表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
77/110

第77話 囁きの始まり

ゼノは目を覚ました。


暗闇。220階層の転移装置付近。松明の火が揺れている。


隣で、セリアが眠っている。規則正しい呼吸。穏やかな寝息。


ゼノは静かに身体を起こした。セリアを起こさないように。


そして——剣を見た。


大剣。Bランクの剣。二十年近く共にしてきた剣。


幾つもの戦場を共に駆け抜けた。幾つものモンスターを共に倒した。


信頼できる相棒だった。


だが——。


『ゼノ』


声が聞こえた。


「……」


ゼノは目を閉じた。


また、始まった。


『眠れないのか』


剣の声。低く、重く、優しげな声。


「……お前のせいだ」


ゼノは小さく呟いた。誰にも聞こえないように。


『俺のせい?』


剣が笑っているような気がした。


『違うだろう』


『お前が、弱いんだ』


「……黙れ」


『もっと深く行けば、楽になれる』


『囁きも止まる』


『だから——』


「黙れ」


ゼノは剣を握りしめた。


だが、声は止まらない。


『セリアは足手まといだ』


『置いていけ』


『一人で行け』


『そうすれば——』


「……うるさい」


ゼノは歯を食いしばった。


剣を握る手が震えている。


-----


それは、いつ始まったのか。


ゼノは記憶を辿った。


200階層を超えた頃だっただろうか。


最初は、小さな声だった。


『よくやった』


『お前は強い』


そんな、励ましの言葉。


ゼノは気にしなかった。剣が語りかけてくるのは普通のことだ。前の持ち主の記憶が、時折言葉となって聞こえる。


それは、剣使いなら誰もが経験することだ。


だが——。


205階層を超えた頃から、声が変わった。


『もっと深く』


『止まるな』


『お前はまだ行ける』


命令口調になった。


そして——頻度が増えた。


最初は一日に一度。次は一日に三度。そして——今では、常に聞こえる。


目を閉じれば聞こえる。目を開けていても聞こえる。


逃げ場がない。


-----


ゼノは立ち上がった。


少し歩く。身体を動かす。


松明の明かりが、ゼノの影を壁に映している。揺れる影。歪んだ影。


「……疲れているだけだ」


ゼノは自分に言い聞かせた。


「深層へ進みすぎた」


「だから、少し休めば——」


『休んでも無駄だ』


剣の声が遮った。


『囁きは止まらない』


『お前が死ぬまで』


「……」


『でも、安心しろ』


剣の声が優しくなった。


『俺がいる』


『俺が、お前を導く』


『もっと深く』


『もっと先へ』


「……いらない」


ゼノは呟いた。


「お前の導きなど、いらない」


『本当に?』


剣が問うた。


『でも、お前——もう限界だろう』


「……」


『身体が重い』


『反応が鈍い』


『今日も、グリフォンに遅れた』


その言葉が、ゼノの胸に刺さった。


確かに、遅れた。


反応が、ほんの少しだけ遅かった。


それは——疲労のせいだと思っていた。


だが、違うのか。


『囁きのせいだ』


剣が答えた。


『俺の声が、お前の集中を乱している』


『でも——』


『俺に身を任せれば、楽になれる』


『俺が、お前の身体を動かす』


『そうすれば——』


「断る」


ゼノは即答した。


「俺の身体は、俺のものだ」


『いつまで、そう言えるかな』


剣が笑った。


冷たい笑い声。


-----


ゼノは剣を見つめた。


大剣。Bランクの剣。


二十年近く共にしてきた剣。


だが——今は、敵のように感じる。


「……なぜ、こんなことになった」


ゼノは呟いた。


「お前は、俺の相棒だったはずだ」


『相棒?』


剣が繰り返した。


『違うな』


『俺は、お前の主人だ』


「……何?」


『お前は、俺に選ばれた』


『俺が、お前を使っている』


『勘違いするな』


その言葉に、ゼノは愕然とした。


「……お前は」


『そうだ』


剣が続けた。


『お前は、ただの器だ』


『俺の意思を実行する、器』


『それ以上でも、それ以下でもない』


「……違う」


ゼノは首を横に振った。


「違う。俺は、俺自身だ」


『本当に?』


剣が問うた。


『なら、なぜ——』


『なぜ、俺の声を聞いている?』


「……」


『なぜ、俺の言葉に従っている?』


「従っていない」


『嘘だ』


剣の声が強くなった。


『お前は、もう従い始めている』


『深層へ行きたいという欲望』


『それは、お前の欲望か?』


『それとも——』


『俺の欲望か?』


ゼノは——答えられなかった。


分からない。


自分の意思なのか。


剣の意思なのか。


境界が、曖昧になっている。


-----


ふと、セリアの寝息が聞こえた。


ゼノは振り返った。


セリアは、まだ眠っている。穏やかな顔。


ゼノは——胸が痛んだ。


セリアには、言えない。


剣の囁きのことを。


苦しんでいることを。


なぜなら——。


「……アシュと同じになる」


ゼノは呟いた。


アシュは、剣の囁きに苦しんだ。


そして、一人で深層へ向かった。


死んだ。


もし、セリアに打ち明けたら——。


セリアは、ゼノを止めるだろう。


深層へ行くな、と。


地上へ帰れ、と。


剣を手放せ、と。


だが——。


「……手放せない」


ゼノは剣を見た。


二十年近く共にしてきた剣。


剣使いにとって、剣は命だ。


剣を手放すことは——自分を失うことだ。


『そうだ』


剣が囁いた。


『お前は、俺を手放せない』


『俺と、お前は一体だ』


『離れられない』


『死ぬまで』


ゼノは——何も言えなかった。


ただ、剣を握りしめていた。


-----


やがて、朝——正確には、休息時間の終わり——が来た。


セリアが目を覚ました。


「……おはよう」


「……おはよう」


ゼノは答えた。


できるだけ、普通に。できるだけ、平静に。


「眠れたか?」


セリアが問うた。


「……ああ」


嘘だった。


一睡もしていない。


だが、セリアには分からないだろう。


「……そうか」


セリアは立ち上がった。装備を確認する。


「今日、地上へ戻ろう」


「……ああ」


ゼノは頷いた。


内心では——安堵していた。


地上へ戻れば、少しは楽になるかもしれない。


囁きが、少しは静かになるかもしれない。


『無駄だ』


剣の声が聞こえた。


『地上へ戻っても、俺はいる』


『お前の側に、ずっといる』


ゼノは——無視した。


無視するしかなかった。


「行くぞ、セリア」


「……ああ」


二人は転移石を取り出した。


割る。


光が二人を包み込む。


-----


地上。


アビスの地下ホール。


転移装置から降りる。


職員たちが挨拶をする。セリアとゼノは軽く頷いた。


「装備の補充を頼む」


セリアが受付のミラに告げた。


「分かったわ」


ミラは記録を取った。


「治療薬30本、携行食、水筒の補充ね」


「……ああ」


ゼノも同じものを頼んだ。


ミラは二人を見た。


「……二人とも、疲れてるわね」


「……少しな」


ゼノは苦笑した。


「220階層まで行ってきた」


「そう。無理しないでね」


ミラは心配そうな顔をした。


「特に、ゼノ」


「……何?」


「顔色、悪いわよ」


「……そうか?」


ゼノは手で顔を触った。


確かに、疲れている。睡眠不足だから。


「ちゃんと休んでね」


「……ああ」


ミラは微笑んだ。だが、その目には心配の色があった。


-----


宿に戻った。


ゼノは自室に入った。


ベッドに倒れ込む。


全身が重い。疲労が、骨の髄まで染み込んでいる。


「……眠らなければ」


ゼノは呟いた。


目を閉じる。


だが——。


『眠るな』


剣の声が聞こえた。


「……」


『眠れば、弱くなる』


『起きていろ』


「……黙れ」


ゼノは枕に顔を埋めた。


『無駄だ』


『俺の声は、止まらない』


『お前が死ぬまで』


ゼノは——涙を流していた。


悔しさ。無力感。恐怖。


すべてが混ざり合った涙。


「……助けてくれ」


小さく呟いた。


誰に? 分からない。


神に? だが、神などいない。


セリアに? だが、言えない。


「……誰か」


ゼノは呟き続けた。


だが——。


誰も答えなかった。


ただ、剣の声だけが聞こえ続けた。


『もっと深く』


『止まるな』


『お前はまだ行ける』


『一人で』


『セリアを置いて』


『さあ、行け』


ゼノは——耐えた。


歯を食いしばって、耐えた。


これは、試練だ。


乗り越えなければならない試練だ。


アシュは、負けた。


だが、俺は——。


「……負けない」


ゼノは呟いた。


「絶対に、負けない」


『そうか』


剣が笑った。


『なら、見せてもらおう』


『お前の意思を』


『いつまで、持つか』


ゼノは——何も答えなかった。


ただ、拳を握りしめていた。


-----


数時間後。


ゼノは目を覚ました——いや、目を覚ましたふりをした。


実際には、一睡もしていない。


剣の声が、止まらなかったから。


だが、セリアには悟られてはいけない。


ゼノは立ち上がった。


顔を洗う。鏡を見る。


そこには——やつれた顔があった。


目の下には深い隈。頬もこけている。


「……まずいな」


ゼノは呟いた。


このままでは、セリアに気づかれる。


ゼノは頬を叩いた。両手で、強く。


少しだけ、血色が戻った。


笑顔を作る練習をする。


何度も、何度も。


「……よし」


完璧ではない。だが、なんとか誤魔化せるだろう。


ゼノは部屋を出た。


セリアと合流する約束をしていた。


-----


街の広場で、セリアが待っていた。


「……ゼノ」


「待たせたな」


ゼノは笑顔を作った。


「眠れたか?」


「……ああ」


嘘だった。


「お前は?」


「……少し」


セリアは正直に答えた。


「まだ、アシュのことを考えてしまう」


「……そうか」


ゼノは頷いた。


「無理もない」


「……」


二人は黙って歩いた。


街の通りを。人々が行き交う通りを。


やがて、セリアが口を開いた。


「……ゼノ」


「何だ?」


「明日、また潜るが——」


セリアはゼノを見た。


「無理はするな」


「……分かってる」


「本当に?」


セリアの目が、真剣だった。


「お前の動き、少し鈍っている」


「……」


「疲れているなら、もう少し休もう」


「大丈夫だ」


ゼノは即答した。


「俺は、ベテランだ」


「……」


「心配するな」


ゼノは笑顔を作った。


だが、セリアは——納得していない顔だった。


「……分かった」


「でも、何かあったら言ってくれ」


「……ああ」


ゼノは頷いた。


だが——。


心の中で、剣の声が聞こえていた。


『言うな』


『セリアには、何も言うな』


『お前の弱さを、見せるな』


ゼノは——従った。


従うしかなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
楽しんでいただけましたら、 感想・ブックマーク・アクションをしていただけると励みになります。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ