第8層:断片的な夢
宿舎へ戻ると、部屋は静かだった。
私は剣の手入れを始めた。布で刃を拭い、丁寧に研ぐ。この動作も、身体が覚えている。何百回も繰り返したような感覚。
ガレスの言葉が、頭に残っている。
「信用できる仲間を見つけろ」
仲間。
私に、仲間がいたのだろうか。2年前。消息を絶つ前。
……わからない。
窓の外を見る。夜のルミナスの街並み。街灯が灯り、温かな光が街を照らしている。そして、遠くに聳えるダンジョンの穴。漆黒の深淵が、静かに口を開けている。
疲労を感じた。
私はベッドに横たわった。
「明日は、もっと深く潜ろう」
そう呟いて、目を閉じた。
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眠りについた瞬間、暗闇に引きずり込まれた。
突然の感覚。
落ちていく。
どこまでも、どこまでも。
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気がつくと、石造りの通路を走っていた。
暗い通路。だが、見たことのない構造だ。壁は黒く、不気味に脈打っている。まるで生きているかのように。
息が白い。
極寒の空気。肺が痛い。
遠くから、何かが這いずる音が聞こえる。ぞっとする音。
私は剣を握って走っている。
必死に。何かから逃げているような。だが、何から逃げているのかわからない。
ただ、走る。
どこへ向かっているのか、わからない。
ただ、止まってはいけない。
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場面が切り替わった。
巨大な影と対峙している。
詳細は見えない。ぼやけている。だが、圧倒的な恐怖を感じる。
巨大な何か。
人ではない。魔物だ。
私は剣を振るう。
身体が勝手に動く。必死の戦い。息が切れる。傷だらけ。血が流れている。
痛い。
すべてが痛い。
「セリア、左だ!」
声。
男の声。
私は反射的に左へ飛ぶ。巨大な爪が、私がいた場所を薙ぎ払う。
振り返ると――誰かがいる。
顔は見えない。光に包まれて、ぼやけている。
だが、確かに誰かがいる。
一緒に戦っている。
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また場面が切り替わった。
戦闘が終わり、石の床に座り込んでいる。
全身が痛い。呼吸が荒い。
誰かが隣に座る気配。
「大丈夫か?」
男の声。優しい声。
「ああ……なんとか」
自分が答えている。今の私とは違う、感情のある声。
男が笑う気配。
「お前は本当に、諦めないな」
温かい雰囲気。
私は少し笑っている。今の私にはない表情。
「……私たちは、どこまで行くんだろうな」
男が答える。
「わからない。でも、お前が決めたんだろ」
「ああ……私が、決めた」
何を決めたのか。
思い出せない。
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また場面が変わる。
螺旋階段。
どこまでも続く、果てしない階段。
下へ、下へ、下へ。
数字が見える。
100、150、200……
加速する。
250、300、350……
止まらない。
誰かの悲鳴が聞こえる。
「もう無理だ! 引き返そう!」
だが、私は止まらない。
「もう少し……もう少しだ」
何かに取り憑かれたように。
自分の意思なのか、それとも――。
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誰かが私の腕を掴んだ。
「セリア、行くな!」
必死の声。男の声。
「これ以上行ったら、戻れなくなる!」
私は振り返る。
だが、顔は見えない。光でぼやけている。
「……でも、行かなきゃ」
男が叫ぶ。
「なぜだ! 何がそこにある!」
「わからない。でも……行かなきゃいけない気がするんだ」
男は黙った。
そして、静かに言った。
「なら、俺も行く」
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階段の先に、光が見えた。
不思議な光。青白く輝いている。
私はその光へ向かって走る。
仲間も一緒に。
数字が見える。
450、480、490……
もうすぐ。
光が強くなる。
眩しい。
そして――。
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光の中で、私は立ち止まった。
目の前に、何かがある。
何かはわからない。ぼやけている。
だが、重要な何か。
「選べ」
声が聞こえた。
誰の声かわからない。低く、響く声。
「進むか、戻るか」
私は――手を伸ばした。
何かに触れる。
その瞬間――すべてが真っ白になった。
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激しい頭痛で目が覚めた。
全身が汗でびっしょりだ。息が荒い。心臓が激しく鳴っている。
部屋は真っ暗。夜中だ。
「……夢?」
いや、違う。
これは記憶だ。
確かに、私は500階層へ行った。
誰かと一緒に。
そして、何かを選んだ。
だが――何を選んだのか、思い出せない。
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私はベッドに座り、頭を抱えた。
「あと7人……」
あのビジョンでも聞こえた気がする。
だが、意味がわからない。
7人。何の7人だ。
なぜ、私はそれを知っているような気がするのか。
私は窓辺に立った。
遠くに見えるダンジョンの穴。漆黒の深淵。
「答えは、あの中にある」
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私は剣を手に取った。
漆黒の刃。
今まで完全に沈黙していた。
だが――今は、微かに何かを感じる。
暖かい、ような。
脈打つ、ような。
まるで、生きているような。
「お前は……何か知っているのか」
剣は相変わらず何も答えない。
だが、確かに何かが変わった。
第4層で感じた「封じられた何か」が、少し動いている。
私は剣を見つめた。
空虚の剣。
だが、本当に空虚なのか。
……わからない。
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夜が明けた。
私は一睡もできなかった。
だが、決意は固まっている。
「もっと深く潜らなければ」
記憶の断片は、ダンジョンの深層にある。
1階層ずつ、思い出していく。
いつか、すべてを取り戻す。
そして――あの「選択」が何だったのか、知る。
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朝、ノックの音が聞こえた。
「セリアさん、おはようございます」
ミラの声。
私は扉を開けた。ミラが心配そうな顔で立っている。
「おはよう……って、大丈夫ですか? 顔色が悪いです」
「……夢を見た」
「夢?」
私たちは部屋に入り、椅子に座った。
「500階層の夢。いや、記憶の断片だと思う」
ミラは真剣な表情で聞いている。
「私は確かに、500階層へ行った。誰かと一緒に」
「誰かって……」
「わからない。顔は見えなかった。だが、確かに誰かがいた」
私は続けた。
「そして、何か重要な選択をした」
「選択……?」
「だが……何を選んだのか、思い出せない」
ミラは少し考え込んでから、優しく言った。
「無理しないでください。少しずつでいいんです」
「いや、急がなければ」
なぜそう思うのか、自分でもわからない。
だが、心の奥底で何かが急かしている。
まるで、時間がないような。
「今日から、本格的にダンジョンへ潜る」
「本格的に……?」
「10階層、20階層……もっと深く」
ミラは不安そうだが、頷いた。
「……わかりました。でも、無理はしないでください」
「ああ」
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私は窓の外を見た。
朝日が昇り始めている。ダンジョンの穴が、朝の光を浴びて黒く輝いている。
記憶を取り戻す。
そして――あの時の選択の意味を知る。
それが、私の使命だ。
なぜそう思うのか、わからない。
だが、確かにそう感じる。
私は剣を腰に下げた。
「行こう。ダンジョンへ」
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