第85話 囁きの深化
翌朝、私はいつものようにゼノと合流した。
宿の前で待っていると、ゼノが歩いてくる姿が見えた。だが——何かがおかしい。
歩き方が、少し不安定だ。
「……おはよう」
私が声をかけると、ゼノは一瞬、動きを止めた。
「……ああ、おはよう」
返事が、遅い。
「……大丈夫か」
私は近づいた。
ゼノの顔を見る。目の下に、薄く隈ができている。顔色も悪い。
「……ああ、大丈夫だ」
ゼノは笑おうとした。だが、その笑みは硬い。
「……眠れなかったのか」
「……ほとんど」
ゼノは視線を逸らした。
「剣が、ずっと囁いていた」
「もっと深く。止まるな。進め」
彼の声が震えている。
「頭の中で、ずっと響いているんだ」
「……」
私は何も言えなかった。
囁きは、止まっていない。
むしろ、悪化している。
「でも——」
ゼノは私を見た。
「お前が剣を抜けば、たまに静かになる」
「だから——行こう」
「……本当に、大丈夫か」
「大丈夫だ」
ゼノは強く頷いた。
「行かなきゃ、ならない」
「答えは、深層にあるんだろう」
私は、ゼノの目を見た。
その目には、疲労の色が濃い。だが、同時に決意も宿っている。
「……分かった」
私は頷いた。
「行こう」
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244階層の転移装置から、私たちは降り立った。
石造りの広間。いつもと変わらない光景。
だが——。
「……っ」
ゼノが顔を歪めた。
「どうした」
「囁きが——強い」
ゼノは頭を押さえた。
「この階層、何かが違う」
「……」
私はすぐに剣を抜いた。
空虚の剣。
黒い刃が、微かに光った。
青白い、淡い光。
「……!」
ゼノの表情が、少し緩んだ。
「……少し、楽になった」
「ありがとう」
「……」
私は剣を構えたまま、ゼノを見た。
囁きが、強くなっている。
これは——危険かもしれない。
「行くぞ」
私は階段へ向かった。
ゼノも、後に続く。
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245階層。
階段を下りると、通路が続いていた。
狭く、暗い通路。
私は剣を抜いたまま歩いた。ゼノの囁きを少しでも抑えるために。
「……セリア」
ゼノが後ろから声をかけてきた。
「ずっと剣を抜いたままだと、疲れるだろう」
「……大丈夫だ」
「でも——」
「お前の方が、大事だ」
私は振り返らずに答えた。
「私は、まだ戦える」
「……すまない」
ゼノの声が、小さくなった。
「俺のせいで——」
「謝るな」
私は立ち止まった。
そして、ゼノを見た。
「お前は、悪くない」
「剣が、悪いんだ」
「……」
ゼノは何も言わなかった。
ただ、俯いていた。
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246階層。247階層。
階段を下り続ける。
私は剣を抜いたまま、モンスターと戦った。
黒い鎧の騎士が現れた。Aランク。
剣を振るう。一撃で、首を斬る。
騎士が倒れた。
「……お前、強くなったな」
ゼノが呟いた。
「前より、動きが鋭い」
「……そうか」
私は剣の血を払った。
強くなった、のか。
それとも——体が、思い出しているのか。
かつての動きを。
「休むか」
私がそう言うと、ゼノは首を横に振った。
「いや、まだ行ける」
「でも——」
「セリア」
ゼノは私を見た。
「俺は、大丈夫だ」
「お前が剣を抜いていてくれるから」
「だから——もう少し、進もう」
私は、ゼノの顔を見た。
疲労の色が濃い。
だが、目には決意が宿っている。
「……分かった」
私は頷いた。
「でも、限界だと思ったら言え」
「……ああ」
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248階層。
階段を下りると、そこは広い空間だった。
天井が高く、柱が立ち並んでいる。床は石畳で、壁には古代文字が刻まれている。
そして——中央に、また台座があった。
「……また、あれか」
ゼノが呟いた。
241階層で見た、あの台座。
だが、今回は何も置かれていない。
台座は、空だった。
「……近づいてみるか」
私は台座へ歩いた。
剣は、まだ抜いたままだ。
ゼノも、後に続く。
台座の前に立つ。
表面には、複雑な模様が刻まれている。文字のようでもあり、絵のようでもある。
「……何だ、これは」
私は手を伸ばした。
台座に触れる。
その瞬間——。
台座が光った。
青白い光が、台座全体を包む。
「!」
私は手を引いた。
だが、光は消えない。
そして——声が聞こえた。
『——よく来た——』
「……!」
ゼノが剣を構えた。
『——241階層を超えた者よ——』
声が、空間に響く。
『——お前たちは、資格を得た——』
「資格?」
私は声に向かって問うた。
「何の資格だ」
『——深層へ進む資格——』
声が答えた。
『——250階層へ——』
『——そこに、第一の真実がある——』
「第一の真実……」
ゼノが呟いた。
『——剣の秘密——』
声が続けた。
『——人が、なぜ剣を持つのか——』
『——剣が、なぜ人を囁かせるのか——』
『——その答えが、250階層にある——』
「……」
私は黙っていた。
剣の秘密。
それは、私が知りたいことだ。
なぜ、私の剣だけが囁かないのか。
なぜ、たまにゼノの囁きを抑えられるのか。
『——だが、注意せよ——』
声のトーンが、変わった。
『——250階層から先は——』
『——囁きは、さらに強くなる——』
『——抵抗できない者は——』
『——深層に、飲み込まれる——』
沈黙が、広間を支配した。
飲み込まれる。
その言葉が、重く響く。
「……セリア」
ゼノが私を見た。
「どうする」
「……」
私は考えた。
250階層。
そこに、答えがある。
だが——危険だ。
ゼノは、すでに限界に近い。
囁きに苦しめられている。
250階層から先は、さらに厳しくなる。
「……進む」
私は答えた。
「答えは、そこにしかない」
「……そうか」
ゼノは小さく笑った。
「やっぱり、お前はそう言うと思った」
「でも——」
私はゼノを見た。
「無理はするな」
「限界だと思ったら、すぐに言え」
「……ああ」
ゼノは頷いた。
「約束する」
『——では、進め——』
声が言った。
『——250階層で、待っている——』
光が消えた。
台座も、元の石の色に戻った。
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249階層。
階段を下りる。
一歩、また一歩。
私の足音と、ゼノの足音。
それだけが、聞こえる。
私は剣を抜いたまま歩いている。腕が痺れてきた。重い。
だが、鞘に戻すわけにはいかない。
ゼノの囁きが、また強くなるから。
「……セリア」
ゼノが口を開いた。
「もし——俺が、もう無理だと思ったら」
「……」
「お前は、先に進んでくれ」
「何を言っている」
私は立ち止まった。
「お前を置いていくわけがない」
「でも——」
「でも、何もない」
私は強く言った。
「お前は、私の仲間だ」
「仲間を、見捨てたりしない」
ゼノは——少しの間、黙っていた。
そして、小さく笑った。
「……ありがとう」
「……」
「お前がいてくれて、本当に良かった」
私は何も言わなかった。
ただ、また歩き出した。
だが——心の中では、不安が募っていた。
ゼノは、本当に大丈夫なのだろうか。
囁きは、どんどん強くなっている。
このままでは——。
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250階層への階段が、見えてきた。
長い階段。
下へ、下へと続いている。
「……ついに、ここまで来たな」
ゼノが呟いた。
「250階層」
「……ああ」
私も頷いた。
ここに、答えがある。
剣の秘密が。
「行くぞ」
私は階段を下り始めた。
ゼノも、後に続く。
一歩、また一歩。
階段は、果てしなく続く。
どれくらい下りただろうか。
時間の感覚が、曖昧になる。
そして——。
階段の先に、光が見えた。
白い光。
まるで、出口のような。
「……あれは」
ゼノが呟いた。
私たちは、光へ向かって歩いた。
そして——。
250階層へ、辿り着いた。
白い光が、私たちを包み込む。
眩しい。
目を閉じる。
そして、目を開けると——。
そこは、広大な空間だった。
天井が見えないほど高く、床は白い石で敷き詰められている。
壁には、無数の古代文字が刻まれている。
そして——中央に。
巨大な石碑が、立っていた。
「……何だ、あれは」
ゼノが呟いた。
石碑は、高さ10メートルはある。
表面には、文字が刻まれている。
だが——読めない。
古代の言葉だ。
「近づいてみよう」
私は石碑へ歩いた。
ゼノも、後に続く。
石碑の前に立つ。
見上げると、文字が光っている。
青白い光。
そして——。
石碑から、声が聞こえた。
『——ようこそ——』
『——250階層へ——』
『——ここに、第一の真実がある——』
私は息を呑んだ。
真実。
ついに、ここに——。




