第78話 亀裂
翌朝、セリアとゼノは再び深層へ降りた。
220階層からの再開。転移装置の光が消えると、二人は石造りの広間に立っていた。松明が揺れている。影が壁を這う。
「……行くぞ」
ゼノが言った。
「……ああ」
セリアは剣を抜いた。空虚の剣。漆黒の刃。
だが——セリアの視線は、剣ではなくゼノに向いていた。
彼の背中。いつもと変わらない背中。だが、どこか——違う。
何が違うのか。
セリアには、まだ分からなかった。
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221階層への階段を下りる。
長い階段。壁には青白い光を放つ苔。それだけが光源。
足音が響く。二人の足音。
だが——ゼノの足音が、わずかに不規則だった。
リズムが、少しだけずれている。
セリアは気づいていた。だが、何も言わなかった。
やがて、階段が終わった。
221階層。
広大な空間。天井は高く、壁は遠い。床は黒い岩。ところどころ、水が滴っている。
そして——モンスターがいた。
オーガ。Aランク。
体高3メートル。筋骨隆々とした巨体。手には巨大な棍棒。
オーガがセリアとゼノを見た。
咆哮。
空気が震える。
オーガが突進してくる。
「……散開する」
ゼノが言った。
「……ああ」
セリアは左へ、ゼノは右へ。
オーガの棍棒が、二人の間を通過する。床が砕ける。
セリアは走った。オーガの側面に回り込む。剣を構える。
オーガが振り返る。棍棒を横薙ぎに振るう。
セリアは屈んだ。棍棒が頭上を通過する。
その隙に、セリアは踏み込んだ。オーガの脚を斬る。
刃が食い込んだ。
オーガが悲鳴を上げた。
ゼノが背後から攻撃した——はずだった。
だが——。
ゼノの攻撃が来ない。
セリアは咄嗟に後退した。オーガの拳が、さっきまでセリアがいた場所を叩く。
「ゼノ!」
セリアが叫んだ。
振り返ると——ゼノがいた。剣を構えている。だが、動かない。
まるで、躊躇しているかのように。
「……!」
オーガが再び棍棒を振るう。セリアを狙う。
セリアは避けた。横に跳ぶ。
そして——反撃した。連続で剣を振るう。オーガの腕、胴、脚。
傷が増える。
オーガが怯む。
その瞬間——ゼノが動いた。
大剣を振り上げる。オーガの首を狙う。
刃が食い込んだ。
オーガが倒れた。動かなくなった。
静寂。
セリアは息を整えた。そして——ゼノを見た。
「……ゼノ」
「……すまない」
ゼノが先に謝った。
「タイミングを逃した」
「……」
セリアはゼノに近づいた。
「大丈夫か」
「大丈夫だ」
ゼノは即答した。
だが——その目は、どこか焦点が合っていなかった。
「……本当に?」
「本当だ」
ゼノは剣を鞘に戻した。
「次は、ミスしない」
「……」
セリアは何も言えなかった。
だが、心の中では——不安が膨らんでいた。
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222階層、223階層。
戦闘が続いた。
キメラ、ミノタウロス、ワイバーン。
どれも強敵だった。
だが、セリアとゼノは倒していった。
しかし——。
ゼノのミスが増えていた。
攻撃のタイミングが遅れる。防御の位置がずれる。移動の判断が鈍い。
わずかな、本当にわずかなミスだった。
だが——確実に増えていた。
セリアは気づいていた。
そして——心配していた。
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224階層。
転移装置があった。白い光を放つ円形の台座。
「……少し休むか」
セリアが提案した。
「……ああ」
ゼノは頷いた。
二人は転移装置の近くに座った。
セリアは治療薬を飲んだ。ゼノも飲んだ。
傷が癒える。だが、疲労は残る。
沈黙。
松明の火が揺れている。影が踊っている。
「……ゼノ」
セリアが口を開いた。
「……何だ」
「さっきの戦闘だが——」
セリアはゼノを見た。
「動きが、鈍かった」
「……」
「疲れているのか?」
「……少しな」
ゼノは認めた。
「でも、大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
セリアの声が強くなった。
「このままでは、いずれ——」
「分かってる」
ゼノが遮った。
「分かってるから、心配するな」
「……」
「俺は、ベテランだ。自分の限界くらい、分かる」
ゼノは立ち上がった。
「行くぞ」
「……待て」
セリアも立ち上がった。
「もう少し休もう」
「必要ない」
「ゼノ」
セリアはゼノの腕を掴んだ。
「無理をするな」
ゼノは——セリアを見た。
その目には、何かがあった。
焦り? 苛立ち? それとも——恐怖?
「……離してくれ」
ゼノの声が、冷たかった。
「……ゼノ?」
「離してくれ、セリア」
セリアは——手を離した。
ゼノは前を向いた。
「行くぞ」
そして——歩き出した。
セリアは、その背中を見つめていた。
何かが、おかしい。
ゼノが、変わっている。
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225階層、226階層、227階層。
戦闘が続いた。
だが、ゼノのミスは減らなかった。
むしろ、増えていた。
227階層で、グリフォンと戦った時——。
ゼノは、グリフォンの爪を避け損ねた。
爪が、ゼノの腕を掠めた。
「……!」
鎧が裂ける。血が飛ぶ。
「ゼノ!」
セリアが叫んだ。
グリフォンに向かって走る。剣を振るう。
グリフォンの翼を斬る。
グリフォンが墜落した。
セリアは止めを刺した。剣を首に突き立てる。
グリフォンが動かなくなった。
セリアは振り返った。
ゼノが膝をついていた。腕を押さえている。
「……ゼノ!」
セリアは駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
ゼノは治療薬を取り出した。飲む。
傷が癒える。
だが、顔色は悪いままだった。目の下の隈が、さらに深くなっている。
「……もう、限界だ」
セリアは言った。
「地上へ戻ろう」
「……いや」
ゼノは首を横に振った。
「まだ行ける」
「行けない」
セリアの声が強くなった。
「お前の動き、明らかにおかしい」
「……」
「このままでは、死ぬぞ」
その言葉に、ゼノは——顔を上げた。
「……死なない」
「なぜ、そう言える」
「……」
ゼノは答えなかった。
ただ、剣を握りしめていた。
セリアは——その手を見た。
震えている。ゼノの手が、震えている。
「……ゼノ」
セリアは静かに言った。
「何か、隠していないか」
「……何も」
「嘘だ」
セリアの目が、ゼノを見つめた。
「お前、何かに苦しんでいる」
「……」
「アシュと同じように」
その言葉に、ゼノの身体が強張った。
「……違う」
「違わない」
セリアは一歩、ゼノに近づいた。
「お前の症状、アシュと同じだ」
「眠れていない。食べていない。動きが鈍い」
「そして——」
セリアはゼノの剣を見た。
「剣を、握りしめている」
「……」
「剣の、囁きか?」
セリアが問うた。
ゼノは——何も答えなかった。
だが、その沈黙が——答えだった。
「……そうか」
セリアは呟いた。
「やはり、そうだったのか」
「……セリア」
ゼノが口を開いた。
「俺は——」
「言わなくていい」
セリアが遮った。
「分かっている」
「……」
「辛いんだろう」
セリアの声が、優しくなった。
「剣の声が、止まらないんだろう」
ゼノは——顔を伏せた。
「……ああ」
小さく、認めた。
「止まらない」
「いつから」
「……200階層を超えた頃から」
ゼノは呟いた。
「最初は小さかった。でも——」
「だんだん大きくなった」
「……そうか」
セリアは拳を握った。
また、か。
また、剣が——仲間を蝕んでいる。
「……地上へ戻ろう」
セリアは言った。
「剣を、手放そう」
「……無理だ」
ゼノは首を横に振った。
「剣使いが、剣を手放すことはできない」
「死ぬぞ」
「……分かってる」
ゼノの声が震えた。
「分かってる。でも——」
「俺は、剣を手放せない」
「……」
「これは、俺の命だ」
ゼノは剣を見た。
「二十年近く、共にしてきた」
「喜びも、悲しみも、すべてを共にしてきた」
「だから——」
「手放せない」
セリアは——何も言えなかった。
ゼノの気持ちが、分かるから。
剣使いにとって、剣は命だ。
剣を手放すことは——自分を失うことだ。
だが——。
「……このままでは、アシュと同じになる」
セリアは静かに言った。
「……」
「一人で深層へ行って、死ぬ」
「……そうはならない」
ゼノは立ち上がった。
「俺は、アシュとは違う」
「違わない」
「違う!」
ゼノの声が荒くなった。
「俺は、ベテランだ」
「剣の囁きくらい、制御できる」
「……」
「だから——」
ゼノは前を向いた。
「行くぞ」
「……待て」
「待たない」
ゼノは歩き出した。
セリアは——その背中を見つめた。
頑なな背中。
拒絶の背中。
「……くそ」
セリアは呟いた。
アシュの時と、同じだ。
止められない。
どれだけ言葉を尽くしても、止められない。
「……どうすればいい」
セリアは拳を握った。
どうすれば、ゼノを救えるのか。
答えは——分からなかった。
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228階層。
戦闘が続いた。
だが、ゼノの動きは——さらに鈍くなっていた。
ミノタウロスと戦った時、ゼノは戦斧を避け損ねた。
胴に直撃する。
「……!」
ゼノは吹き飛ばされた。床に叩きつけられる。
「ゼノ!」
セリアが叫んだ。
ミノタウロスに向かう。剣を振るう。連続攻撃。
ミノタウロスが怯む。
セリアは止めを刺した。
そして——ゼノに駆け寄った。
ゼノは倒れていた。鎧が凹んでいる。肋骨が折れたかもしれない。
「……治療薬」
セリアは治療薬を取り出した。ゼノの口に含ませる。
ゼノは飲んだ。
傷が癒える。だが、顔色は最悪だった。
「……もう、これ以上は無理だ」
セリアは言った。
「地上へ戻る」
「……いや」
ゼノは立ち上がろうとした。
だが、身体が動かない。
「もう一度言う」
セリアは真剣な顔で言った。
「地上へ戻る。これは、命令だ」
「……」
ゼノは——抵抗する力もなかった。
「……分かった」
小さく、頷いた。
セリアは転移石を取り出した。
割る。
光が二人を包み込む。
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地上。
アビスの地下ホール。
ミラが駆け寄ってきた。
「二人とも! 大丈夫?」
「……ゼノが、怪我をした」
セリアが答えた。
「医療室へ」
職員たちがゼノを運んでいく。
セリアは——その後ろを歩いた。
拳を、強く握りしめていた。




