第83話 休息と疑問
翌朝、私は医療室を訪れた。
ゼノはベッドに横たわっていた。顔色は昨日よりも良くなっている。それでも、疲労の色は濃い。
「……調子は」
私が尋ねると、ゼノは小さく笑った。
「まあまあだ。お前は?」
「……問題ない」
嘘だった。体は重く、昨日の疲労がまだ残っている。だが、ゼノの前では弱音を吐けない。
「無理するな」
ゼノは私を見つめた。
「お前も、限界だったんだろう」
「……」
私は答えなかった。否定できない。
「数日は休め」
ゼノが続けた。
「私も休む。お互い、体を回復させよう」
「……そうだな」
私は頷いた。
確かに、このまま深層へ潜るのは危険だ。体が回復していない状態では、戦えない。
「じゃあ、また後で」
私は医療室を出た。
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宿に戻ると、ミラが待っていた。
「セリアさん」
彼女は心配そうな顔で私を見た。
「昨日は、本当に……」
「……大丈夫だ」
私は首を横に振った。
「ゼノも見つかった。二人とも、無事だ」
「よかった……」
ミラは安堵の息を吐いた。
「本当に、よかった」
彼女の目が潤んでいた。
「朝食、食べましたか?」
「……まだだ」
「じゃあ、一緒に」
ミラは微笑んだ。
「食堂へ行きましょう」
私は頷いた。
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食堂は、朝の光が差し込んでいた。
窓の外には、街の風景が広がっている。人々が行き交い、店が開き始めている。
普通の、日常の光景。
深淵の中とは、まるで別世界だ。
「何にしますか?」
ミラが尋ねた。
「……任せる」
「じゃあ、パンとスープとサラダにしましょう」
ミラは注文を済ませ、私の向かいに座った。
しばらく、沈黙が続いた。
「……セリアさん」
ミラが口を開いた。
「聞いてもいいですか」
「……何を」
「セリアさんの剣のこと」
ミラは真剣な顔で私を見つめた。
「ゼノさんの囁きを、止めたんですよね」
「……ああ」
私は頷いた。
「二度。220階層と、239階層で」
「どうやって?」
「……分からない」
私は首を横に振った。
「剣が勝手に光った。それだけだ」
「勝手に……」
ミラは考え込むような表情になった。
「セリアさんの意思じゃなく?」
「……ああ」
私は自分の剣を見下ろした。腰に下げた、空虚の剣。
「私が何かしたわけじゃない。剣が、勝手に」
「不思議ですね」
ミラが呟いた。
「空虚の剣は、何も宿っていないはずなのに」
「……ああ」
「でも、何かが宿っているのかもしれません」
ミラは私を見た。
「前の持ち主の記憶じゃなくて、別の何かが」
「……別の何か」
私はその言葉を反芻した。
別の何か。
それは、一体何だろう。
「私の兄も、剣に囁かれていました」
ミラが静かに言った。
「もっと深く、って」
「5年前、150階層で死にました」
彼女の声が震えた。
「剣が、兄を深層へ誘ったんです」
「……」
「でも、兄は最後まで抵抗していました」
ミラは俯いた。
「囁きに、従いたくないって」
「でも、結局……」
彼女は言葉を切った。
私は、何も言えなかった。
ただ、黙って聞いていた。
「だから、セリアさんの剣が囁きを止められるなら」
ミラが顔を上げた。
「それは、すごいことだと思います」
「兄みたいに、囁きに苦しむ人を助けられるかもしれない」
「……そうだな」
私は頷いた。
「でも、まだ分からないことが多すぎる」
「なぜ、私の剣が囁きを止められるのか」
「どういう仕組みなのか」
「全く、分からない」
「いつか、分かる時が来ますよ」
ミラは優しく微笑んだ。
「きっと」
その時、料理が運ばれてきた。
温かいスープ。焼きたてのパン。新鮮なサラダ。
「さあ、食べましょう」
ミラが言った。
「体を回復させないと」
私は頷いて、スプーンを手に取った。
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午後、私は一人で街を歩いていた。
特に目的はない。ただ、歩きたかった。
深淵の中では、いつも緊張している。いつモンスターが現れるか分からない。いつ死ぬか分からない。
でも、地上では違う。
平和だ。静かだ。
人々は笑い、子供たちは走り回っている。
普通の、日常。
私も、昔はこんな日常を送っていたのだろうか。
2年前の記憶は、ない。
でも、きっと。
「……」
私は立ち止まった。
広場に出ていた。中央には噴水があり、水が音を立てて流れている。
ベンチに座る。
空を見上げた。
青い空。白い雲。
深淵の中では、見られない光景。
「……空虚の剣」
私は呟いた。
「お前は、一体何なんだ」
答えはない。
いつも通り、沈黙している。
「なぜ、ゼノの囁きを止められる」
「なぜ、お前だけ何も宿っていない」
「なぜ——」
私は言葉を切った。
考えても、答えは出ない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
この剣は、特別だ。
他の剣とは、何かが違う。
そして、その「何か」が、いつか明らかになる。
その時が来るまで——私は、進み続けるしかない。
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夕方、再び医療室を訪れた。
ゼノは起き上がっていた。ベッドに座り、窓の外を見つめている。
「……調子は」
私が尋ねると、ゼノは振り返った。
「だいぶ良くなった」
彼は笑った。
「明日には、退院できそうだ」
「……そうか」
私はベッドの脇の椅子に座った。
「無理するな」
「分かってる」
ゼノは頷いた。
「でも、いつまでも休んでいられない」
「……」
「深層へ、また潜らなきゃならない」
ゼノの表情が曇った。
「剣は、まだ囁いている」
「今は、お前の剣のおかげで静かだけど」
「お前が離れれば、また始まる」
「……」
私は何も言えなかった。
確かに、私の剣の効果は一時的だ。
私がゼノの側にいる間だけ、囁きは止まる。
でも、離れれば戻ってくる。
「どうすればいいんだろうな」
ゼノが呟いた。
「この囁きから、逃れる方法は」
「……分からない」
私は首を横に振った。
「でも、必ずある」
「答えは、深層にある」
「……深層に」
ゼノは私を見た。
「お前は、そう思うのか」
「……ああ」
私は頷いた。
「剣の秘密は、深層にある」
「囁きの理由も、私の剣の力も」
「全て、深層に答えがある」
「……そうかもしれないな」
ゼノは窓の外を見た。
「じゃあ、行くしかないな」
「また、深層へ」
「……ああ」
私も窓の外を見た。
夕日が、街を赤く染めている。
美しい光景。
でも、この美しさの下には、深淵が広がっている。
500階層の、底知れぬ闇が。
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その夜、私は宿の部屋で剣を見つめていた。
空虚の剣。
黒い刃。
何も宿っていない、と言われている剣。
でも、本当にそうなのか。
ミラの言葉が、頭に浮かぶ。
「別の何かが宿っているのかもしれません」
別の何か。
それは、一体何だろう。
私は剣を抜いた。
刃が、月の光を反射する。
美しい。
そして——冷たい。
「……教えてくれ」
私は剣に語りかけた。
「お前の秘密を」
答えはない。
沈黙。
いつもの、沈黙。
だが——。
一瞬、刃が微かに光った気がした。
青白い、淡い光。
「……」
私は目を凝らした。
だが、もう光っていない。
気のせいだったのか。
それとも——。
私は剣を鞘に戻した。
答えは、まだ出ない。
でも、いつか。
必ず。
窓の外に、星が瞬いている。
深淵の奥底では、今も何かが蠢いている。
剣の囁き。
人を深層へ誘う、あの声。
そして、私の剣が持つ、謎の力。
全ての答えは、深層にある。
私は——また、潜らなければならない。
ゼノと共に。
答えを求めて。




