第73話 深淵の淵
意識が浮上する。
アシュは目を開けた——いや、開いたような気がした。視界は暗い。ぼやけている。何も見えない。
身体が動いている。
足が動く。手が動く。剣を握っている。
でも——自分の意思ではない。
『起きたか』
剣の声が聞こえた。
「……ここは」
『120階層だ』
「……え?」
アシュは混乱した。
100階層にいたはずだ。それが——120階層?
「……どうやって」
『俺が歩かせた』
『お前が眠っている間に』
「……」
恐怖が、アシュの心を満たした。
自分が眠っている間に、身体が勝手に動いていた。20階層も進んでいた。
「……やめて」
アシュは呟いた。
『何を?』
「……僕の身体を、勝手に動かさないで」
『でも、お前が動けないんだから仕方ないだろう』
剣の声には、冷たさがあった。
『俺が動かさなければ、お前はそこで倒れたままだ』
『それでいいのか?』
「……」
『100階層で終わるのか?』
『セリアに追いつけないままでいいのか?』
「……」
『答えろ』
「……いや」
アシュは答えた。声が震えている。
「いやだ」
『なら、俺に任せろ』
『お前は、ただ見ていればいい』
アシュは——抵抗する力がなかった。
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視界が、少しずつ明瞭になってきた。
アシュは120階層の広間に立っていた——いや、剣に立たされていた。
白い光が満ちている。転移装置がある。円形の台座。ここから地上へ瞬時に帰還できる。
「……帰りたい」
アシュは呟いた。
『何?』
「地上に、帰りたい」
『ダメだ』
剣が即答した。
『まだ先へ行く』
「……もう無理だよ」
『無理じゃない』
『お前の身体は、まだ動く』
「……動いてない。動かされてる」
『同じことだ』
剣の声が冷たくなった。
『お前が自分で動けないなら、俺が動かす』
『それだけだ』
アシュは涙を流していた。
だが、涙を拭うこともできない。手が、自分の意思で動かない。
身体が、再び歩き出した。
121階層への階段へ。
「……やめて」
アシュは叫んだ。だが、声は小さい。
「やめてよ」
剣は答えなかった。
ただ、アシュの身体を動かし続けた。
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121階層、122階層、123階層。
アシュの意識は、時折途切れた。
気づくと、また別の階層にいた。モンスターの死体が転がっている。血が飛び散っている。
自分の剣も、血で汚れている。
「……誰を、殺したの」
アシュは呟いた。
『ミノタウロスだ』
剣が答えた。
『それから、キメラも』
『お前の身体、よく動くな』
「……」
『もう少しで130階層だ』
『頑張れ』
「頑張ってるのは、僕じゃない」
アシュは呟いた。
「君だ」
『同じことだ』
剣が繰り返した。
『お前と俺は、一体だ』
「……違う」
『違わない』
剣の声が強くなった。
『お前は俺のもので、俺はお前のものだ』
『離れられない』
『死ぬまで』
その言葉が、アシュの心に突き刺さった。
死ぬまで。
もう、死にかけている。
いや——もう死んでいるのかもしれない。
ただ、剣が動かしているだけで。
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130階層に到達した。
広大な空間。天井が高く、青白い光が満ちている。
モンスターが現れた。
ワイバーン。Bランク。
巨大な翼を持つ竜。体長10メートル。鋭い爪、牙。
ワイバーンが、アシュに向かって突進してくる。
アシュの身体が動いた——剣が動かした。
横に跳ぶ。ワイバーンの爪が、さっきまでアシュがいた場所を抉る。
剣を振るう。ワイバーンの翼を斬る。
ワイバーンが悲鳴を上げた。
だが、止まらない。尾を振るう。鞭のように。
アシュの身体が避ける——避けきれない。
尾がアシュの脇腹を叩く。
「……!」
痛い。
アシュは吹き飛ばされた——いや、吹き飛ばされたはずだった。
だが、剣が身体を制御した。空中で体勢を立て直す。着地する。
すぐに駆け出す。
ワイバーンに向かって。
剣を突き刺す。ワイバーンの首に。
ワイバーンが倒れた。
静寂。
アシュは——膝をついた。
いや、剣が膝をつかせた。
治療薬を取り出す。飲む。
傷が癒える。
だが、痛みは残る。疲労も残る。
「……もう、やめてよ」
アシュは呟いた。
『まだだ』
剣が答えた。
『まだ先へ行く』
「……僕、死んじゃう」
『死なない』
『俺が守る』
「守ってない」
アシュは涙を流していた。
「僕を、殺してる」
『……』
剣は、何も答えなかった。
ただ、アシュの身体を立ち上がらせた。
そして——歩かせた。
次の階層へ。
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135階層。
転移装置があった。白い光を放つ円形の台座。
「……帰りたい」
アシュは呟いた。
「お願い、帰らせて」
『ダメだ』
「お願いだよ」
アシュは懇願していた。
「もう限界なんだ」
『限界じゃない』
『お前の身体は、まだ動く』
「動いてない!」
アシュは叫んだ——いや、叫ぼうとした。だが、声は出ない。喉が枯れている。
『……』
剣は、少しだけ沈黙した。
『分かった』
「……え?」
『少しだけ、休ませてやる』
剣の声が、わずかに優しくなった気がした。
『ここで休め』
『でも、地上には戻さない』
アシュは——それでも、安堵した。
少しでも休める。
身体を横たえることができる。
「……ありがとう」
アシュは呟いた。
剣が、アシュの身体を転移装置の近くに座らせた。
背中を壁に預ける。
アシュは目を閉じた。
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夢を見た。
孤児院の夢。
中庭で、みんなと遊んでいる夢。
トムが笑っている。エマが歌っている。他の子供たちも、楽しそうに走り回っている。
シスター・マリアが、温かい目で見守っている。
「アシュ、こっちおいで」
トムが手を振った。
アシュは走った。トムに向かって。
「何するの?」
「かくれんぼだよ」
「いいよ」
アシュは笑った。
久しぶりに、心から笑った気がした。
「じゃあ、アシュが鬼ね」
エマが言った。
「いいよ」
アシュは目を閉じた。
「10数えるね」
「1、2、3……」
数を数えながら、アシュは待った。
みんなが隠れる音が聞こえる。笑い声が聞こえる。
「……8、9、10」
アシュは目を開けた——。
誰もいなかった。
中庭に、誰もいない。
トムもエマも、他の子供たちも、シスター・マリアも。
誰も、いない。
「……トム?」
呼びかける。
答えはない。
「エマ?」
答えはない。
「……誰か?」
アシュは走った。孤児院の中を探す。
部屋、廊下、食堂、寝室。
誰もいない。
空っぽ。
「……どこに行ったの」
アシュは叫んだ。
「みんな、どこ!」
『ここにはいない』
声が聞こえた。
剣の声。
『みんな、お前を置いていった』
「……嘘だ」
『本当だ』
『お前が弱いから』
『お前が役に立たないから』
『だから、捨てられた』
「違う!」
アシュは叫んだ。
「違う、違う!」
『現実を見ろ』
剣の声が冷たく響いた。
『お前は、一人だ』
『ずっと、一人だ』
『誰も、お前を必要としていない』
「……」
アシュは膝をついた。
涙が溢れた。
「……そんなの」
『でも、俺がいる』
剣の声が、少しだけ優しくなった。
『俺だけは、お前の側にいる』
『だから——』
『俺を信じろ』
『俺だけを』
アシュは——。
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目を覚ました。
135階層。転移装置の近く。壁に背中を預けて座っている。
どれくらい眠っていたのか、分からない。
身体は——相変わらず重い。痛い。
でも、少しだけ休めた気がした。
『起きたか』
剣の声が聞こえた。
「……うん」
『行くぞ』
「……どこまで?」
『150階層まで』
「……」
『立て』
アシュの身体が、勝手に立ち上がった。
もう、抵抗する気力もなかった。
ただ、身を任せる。
剣に。
運命に。
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140階層、145階層。
アシュの意識は、ほとんどなくなっていた。
時折、視界が明瞭になる。モンスターと戦っている場面が見える。血が飛び散る。悲鳴が聞こえる。
そして、また暗くなる。
気づくと、また別の階層にいる。
「……もう、いいよ」
アシュは呟いた。
誰に言っているのか、分からない。
「もう、終わりにしよう」
『まだだ』
剣が答えた。
『まだ終わらせない』
「……なんで」
『お前が、まだ生きているから』
「生きてない」
アシュは呟いた。
「もう、死んでる」
『死んでない』
『心臓が動いている』
『呼吸をしている』
『だから、まだ生きている』
「……」
『150階層まで行く』
『そうすれば——』
『そうすれば、終わりだ』
「……本当に?」
『ああ』
『約束する』
アシュは——信じた。
信じるしかなかった。
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150階層に到達した。
広大な空間。だが、もうアシュには何も見えなかった。
視界が暗い。ほとんど見えない。
身体が——冷たい。
心臓の鼓動が——弱い。
呼吸が——浅い。
「……着いた?」
アシュは呟いた。
『ああ』
剣が答えた。
『150階層だ』
「……終わり?」
『ああ』
『終わりだ』
アシュは——安堵した。
やっと、終わる。
やっと、休める。
「……ありがとう」
アシュは呟いた。
誰に言っているのか、分からない。
剣に? それとも——。
アシュの身体が、その場に倒れた。
剣が、手から滑り落ちた。
金属の音が、静かに響いた。
アシュは——動かなくなった。
呼吸が、止まった。
心臓が、止まった。
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静寂。
150階層の広間に、一人の少年が倒れていた。
銀髪ではない、茶色の髪の少年。
16歳の少年。
もう、動かない。
そして——。
その側に、剣が転がっていた。
Cランクの剣。
何の変哲もない剣。
だが、その剣は——微かに光っていた。




