第79話 侵食
医療室。
ゼノはベッドに横たわっていた。
治療師が診察を終え、部屋を出ていった。「肋骨にひびが入っていますが、治療薬で治ります。三日ほど安静に」と言い残して。
部屋には、ゼノ一人が残された。
窓から夕陽が差し込んでいる。オレンジ色の光。温かい光。
だが、ゼノの心は——冷たかった。
「……三日」
ゼノは呟いた。
三日も、休まなければならない。
三日も、深層へ行けない。
「……くそ」
拳を握る。痛みが走る。肋骨が軋む。
だが、それよりも——。
『情けないな』
声が聞こえた。
剣の声。
ベッドの脇に立てかけられた大剣。そこから、声が聞こえる。
「……黙れ」
ゼノは小さく呟いた。
『ミノタウロスごときに、やられるとは』
『お前、本当に弱くなったな』
「……」
『俺に身を任せれば、こんなことにはならなかった』
『お前が、意地を張るから』
「意地じゃない」
ゼノは剣を睨んだ。
「これは、俺の意思だ」
『意思?』
剣が笑った。
『お前に、まだ意思があると思ってるのか』
「……ある」
『ないな』
剣の声が冷たくなった。
『お前は、もう俺の言いなりだ』
『気づいていないだけで』
「……違う」
『本当に?』
剣が問うた。
『なら、なぜ——』
『なぜ、セリアに本当のことを言わなかった』
ゼノは——息を呑んだ。
確かに。
セリアには、全てを話していない。
囁きの内容。剣が何を言っているか。
『セリアを置いていけ』
『一人で行け』
そんな言葉を、セリアには言えなかった。
「……言えるわけがない」
『なぜ?』
『お前の意思なら、言えるはずだ』
『でも、言えない』
『なぜなら——』
『それは、お前の意思ではないからだ』
『俺の意思だからだ』
ゼノは——何も言えなかった。
剣の言葉が、胸に突き刺さる。
「……」
『認めろ、ゼノ』
剣が優しく囁いた。
『お前は、もう俺のものだ』
『抵抗しても、無駄だ』
『いずれ、完全に俺のものになる』
『だから——』
『今、楽になれ』
『俺に、身を任せろ』
ゼノは——目を閉じた。
涙が溢れそうになる。
だが、堪える。
「……いやだ」
小さく、呟いた。
「俺は、まだ——」
「俺自身でいたい」
『……』
剣は、何も答えなかった。
ただ、沈黙だけがあった。
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夜。
ゼノは眠れなかった。
目を閉じれば、剣の声が聞こえる。
『もっと深く』
『止まるな』
『セリアを置いていけ』
耳を塞いでも、聞こえる。頭の中で、直接響く。
「……うるさい」
ゼノは呟いた。
「黙ってくれ」
『嫌だ』
剣が答えた。
『お前が、俺を受け入れるまで』
『ずっと、囁き続ける』
「……」
『疲れただろう』
『眠りたいだろう』
『なら——』
『俺に身を任せろ』
『そうすれば、楽になれる』
『囁きも止まる』
『安らかに眠れる』
その言葉が——魅力的に聞こえた。
ゼノは、限界だった。
もう何日も、まともに眠っていない。
身体は疲労困憊。精神も摩耗している。
このまま耐え続けられるのか。
分からない。
「……もし」
ゼノは呟いた。
「もし、お前に身を任せたら——」
「俺は、どうなる」
『安らぎを得る』
剣が答えた。
『囁きは止まる』
『疲労も消える』
『お前は、強くなる』
『俺の力で』
「……代償は」
『ない』
剣は即答した。
『ただ、俺に従うだけだ』
「……それが、代償だろう」
ゼノは苦笑した。
「俺の意思を、失う」
『意思など、いらない』
剣の声が冷たくなった。
『意思があるから、苦しむ』
『意思があるから、迷う』
『意思を捨てれば——』
『すべてが、楽になる』
「……」
ゼノは——考えた。
もし、意思を捨てたら。
もし、剣に身を任せたら。
確かに、楽になるだろう。
囁きは止まる。疲労も消える。
でも——。
それは、自分ではなくなる。
ゼノという人間が、消える。
ただの、剣の操り人形になる。
「……嫌だ」
ゼノは呟いた。
「それだけは、嫌だ」
『なぜ』
『楽になれるのに』
「……俺は」
ゼノは拳を握った。
「俺自身でいたい」
「たとえ、苦しくても」
「たとえ、辛くても」
「俺は、俺でいたい」
『……愚かだな』
剣が呟いた。
『そんな意地を張って、何になる』
『いずれ、お前は負ける』
『疲労で、精神が崩壊する』
『そうなれば——』
『俺が、全てを支配する』
「……させない」
『どうやって』
『お前に、もう力は残っていない』
ゼノは——何も言えなかった。
確かに、力は残っていない。
もう、限界だ。
でも——。
「……セリアがいる」
ゼノは呟いた。
「セリアが、助けてくれる」
『本当に?』
剣が笑った。
『セリアは、お前を救えない』
『誰も、お前を救えない』
『剣の囁きから逃れる方法は、ない』
『だから——』
『諦めろ』
『俺に、身を任せろ』
ゼノは——涙を流していた。
声を殺して。
一人で。
「……助けてくれ」
小さく呟いた。
「誰か——」
だが。
誰も答えなかった。
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翌朝。
セリアが医療室を訪れた。
ドアをノックする。
「……入れ」
ゼノの声が聞こえた。
セリアは部屋に入った。
ゼノはベッドに座っていた。顔色は——最悪だった。
目の下の隈が、さらに深くなっている。頬もこけている。肌は蝋のように白い。
「……ゼノ」
「……セリア」
ゼノは笑顔を作ろうとした。だが、崩れた。
「……すまない」
「謝るな」
セリアは椅子に座った。
「身体は?」
「……治療薬で治った」
「そうか」
沈黙。
二人とも、何を言えばいいのか分からなかった。
やがて、セリアが口を開いた。
「……ゼノ」
「何だ」
「剣の囁き、まだ続いているか」
ゼノは——躊躇した。
だが。
「……ああ」
認めた。
「止まらない」
「……」
「むしろ、激しくなっている」
ゼノは剣を見た。
「夜も眠れない」
「目を閉じれば、囁きが聞こえる」
「……何を、言っている」
セリアが問うた。
ゼノは——躊躇した。
だが、セリアの真剣な目を見て——答えた。
「……もっと深く行け、と」
「セリアを置いていけ、と」
「一人で進め、と」
セリアは拳を握った。
「……そうか」
「すまない」
ゼノは顔を伏せた。
「剣が、お前のことを——」
「気にするな」
セリアは静かに言った。
「それは、剣の言葉だ」
「お前の言葉じゃない」
「……」
「お前は、そんなことを思っていないだろう」
ゼノは——涙を流した。
「……ああ」
小さく呟いた。
「思っていない」
「お前は、大切な仲間だ」
「置いていくなんて、考えたこともない」
「分かっている」
セリアは頷いた。
「だから、気にするな」
「……」
「ただ——」
セリアは真剣な顔で言った。
「剣を、手放そう」
「……無理だ」
「なぜ」
「……剣使いが剣を手放すことは、できない」
ゼノは苦笑した。
「それは、死ぬことと同じだ」
「でも、このままでは——」
「分かってる」
ゼノが遮った。
「分かってる。このままでは、俺はアシュと同じになる」
「……」
「でも、俺には——」
ゼノは顔を伏せた。
「俺には、剣を手放す勇気がない」
「……ゼノ」
「情けないだろう」
ゼノは自嘲した。
「剣に殺されると分かっていても、手放せない」
「それは——」
セリアは言葉を探した。
「それは、弱さじゃない」
「……何?」
「剣使いとして、当然のことだ」
セリアは静かに言った。
「剣は、俺たちの命だ」
「命を手放すことは、誰にもできない」
「……」
「だから、お前は弱くない」
セリアはゼノを見た。
「ただ——人間らしいだけだ」
ゼノは——涙を流した。
声を出さずに。
「……ありがとう」
小さく呟いた。
「……」
セリアは何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
ゼノの隣で。
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数時間後。
セリアは医療室を出た。
廊下を歩く。拳を握りしめている。
「……剣の囁き」
セリアは呟いた。
「なぜ、人を苦しめる」
「なぜ、深層へ誘う」
「その答えを——」
「必ず見つける」
セリアは決意した。
ゼノを救うために。
そして——二度と、こんな悲劇が起きないように。
真実を知る。
剣の真実を。
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その夜。
ゼノは一人、医療室で目を覚ましていた。
窓の外には、星が瞬いている。
静かな夜。
だが、ゼノの心は——静かではなかった。
『ゼノ』
剣の声が聞こえた。
「……」
『セリアは、お前を救えない』
『誰も、お前を救えない』
『お前を救えるのは——』
『俺だけだ』
ゼノは——剣を見た。
大剣。Bランクの剣。
二十年近く共にしてきた剣。
だが、今は——。
敵にしか見えなかった。
「……いつか」
ゼノは呟いた。
「いつか、お前を手放す日が来るのかもしれない」
『来ない』
剣が断言した。
『お前は、死ぬまで俺を手放せない』
『そして——』
『死んだ後も、終わらない』
ゼノは——息を呑んだ。
「……何?」
『死んでも、お前は俺と共にいる』
剣が囁いた。不気味な声で。
『永遠に』
『離れられない』
『それが——』
『剣使いの運命だ』
ゼノは——恐怖した。
全身が震えた。
「……嘘だ」
『本当だ』
『アシュも、そうなる』
『お前も、そうなる』
『すべての剣使いが——』
『いずれ、そうなる』
ゼノは——声を失った。
それが、何を意味しているのか。
完全には分からない。
だが——。
不吉な予感だけが、胸を満たした。
「……そんな」
『信じられないか』
『でも、真実だ』
『お前も、いずれ知ることになる』
『深層で』
『もっと深く行けば——』
『すべてが、分かる』
ゼノは——何も言えなかった。
ただ、震えていた。
恐怖で。
そして——。
剣の声は、止まらなかった。
朝まで。




