第76話 再起の決意
210階層の先には、長い階段があった。
石造りの階段。下へ、下へと続く階段。壁には青白い光を放つ苔が生えている。それが唯一の光源だった。
セリアとゼノは、黙って階段を下りていた。
足音だけが響く。規則正しい足音。だが、その足音には重さがあった。疲労の重さ。そして——心の重さ。
アシュが死んでから、三日が経っていた。
葬儀を終え、墓に花を手向け、そして——再び深層へ。
セリアは前を向いて歩いていた。表情は変わらない。いつもと同じ、感情を表に出さない顔。だが——。
心の中では、まだアシュの顔が浮かんでいた。
冷たくなった顔。もう動かない身体。
『すまない』
何度も、心の中で謝った。
だが、謝っても——アシュは戻ってこない。
だから、進む。
答えを見つけるために。
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階段が終わった。
211階層。
広大な空間が広がっていた。天井は高く、幾つもの鍾乳石が垂れ下がっている。床は黒い岩。ところどころ、水たまりがある。
「……行くぞ」
ゼノが言った。
「……ああ」
セリアは剣を抜いた。空虚の剣。漆黒の刃が、わずかな光を吸い込んでいる。
二人は前へ進んだ。
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モンスターが現れた。
キメラ。三つの頭を持つ獣。獅子、山羊、蛇。Aランク。
キメラが咆哮した。獅子の頭から炎が噴き出す。
セリアとゼノは左右に分かれた。炎が二人の間を通過する。
セリアは走った。キメラの側面に回り込む。剣を構える。
キメラの山羊の頭が、角を向けた。突進してくる。
セリアは避けた。横に跳ぶ。角が空を切る。
その隙に、セリアは剣を振るった。キメラの脚を斬る。
刃が食い込んだ。
キメラが悲鳴を上げた。
ゼノが背後から攻撃した。大剣を振り下ろす。蛇の頭を狙う。
刃が蛇の首を斬り落とした。
キメラが怯む。
セリアは踏み込んだ。獅子の首を狙う。剣を突き刺す。
深く。
キメラの動きが止まった。
そして——倒れた。
静寂。
「……終わったか」
ゼノが呟いた。
「……ああ」
セリアは剣を引き抜いた。血を拭う。鞘に戻す。
ゼノも大剣を鞘に戻した。
「治療薬は?」
「……使っていない」
「そうか」
ゼノは周囲を見回した。
「次の階層へ行くか」
「……ああ」
二人は先へ進んだ。
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212階層、213階層、214階層。
モンスターとの戦闘が続いた。
ミノタウロス、オーガ、ワイバーン。どれも強敵だった。だが、セリアとゼノは倒していった。
連携は完璧だった。互いの動きが分かる。言葉なく、視線だけで意思疎通ができる。
何度も共に戦ってきた。何度も背中を預け合ってきた。
信頼がある。
だが——。
215階層に到達した時、セリアはゼノの様子に違和感を覚えた。
「……ゼノ」
「何だ?」
「……大丈夫か」
「大丈夫だ」
ゼノは即答した。
だが、その答えが——少し早すぎた。
まるで、聞かれることを予期していたかのように。
「……本当に?」
「本当だ」
ゼノは微笑んだ。だが、その笑顔は——どこか疲れているように見えた。
「心配するな。俺はベテランだ」
「……」
セリアはゼノを見つめた。
何かがおかしい。
だが——何がおかしいのか、分からない。
「……そうか」
セリアは頷いた。
「無理はするな」
「お前もな」
ゼノは前を向いた。
「行くぞ」
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その夜——というより、休息の時間。ダンジョンには昼も夜もない。ただ、疲労が限界に達した時、休む。
二人は215階層の転移装置付近で休んでいた。
松明が揺れている。影が壁に踊っている。
セリアは壁に背中を預けて座っていた。目を閉じている。だが、眠ってはいない。
ゼノも少し離れた場所に座っていた。剣を膝に置いている。
静寂。
「……セリア」
ゼノが呼びかけた。
「……何だ」
「アシュのこと、まだ考えてるか」
「……」
セリアは目を開けた。
「……考えている」
「……そうか」
ゼノは剣を見つめていた。
「俺もだ」
「……」
「なぜ、一人で行ったのか」
ゼノの声には、後悔があった。
「俺が、もっと気にかけていれば」
「……お前のせいじゃない」
「分かってる」
ゼノは苦笑した。
「頭では、分かってる」
「でも、心が納得しない」
「……」
セリアは同じ言葉を、ミラに言った。そして今、ゼノが同じことを言っている。
「だから、進むんだろう」
ゼノがセリアを見た。
「答えを見つけるために」
「……ああ」
「俺も同じだ」
ゼノは剣を握りしめた。
「剣とは何なのか。なぜ人を深層へ誘うのか」
「その答えを見つけるまで、俺は止まらない」
「……」
「一緒に行こう、セリア」
ゼノは真剣な顔で言った。
「最後まで」
セリアは頷いた。
「……ああ」
「約束だ」
「……約束する」
二人は視線を交わした。
そこには、決意があった。
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だが——。
セリアが眠りについた後。
ゼノは一人、目を覚ましていた。
剣を見つめている。
大剣。Bランクの剣。何度も共に戦ってきた剣。
だが——。
『……ゼノ』
声が聞こえた。
小さな声。囁くような声。
ゼノは目を閉じた。
「……また、か」
『もっと深く』
声が続ける。
『お前は強い』
『もっと深くへ行ける』
『一人で』
「……黙れ」
ゼノは小さく呟いた。
『セリアは足手まといだ』
『置いていけ』
「黙れ」
ゼノの声が強くなった。
だが、声は止まらない。
『お前なら、300階層まで行ける』
『いや、500階層まで』
『一人で』
『さあ、行け』
「……うるさい」
ゼノは剣を握りしめた。
だが、剣は冷たかった。
そして——囁きは止まらなかった。
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翌朝——正確には、休息が終わった時。
セリアは目を覚ました。
ゼノも起きていた。顔色が少し悪い。
「……眠れたか」
セリアが問うた。
「……ああ」
ゼノは答えた。
だが——その目には、隈があった。
「……本当に?」
「本当だ」
ゼノは立ち上がった。
「行くぞ」
「……ああ」
セリアも立ち上がった。
だが、心の中で——不安があった。
ゼノの様子が、おかしい。
アシュと同じように。
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216階層、217階層。
戦闘が続いた。
だが、ゼノの動きに——わずかな遅れがあった。
反応が、ほんの少しだけ遅い。
剣を振るタイミングが、わずかにずれている。
セリアは気づいていた。
だが——ゼノは何も言わなかった。
「大丈夫だ」
そう言い続けた。
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218階層。
グリフォンが現れた。Aランク。
巨大な鷲と獅子を合わせたような姿。翼を広げると10メートル。
グリフォンが空中から襲いかかってきた。
爪を振り下ろす。
ゼノが剣で受けた——受けようとした。
だが、反応が遅れた。
爪がゼノの肩を掠めた。
「……!」
鎧が裂ける。血が飛ぶ。
「ゼノ!」
セリアが叫んだ。
グリフォンに向かって走る。剣を振るう。
グリフォンの翼を斬る。
グリフォンが悲鳴を上げた。
セリアは連続で攻撃した。右、左、上。
グリフォンが墜落した。
セリアは止めを刺した。剣を首に突き立てる。
グリフォンが動かなくなった。
セリアは振り返った。
ゼノが膝をついていた。肩を押さえている。
「……ゼノ!」
セリアは駆け寄った。
「大丈夫か」
「……ああ」
ゼノは治療薬を取り出した。飲む。
傷が癒える。
だが、顔色は悪いままだった。
「……すまない」
ゼノが呟いた。
「油断した」
「……油断じゃない」
セリアは真剣な顔で言った。
「お前、疲れている」
「……大丈夫だ」
「大丈夫じゃない」
セリアの声が強くなった。
「お前の動き、鈍っている」
「……」
「一度、地上へ戻ろう」
「いや」
ゼノは首を横に振った。
「まだ行ける」
「……ゼノ」
「本当だ」
ゼノは立ち上がった。
「信じてくれ」
「……」
セリアは——何も言えなかった。
ゼノの目を見た。
そこには、決意があった。
だが、同時に——何か別のものもあった。
焦り? 恐怖? それとも——。
「……分かった」
セリアは頷いた。
「でも、無理はするな」
「……ああ」
ゼノは剣を拾い上げた。
そして——前を向いた。
「行くぞ」
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219階層、220階層。
セリアは、ゼノを注意深く見ていた。
動き。表情。呼吸。
すべてを観察していた。
そして——確信した。
何かがおかしい。
ゼノは、何かを隠している。
アシュと同じように。
「……」
セリアは拳を握った。
もう、失いたくない。
ゼノを、失いたくない。
だから——。
「ゼノ」
220階層の転移装置付近で、セリアは呼びかけた。
「……何だ」
「明日、一度地上へ戻ろう」
「……何?」
「装備を整える。治療薬も補充する」
セリアは真剣な顔で言った。
「それに——休息も必要だ」
「……」
ゼノは躊躇した。
だが——。
「……分かった」
小さく頷いた。
「明日、戻ろう」
「……ああ」
セリアは安堵した。
少なくとも、地上へ戻れば——ゼノの様子を、もっと詳しく見られる。
そして、何が起きているのか、確かめられる。
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その夜。
セリアは眠れなかった。
ゼノのことを考えていた。
彼の動き。表情。言葉。
すべてが——アシュに似ている。
「……まさか」
セリアは呟いた。
「まさか、ゼノも——」
剣の囁き。
もし、ゼノも剣の囁きに苦しんでいるとしたら。
もし、アシュと同じ道を辿ろうとしているとしたら。
「……させない」
セリアは拳を握った。
「絶対に、させない」
明日、地上へ戻る。
そして、ゼノと話す。
本当のことを、聞き出す。
セリアは目を閉じた。
眠ろうとする。
だが——。
眠れなかった。
不安が、心を満たしていた。




