第84話 再開
三日後、ゼノは完全に回復した。
医療室を出た彼の顔には、血色が戻っていた。歩き方もしっかりしている。以前の、あの虚ろな目はもうない。
「久しぶりだな、外の空気は」
ゼノは深く息を吸い込んだ。朝の冷たい空気が、肺を満たす。
「……ああ」
私も頷いた。
三日間、私たちは休んでいた。ゼノは医療室で、私は宿で。深淵には一度も潜らなかった。
体は回復した。傷も癒えた。疲労も取れた。
だが——心の中には、まだ何かが引っかかっていた。
剣の囁き。
あれは、一体何なのか。
なぜ、人を深層へ誘うのか。
そして、なぜ私の剣だけが、それを止められるのか。
「セリア」
ゼノの声が、私の思考を遮った。
「今日は、どうする」
「……深層へ」
私は即答した。
「240階層から、再開する」
「分かった」
ゼノは頷いた。その目には、決意が宿っていた。
「行こう」
二人は、アビスへ向かった。
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転移装置の前に立つ。職員が操作盤を確認している。
「240階層への転移、準備完了です」
「……ああ」
私は頷いた。
ゼノと視線を交わす。彼も頷き返した。
光が、私たちを包み込む。視界が白く染まり、体が浮遊する感覚。そして——。
240階層。
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転移装置から降り立った瞬間、空気の重さが体に圧し掛かってきた。深層特有の、あの圧迫感。
「……重いな」
ゼノが呟いた。
「空気が」
「……ああ」
私も感じていた。この階層の空気は、明らかに違う。密度が濃い。呼吸するだけで、肺に負担がかかる。
周囲を見回す。石造りの広間。天井は高く、壁には古代文字が刻まれている。松明が壁に取り付けられ、オレンジ色の光が空間を照らしている。
だが——何かが違う。
「……何だろう、この感じは」
ゼノも気づいたようだった。
「何かが、変だ」
「……ああ」
私も頷いた。
この感覚。言葉にできない、だが確かに存在する違和感。
まるで——見られているような。
「行くぞ」
私は剣の柄に手をかけた。
「……ああ」
ゼノも大剣を構える。
二人は、次の階層へ続く階段へ向かった。
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241階層。
階段を下りると、そこは長い通路だった。幅は狭く、天井も低い。壁が両側から迫ってくるような、圧迫感のある空間。
足音が、静寂の中に響く。
私の足音と、ゼノの足音。
それだけが、聞こえる音だった。
「……静かだな」
ゼノが呟いた。
「モンスターの気配がない」
「……ああ」
私も同じことを感じていた。いつもなら、この階層にはモンスターがいるはずだ。だが、今は何もいない。
不気味な静寂。
まるで、何かが私たちを待っているような。
通路を進む。一歩、また一歩。
そして——。
通路の先に、扉が見えた。
大きな、石造りの扉。表面には、複雑な模様が刻まれている。古代文字のようにも見えるが、読めない。
「……何だ、これは」
ゼノが扉の前で立ち止まった。
「こんなもの、聞いたことがない」
「……初めて見る」
私も扉を見つめた。
この扉。見覚えは——ない。
だが、体が何かを感じている。微かな、既視感のようなもの。
「開けてみるか」
ゼノが扉に手をかけた。
重い音を立てて、扉がゆっくりと開く。
その向こうには——。
広間があった。
円形の広間。天井は高く、中央には台座が置かれている。台座の上には、何かが光っていた。
青白い光。
脈動するような、生き物のような光。
「……これは」
私は一歩、広間へ踏み込んだ。
その瞬間——。
扉が背後で閉まった。
「!」
ゼノが振り返る。だが、扉は動かない。
「くそ、開かない」
ゼノが扉を押すが、びくともしない。
「……罠か」
私は剣を抜いた。
周囲を警戒する。モンスターが現れるかもしれない。
だが——。
何も現れない。
静寂だけが、広間を支配している。
「セリア、あれを見ろ」
ゼノが台座を指差した。
台座の上で光っているもの。
私はゆっくりと近づいた。
それは——結晶だった。
青白く光る、拳大の結晶。
表面は滑らかで、内部には何かが渦巻いているように見える。
「……何だ、これは」
「分からない」
ゼノも台座の前に立った。
「だが、ただの飾りじゃないだろう」
私は結晶を見つめた。
光が、脈動している。まるで心臓のように。
そして——。
結晶から、声が聞こえた。
『——深く——』
「!」
私は一歩、後ずさった。
『——もっと深く——』
声だ。
囁きの、声。
『——進め——』
『——止まるな——』
ゼノが顔を歪めた。
「これは——剣の囁きと同じ——」
『——深層へ——』
『——真実は、深層に——』
声が、広間に響き渡る。
私は剣を構えた。だが、何に対して構えればいいのか分からない。
敵は、いない。
ただ、結晶があるだけ。
『——来い——』
『——答えを求める者よ——』
『——深層へ——』
結晶の光が、強くなった。
『——全ては、そこにある——』
「……何が」
私は結晶に向かって言った。
「何が、あるんだ」
『——真実——』
結晶が答えた。
『——剣の真実——』
『——世界の真実——』
『——そして——お前自身の真実——』
「……」
私は息を呑んだ。
私自身の、真実。
それは、一体何なのか。
記憶がない私に、知るべき真実があるのか。
『——進め——』
結晶が囁く。
『——恐れるな——』
『——答えは、待っている——』
光が、さらに強くなる。
眩しい。目を開けていられない。
そして——。
光が消えた。
結晶も、消えていた。
台座の上には、何もない。
「……何だったんだ、今のは」
ゼノが呟いた。
「幻覚か?」
「……分からない」
私は台座を見つめた。
確かに、そこには結晶があった。
そして、声が聞こえた。
真実について語る、あの声が。
「セリア」
ゼノが私の肩に手を置いた。
「大丈夫か」
「……ああ」
私は頷いた。
「大丈夫だ」
だが、心の中では混乱していた。
剣の真実。
世界の真実。
私自身の真実。
全てが、深層にあるという。
だが、私には記憶がない。
何も、分からない。
「扉が開いたぞ」
ゼノの声で、我に返った。
振り返ると、扉が開いている。
「……行こう」
私は広間を後にした。
だが、結晶の声は、まだ頭の中に残っていた。
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242階層。243階層。
階段を下りながら、私は黙っていた。
ゼノも、何も言わない。
二人とも、さっきの結晶のことを考えているのだろう。
あれは、一体何だったのか。
なぜ、真実について語ったのか。
そして——。
「セリア」
ゼノが口を開いた。
「さっきの結晶、どう思う」
「……分からない」
私は正直に答えた。
「でも——嘘ではないと思う」
「……そうか」
ゼノは前を見た。
「俺もだ」
「あの声——本当に、何かを伝えようとしていた」
「……ああ」
私も頷いた。
あの声には、嘘はなかった。
ただ、真実を語っていた。
深層に、答えがあると。
「進むしかないな」
ゼノが言った。
「……ああ」
私は頷いた。
進むしかない。
答えは、深層にしかないから。
244階層に到着した。
そこには、転移装置があった。
「今日は、ここまでにするか」
ゼノが提案した。
「……ああ」
私は頷いた。
体は疲れていないが、心が疲れている。
あの結晶の声が、まだ頭から離れない。
転移石を使う。
光が、私たちを包む。
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地上へ戻ると、夕暮れだった。
オレンジ色の空が、街を照らしている。
「また明日」
ゼノがそう言って、別れた。
私は一人、宿へ向かった。
部屋に戻ると、窓から夕日が差し込んでいた。
私は剣を見つめた。
空虚の剣。
この剣には、何が隠されているのか。
そして、深層には——本当に、真実があるのか。
答えは、まだ分からない。
だが、いつか。
必ず、明らかになる。
その時まで——私は、進み続ける。




