第88話 限界の兆し
翌朝、私は宿の前でゼノを待っていた。
だが——いつもの時間になっても、彼は現れなかった。
「……」
私は不安になった。
まさか——。
その時、遠くからゼノの姿が見えた。
歩き方が、おかしい。
ふらふらと、まるで酔っているような。
「……ゼノ」
私は駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
ゼノは答えた。
だが、その声は掠れていた。
顔色も悪い。目の下には、濃い隈ができている。
「……眠れなかったのか」
「……ほとんど」
ゼノは目を伏せた。
「剣が、ずっと囁いていた」
「一晩中」
「……」
私は何も言えなかった。
一晩中、囁き続けられる。
それは——どれほど苦しいことか。
「……休むか」
私は提案した。
「今日は、地上で休もう」
「いや」
ゼノは首を横に振った。
「行く」
「でも——」
「行くんだ」
ゼノの声が、強くなった。
「このままじゃ——このままじゃ、俺はダメになる」
「答えを見つけなきゃ、ならない」
「早く」
私は、ゼノの目を見た。
その目には——焦りがあった。
そして、恐怖も。
「……分かった」
私は頷いた。
「行こう」
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255階層の転移装置から、私たちは降り立った。
石造りの広間。いつもと変わらない光景。
だが——。
「……っ」
ゼノが膝をついた。
「ゼノ!」
私は駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
ゼノは立ち上がろうとした。
だが、体が震えている。
「……剣が」
彼は自分の剣を見下ろした。
「囁きが、強い」
「ここは——何かが、違う」
「……」
私は剣を抜いた。
空虚の剣。
光れ。
頼む。
ゼノを、助けてくれ。
だが——。
剣は、光らなかった。
沈黙したまま。
「……くそ」
私は歯を食いしばった。
なぜだ。
なぜ、今は光らない。
「……セリア」
ゼノが私を見た。
「大丈夫だ」
「まだ、耐えられる」
「……本当か」
「……ああ」
ゼノは立ち上がった。
ふらつきながらも、何とか立っている。
「行こう」
彼は階段へ向かった。
私も、後に続く。
だが——心の中では、不安しかなかった。
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256階層。
階段を下りると、通路が続いていた。
暗く、狭い通路。
私たちは、黙って歩いた。
ゼノの足音が、不規則だ。
時々、壁に手をついて体を支えている。
「……ゼノ」
私は声をかけた。
「……何だ」
「……本当に、大丈夫か」
「大丈夫だと、言っているだろう」
ゼノの声が、苛立っていた。
「……すまない」
私は謝った。
ゼノは——何も言わなかった。
ただ、前を向いて歩き続けた。
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257階層。
また広間だった。
そして——モンスターがいた。
キメラ。Aランク。
獅子・山羊・蛇の三つの頭を持つ獣。
「……くそ」
ゼノが剣を抜いた。
「来るぞ」
キメラが、吠えた。
そして——こちらへ突進してくる。
私は剣を構えた。
キメラの爪を、受け流す。
反撃。
獅子の首を狙う。
だが——。
蛇の尾が、私を薙ぎ払った。
「……っ」
私は吹き飛ばされた。
床に、叩きつけられる。
「セリア!」
ゼノが前に出た。
大剣を振るう。
山羊の首を斬る。
キメラが怯んだ。
だが——。
ゼノの動きが、遅い。
いつもより、明らかに遅い。
キメラの爪が、ゼノの肩を切り裂いた。
「……っ」
ゼノが膝をついた。
「ゼノ!」
私は立ち上がった。
走る。
キメラとゼノの間に、割り込む。
剣を振るう。
獅子の首に、剣を叩き込む。
深く。
キメラが倒れた。
「……ゼノ」
私はゼノに駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
ゼノは肩を押さえた。
血が、流れている。
「治療薬を——」
私は腰の袋から治療薬を取り出した。
ゼノに渡す。
彼は、それを飲んだ。
傷が、塞がっていく。
「……すまない」
ゼノが呟いた。
「足手まといに、なってしまった」
「……違う」
私は首を横に振った。
「お前は、足手まといじゃない」
「でも——」
「もう、帰ろう」
私は強く言った。
「今日は、これ以上無理だ」
ゼノは——少しの間、黙っていた。
そして、小さく頷いた。
「……ああ」
声が、震えていた。
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地上へ戻った。
転移装置から降りると、医療室へ向かった。
ゼノの傷は治っているが、念のため診てもらう。
「……過労です」
治療師が言った。
「精神的な疲労も、限界に近い」
「最低でも一週間は、休んでください」
「……分かりました」
ゼノが答えた。
治療師が部屋を出ていく。
私は、ゼノのベッドの脇に座った。
「……セリア」
ゼノが口を開いた。
「……何だ」
「もう、無理だ」
ゼノは天井を見つめていた。
「俺は——もう、お前と一緒に潜れない」
「……何を言っている」
「囁きが、強すぎる」
ゼノの声が震えた。
「もう、抵抗できない」
「このままじゃ——お前を、傷つけてしまう」
「……」
私は何も言えなかった。
確かに——ゼノは限界だ。
今日の戦闘を見れば、分かる。
「だから——」
ゼノは私を見た。
「お前は、一人で進んでくれ」
「嫌だ」
私は即答した。
「お前を、置いていかない」
「セリア——」
「一緒に、答えを見つける」
私は強く言った。
「お前と、私で」
ゼノは——少しの間、私を見つめていた。
そして、目を伏せた。
「……ありがとう」
小さく、呟いた。
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その夜。
私は宿の部屋で、一人考えていた。
ゼノを、どうすればいいのか。
このまま深層へ進めば、彼は死ぬ。
囁きに飲み込まれて。
だが——地上に残せば、彼は苦しみ続ける。
囁きは、止まらないから。
「……どうすればいい」
私は呟いた。
答えは、出ない。
窓の外に、月が浮かんでいる。
満月。
明るい月。
だが——その光は、冷たい。
私は剣を見つめた。
空虚の剣。
「……お前は、何なんだ」
私は剣に問うた。
「なぜ、たまにしか光らない」
「なぜ、今日は光らなかった」
「ゼノを、助けてくれないのか」
だが——。
剣は、いつも通り沈黙していた。
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翌朝、私は一人で医療室を訪れた。
ゼノは、ベッドに横たわっていた。
目は開いているが、天井を見つめたまま動かない。
「……ゼノ」
私が声をかけると、彼はゆっくりと顔を向けた。
「……セリア」
「……調子は」
「……変わらない」
ゼノは目を閉じた。
「剣が、ずっと囁いている」
「もっと深く、と」
「……」
私は椅子に座った。
「一週間、休め」
「治療師が、そう言っていた」
「……ああ」
「だから——」
私は言葉を続けた。
「私も、一週間休む」
「……セリア」
「一緒に、休もう」
私はゼノを見た。
「そして——また、一緒に潜ろう」
ゼノは——少しの間、黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……お前は、頑固だな」
「……ああ」
私も頷いた。
「頑固だ」
ゼノは目を開けた。
その目には——少しだけ、光が戻っていた。
「……ありがとう」
小さく、呟いた。
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一週間の休息。
私は、その間ずっとゼノの側にいた。
医療室で、話をした。
過去のこと。
冒険のこと。
剣のこと。
そして——未来のこと。
「……セリア」
ある日、ゼノが言った。
「もし——俺が、いなくなっても」
「……」
「お前は、きっと答えを見つける」
「俺は、そう信じている」
私は——何も言わなかった。
ただ、ゼノの手を握った。
彼の手は、冷たかった。
だが——温かくもあった。
生きている、証。
一週間後。
ゼノは、少し回復した。
顔色も良くなり、目の下の隈も薄くなった。
「……行けるか」
私が尋ねると、ゼノは頷いた。
「……ああ」
「行こう」
二人は、再び深淵へ潜った。
だが——私は知らなかった。
これが、ゼノとの最後の共闘になることを。




