」
「ゼノ」
呼び続ける。
声が、もう出ない。
喉が、枯れている。
でも——口は動かし続けた。
281階層。
広間に出た。
そこには——。
剣があった。
床に、転がっている。
大剣。
見覚えのある、大剣。
「……」
私は、その剣へゆっくりと近づいた。
一歩、また一歩。
足が、震える。
心臓が、激しく打っている。
違う。
そうであってくれ。
頼む。
私は——剣の前で、膝をついた。
手を伸ばす。
剣の柄を、掴む。
持ち上げる。
重い。
いつもゼノが振るっていた、あの大剣。
柄の部分に、小さな傷がある。
ゼノが、いつも気にしていた傷。
「……これは」
私は、剣を見つめた。
間違いない。
これは——ゼノの剣だ。
「……ゼノ」
私は、周囲を見回した。
「ゼノ!」
叫ぶ。
だが——。
ゼノの姿は、ない。
死体も、ない。
血痕も、ない。
ただ——剣だけが、残されていた。
「……嘘だろ」
私は呟いた。
「嘘だ」
剣を、床に叩きつける。
金属が、石に当たる音が響く。
「嘘だ!」
叫ぶ。
「ゼノは——ゼノは、死んでない!」
だが——。
剣は、そこにあった。
ゼノの剣が。
彼の、魂が。
260階層で見た、あの映像。
人は、死ぬと剣になる。
ゼノも——。
「……嫌だ」
私は、剣を抱きしめた。
「嫌だ、嫌だ、嫌だ」
涙が、溢れた。
止まらない。
アシュを失った。
そして——ゼノも。
「……一人だ」
私は呟いた。
「また、一人になった」
剣を、強く抱きしめる。
冷たい。
金属の、冷たさ。
でも——これが、ゼノだ。
彼の魂が、この剣の中にいる。
「……ゼノ」
私は、剣に語りかけた。
「聞こえるか」
だが——。
剣は、何も答えない。
沈黙している。
当然だ。
剣との対話は、その剣の持ち主にしかできない。
私には——ゼノの声は、聞こえない。
「……くそ」
私は、剣を床に置いた。
そして——立ち上がろうとした。
だが——。
足に力が入らない。
立てない。
「……くそ」
もう一度、試す。
だが——やはり、立てない。
全身の力が、抜けている。
疲労が、限界を超えている。
「……」
私は、その場に座り込んだ。
剣を、膝の上に置く。
ゼノの剣を。
「……ごめん」
私は呟いた。
「守れなかった」
涙が、また溢れた。
「約束したのに」
「一緒に行くって」
「言ったのに」
声が、震える。
「……ごめん」
剣は——何も答えない。
ただ、静かに横たわっているだけ。
私は——剣を見つめた。
ゼノの剣を。
彼の魂を。
「……私も」
私は呟いた。
「私も、いずれ剣になるのかな」
答えは、ない。
「……一人は、嫌だ」
私は、自分の剣を見下ろした。
空虚の剣。
「……お前の中には、誰もいないんだろう」
剣は、沈黙している。
「……なら」
私は、剣を抜いた。
「……私が、最初になればいい」
刃を、自分の首に当てる。
冷たい。
「……そうすれば」
私は呟いた。
「……一人じゃなくなる」
剣が、微かに震えた気がした。
だが——幻覚かもしれない。
「……ごめん、ゼノ」
私は、目を閉じた。
「……先に行く」
剣に、力を込めようとした。
その時——。
「……やめろ」
声が、聞こえた。
「……?」
私は、目を開けた。
誰だ。
周囲を見回す。
だが——誰もいない。
「……気のせいか」
もう一度、剣に力を込める。
「やめろと言っている」
また、声が聞こえた。
今度は——はっきりと。
「……誰だ」
私は立ち上がった。
剣を構える。
「……出てこい」
だが——。
誰も現れない。
静寂だけが、広間を支配している。
「……」
私は、剣を下ろした。
疲労で、幻聴まで聞こえ始めたのか。
「……もう、ダメだ」
私は呟いた。
「……限界だ」
その場に、座り込む。
ゼノの剣を、また抱きしめる。
「……ゼノ」
私は、剣に語りかけた。
「……どうすればいい」
答えは、ない。
「……教えてくれ」
涙が、剣を濡らす。
「……私は、どうすればいい」
静寂。
ただ——静寂だけが、私を包んでいた。




