第74話 残された痕跡
セリアとゼノが地上へ戻ったのは、夕方だった。
205階層からの帰還。新たな未知の領域を探索し、幾つものモンスターと戦い、傷を負い、治療薬を消費し——そして生きて戻った。
転移装置から降りると、職員が駆け寄ってきた。
「セリアさん、ゼノさん」
「……何だ」
セリアは疲労で声が掠れていた。
「アシュさんのことで——」
その瞬間、セリアの身体が強張った。
「……アシュが、どうした」
「三日前から、消息不明なんです」
「……何?」
ゼノが声を荒げた。
「どういうことだ」
職員は記録を確認しながら答えた。
「三日前、アシュさんは80階層へ転移されました。それ以降、地上へ戻った記録がありません」
「……」
セリアは拳を握った。
「転移装置の記録は?」
「80階層から先の転移記録はありません。ただ——」
職員は躊躇うように口を閉じた。
「ただ、何だ」
ゼノが促した。
「目撃情報があります。120階層の転移装置付近で、アシュさんらしき人物を見た、という冒険者が」
「……いつだ」
「二日前です」
セリアは踵を返した。
「……行く」
「セリア、待て」
ゼノが止めた。
「お前、疲れてるだろう。治療薬も残り少ない」
「……関係ない」
「関係ある」
ゼノはセリアの肩を掴んだ。
「落ち着け。まず装備を整えてから——」
「時間がない」
セリアはゼノの手を振り払った。
「アシュは三日も戻っていない。治療薬も食料も、もう尽きているはずだ」
「……」
「今すぐ行く」
セリアは転移装置に向かった。
「待て、俺も行く」
ゼノが追いかけてきた。
「……お前も疲れている」
「お前ほどじゃない」
ゼノは苦笑した。
「それに、アシュは俺の仲間でもある」
セリアは頷いた。
「……頼む」
二人は転移装置に乗った。
「120階層へ」
職員が装置を操作する。
光が二人を包み込む。
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120階層。
白い光が満ちる広間。転移装置がある。
セリアとゼノは周囲を見回した。
誰もいない。
「……痕跡を探すぞ」
ゼノが言った。
「……ああ」
二人は広間を調べた。
床、壁、転移装置の周辺。
やがて、セリアが何かを見つけた。
「……これは」
床に、血の跡があった。
乾いた血。茶色く変色している。
「……古い血だ」
ゼノが膝をついて調べた。
「二日は経っている」
「……アシュの?」
「分からない。でも——」
ゼノは血の跡を辿った。それは121階層への階段へ続いていた。
「進んだようだな」
「……追う」
セリアは階段を下り始めた。
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121階層、122階層、123階層。
血の跡は続いていた。
時折、モンスターの死体があった。ミノタウロス、キメラ、オーガ。どれも致命傷を負っている。剣で斬られた跡。
「……戦っている」
ゼノが呟いた。
「アシュが?」
「……分からない」
セリアは死体を調べた。傷口を見る。
「……この斬り方」
「何か分かるのか?」
「……荒い」
セリアは立ち上がった。
「アシュの剣技じゃない。もっと——無茶苦茶だ」
「……」
二人は先へ進んだ。
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130階層。
ワイバーンの死体があった。
巨大な竜。翼が斬り裂かれ、首に深い傷がある。
「……Bランクを倒したのか」
ゼノが驚きの声を上げた。
「アシュが?」
「……」
セリアは死体を調べた。
傷口。深く、えぐれている。だが——。
「……何度も刺している」
「何?」
「一撃で倒していない。何度も、何度も刺している」
セリアは血の跡を見た。
「……それに、ここにも血がある」
床に、別の血の跡。赤い血。人間の血。
「アシュの血か」
「……だろうな」
セリアは拳を握った。
「……急ごう」
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135階層。
転移装置があった。
そして——その近くに、血の跡があった。たくさんの血。
「……ここで休んだのか」
ゼノが呟いた。
「かなりの出血だ」
「……」
セリアは血の跡を見つめた。
乾いている。でも、量が多い。
「治療薬を使ったはずだ」
ゼノが言った。
「でも、これだけ血を流して——」
「……生きているのか」
セリアは呟いた。
「生きて、いるのか」
「……分からない」
ゼノは立ち上がった。
「でも、ここから先へ進んだ痕跡がある」
階段へ続く血の跡。
「……追う」
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140階層、145階層。
血の跡は続いていた。
だが、量が増えていた。モンスターの死体も増えていた。
戦闘の痕跡が、至る所にあった。
「……無茶をしている」
ゼノが呟いた。
「こんなペースで進めば——」
「……死ぬ」
セリアは走り出した。
全力で。
ゼノも追いかけてくる。
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150階層。
広大な空間。天井が高く、壁が遠い。
そして——。
中央に、何かが倒れていた。
「……!」
セリアは駆け寄った。
それは——アシュだった。
仰向けに倒れている。目を閉じている。動かない。
「アシュ!」
セリアは膝をついた。アシュの肩を揺する。
「……アシュ!」
反応はない。
セリアはアシュの首に手を当てた。脈を確認する。
——ない。
心臓が止まっている。
「……嘘だ」
セリアは呟いた。
「嘘だ」
ゼノも駆け寄ってきた。アシュを見る。
「……セリア」
「……嘘だ」
セリアはアシュの胸に手を当てた。心臓マッサージを始める。
「……起きろ」
押す。一回、二回、三回。
「起きろ、アシュ」
押し続ける。
「……まだ死ぬな」
「セリア」
ゼノが優しく言った。
「もう——」
「……まだだ」
セリアは止めなかった。
「まだ、助かる」
「セリア」
「助かるんだ!」
セリアの声が震えていた。
「……助かるって、言ったんだ」
押し続ける。
だが——。
アシュは動かなかった。
呼吸を始めなかった。
心臓が動かなかった。
「……」
セリアの手が止まった。
力が抜ける。
「……アシュ」
セリアはアシュの顔を見た。
やつれた顔。頬がこけている。目の下には深い隈。唇は血の気がない。
「……なんで」
セリアは呟いた。
「なんで、こんなところに」
「なんで、一人で」
「なんで——」
言葉が続かなかった。
ゼノが膝をついた。アシュの目を閉じてやる。
「……眠れ」
優しい声。
「もう、苦しまなくていい」
「……」
セリアは、アシュの手を握った。
冷たい手。もう、温もりはない。
「……すまない」
セリアは呟いた。
「止められなかった」
「……」
「約束、守れなかった」
セリアの目から、涙が溢れた。
初めて。
セリアが、初めて泣いた。
声を出さずに。静かに。
涙だけが、頬を伝った。
ゼノは何も言わなかった。
ただ、そこにいた。
セリアの隣で。
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しばらくして、セリアは立ち上がった。
涙を拭う。
「……剣は」
セリアは周囲を見回した。
アシュの剣がある。少し離れた場所に、転がっている。
セリアは剣を拾い上げた。
Cランクの剣。血で汚れている。
「……これが」
セリアは剣を見つめた。
「これが、アシュを殺したのか」
「……」
ゼノは答えなかった。
セリアは剣を握りしめた。
折ろうとする。力を込める。
だが——剣は折れない。
剣は折れない。絶対に。
「……くそ」
セリアは剣を地面に叩きつけた。
金属の音が響く。
だが、剣は傷一つつかなかった。
「……セリア」
ゼノが呼びかけた。
「落ち着け」
「……落ち着ける」
セリアは拳を握った。
「落ち着けるか」
「……」
「アシュは死んだんだぞ」
「分かってる」
ゼノは静かに答えた。
「だから、落ち着け」
「……」
セリアは深呼吸をした。
何度も、何度も。
やがて、少しだけ落ち着いた。
「……どうする」
ゼノが問うた。
「アシュを、どうする」
「……」
セリアはアシュを見た。
このまま、ここに置いていくわけにはいかない。
「……連れて帰る」
「……そうだな」
ゼノはアシュを抱き上げた。軽い。驚くほど軽い。
「……軽すぎる」
ゼノが呟いた。
「どれだけ、痩せていたんだ」
「……」
セリアは何も答えられなかった。
ただ、アシュの剣を拾い上げた。
「……帰ろう」
二人は転移石を取り出した。
割る。
光が三人を包み込む。
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地上。
アビスの地下ホール。
職員たちが驚いた顔で駆け寄ってきた。
「アシュさん!」
「……死んでいる」
ゼノが静かに言った。
「150階層で見つけた」
職員たちがざわめいた。
「医療室へ運んでください」
ミラの声が聞こえた。
彼女が駆け寄ってくる。アシュを見る。
その顔が、青ざめた。
「……嘘」
ミラは呟いた。
「嘘でしょう」
「……すまない」
セリアは答えた。
「間に合わなかった」
「……」
ミラは目を閉じた。涙が溢れる。
「……そんな」
職員たちがアシュを運んでいく。医療室へ。
セリア、ゼノ、ミラは、その後ろを歩いた。
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医療室。
アシュはベッドに横たえられた。
シーツをかけられた。顔だけが見えている。
セリアは椅子に座った。
アシュを見つめた。
「……なんで」
セリアは呟いた。
「なんで、一人で行った」
「なんで、誰にも言わなかった」
「なんで——」
答えは、もう返ってこない。
ミラが泣いている。声を殺して。
ゼノは窓の外を見ていた。何も言わない。
静寂。
セリアは、アシュの手を握った。
冷たい手。
「……すまない」
もう一度、謝った。
「止められなくて、すまない」
涙が、また溢れた。
セリアは、泣き続けた。
声を出さずに。
ただ、静かに。




