第72話 限界の刻
三週間が経過していた。
アシュは80階層に立っていた。石造りの広間。帰還ポイント。松明が等間隔に並び、揺らめく炎が空間を照らしている。誰もいない。静寂だけがある。
息が——できない。
肺が空気を求めている。だが、吸い込んでも吸い込んでも、足りない。心臓が激しく打っている。鼓動が耳に響く。
足が震えている。立っているのがやっとだった。
視界が、時折暗くなる。目眩。貧血。栄養失調。
体重は、さらに三キロ落ちていた。今では、骨と皮だけのようだった。鎧が身体に合わなくなっていた。ぶかぶかだった。頬骨が浮き出て、目は落ち窪んでいる。唇は血の気がなく、肌は蝋のように白い。
でも——ここまで来た。
80階層。
一週間前は60階層が限界だった。だが、今は80階層。20階層も進んだ。
「……やった」
アシュは呟いた。
声が掠れている。水を飲んでいない。喉が渇いている。だが、水筒を取り出す気力もなかった。
『よくやった』
剣の声が聞こえた。
『80階層。もうすぐ100階層だ』
「……うん」
アシュは答えた。
もう、剣の声しか聞こえなかった。他の音は遠い。松明の燃える音も、自分の呼吸音さえも。
『休むか?』
「……うん」
アシュはその場に座り込んだ。
背中を壁に預ける。冷たい石。心地いい。目を閉じる。
——眠りたい。
でも、眠れない。
目を閉じれば、剣の声が聞こえる。目を開けていても、剣の声が聞こえる。
もう、逃げ場はなかった。
『アシュ』
「……何?」
『お前、よく頑張ってるな』
「……ありがとう」
『でも、まだ足りない』
「……」
『100階層を超えなければ』
『セリアに追いつけない』
「……分かってる」
『なら、行くぞ』
「……もう少し、休ませて」
『ダメだ』
剣の声が厳しくなった。
『休めば、弱くなる』
『進め』
『今すぐ』
アシュは目を開けた。
立ち上がろうとする。だが、足が動かない。力が入らない。
「……立てない」
『立て』
「……無理だよ」
『立て』
剣の声が、命令口調になった。
アシュは歯を食いしばった。両手を地面につく。膝を立てる。ゆっくりと、ゆっくりと立ち上がる。
足が震える。膝が笑う。
だが——立った。
「……立てた」
『そうだ。お前はできる』
『さあ、進め』
アシュは一歩、踏み出した。
足がもつれる。だが、倒れない。もう一歩。また一歩。
歩く。
前へ。
81階層への階段を下り始めた。
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81階層、82階層、83階層。
アシュは進んだ。
もう、戦闘の記憶がなかった。モンスターと戦った。倒した。傷を負った。治療薬を飲んだ。
でも、覚えていない。
ただ、気づいたら83階層にいた。石造りの通路。天井は高く、松明の明かりが届かない場所には闇が広がっている。
「……どうやって、ここまで?」
アシュは呟いた。
『俺が導いた』
剣が答えた。
『お前の身体を使って』
「……え?」
『お前、もう限界だろう』
『だから、俺が代わりに戦った』
「……」
アシュは自分の手を見た。
血が付いている。モンスターの血。黒い血。乾いて固まっている。
剣も血で汚れている。刃が黒ずんでいる。
「……本当に?」
『ああ』
『お前は、ただ見ていただけだ』
『いや——見てもいなかったかもしれないな』
アシュは混乱した。
記憶がない。戦闘の記憶が、ない。
でも、確かに進んでいる。83階層まで。
「……怖い」
アシュは呟いた。
『何が怖い』
「……自分が、自分じゃないみたいで」
『大丈夫だ』
剣が優しく——いや、優しいふりをして言った。
『お前は、お前だ』
『ただ、俺が手伝っているだけ』
「……本当に?」
『本当だ』
『信じろ』
アシュは——信じるしかなかった。
他に、頼れるものがなかった。
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その夜、アシュは宿に戻らなかった。
83階層で、夜を過ごした。
転移石は——もう使いたくなかった。地上に戻れば、現実を見る。鏡を見る。自分の姿を見る。
それが、怖かった。
アシュは壁に背中を預けて座っていた。
暗闇。モンスターの鳴き声が遠くで聞こえる。だが、近づいてこない。剣が何かをしているのだろうか。それとも、アシュの存在がもう生者のそれではなくなっているのか。
『眠らないのか』
剣が問うた。
「……眠れない」
『そうか』
『なら、話をしよう』
「……何の話?」
『お前の夢の話』
「……夢?」
『ああ。お前、孤児院に戻りたかったんだろう』
「……うん」
『強くなって、みんなを守りたかった』
「……うん」
『でも、今のお前では無理だ』
「……」
『弱すぎる』
その言葉が、胸に刺さった。鋭いナイフのように。
「……分かってる」
『分かっているなら、もっと強くなれ』
「……どうやって?」
『もっと深く行け』
『100階層を超えろ』
『そうすれば、強くなれる』
『そうすれば、みんなを守れる』
「……本当に?」
『本当だ』
『俺を信じろ』
アシュは剣を抱きしめた。
冷たい金属。だが、それが——今のアシュには、唯一の温もりだった。唯一の繋がりだった。
「……ありがとう」
『どういたしまして』
剣が答えた。
『さあ、少しだけ眠れ』
『明日は、100階層まで行くんだから』
「……100階層?」
『ああ』
『一気に行く』
『お前なら、できる』
「……できるかな」
『できる』
『俺が保証する』
アシュは目を閉じた。
眠ろうとする。
だが——。
脳裏に、孤児院の光景が浮かんだ。
トムの笑顔。無邪気で、屈託のない笑顔。
エマの笑い声。鈴を転がすような、明るい笑い声。
シスター・マリアの優しい手。温かくて、大きくて、包み込むような手。
『ごめん』
アシュは心の中で呟いた。
『約束、守れなかった』
『強くなるって、言ったのに』
『みんなを守るって、言ったのに』
『帰るって、言ったのに』
涙が溢れた。
だが、声は出さなかった。
ただ、静かに泣いていた。
暗闇の中で。
一人で。
誰にも気づかれずに。
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翌朝——いや、朝なのか分からなかった。ダンジョンには朝も夜もない。ただ、時間だけが流れる。アシュの感覚では、数時間が経過したような気がした。
アシュは目を覚ました。
数時間、眠れたようだった。だが、身体は休まっていない。むしろ、さらに重くなっていた。骨が軋む。筋肉が悲鳴を上げている。
『起きたか』
剣の声が聞こえた。
「……うん」
『今日は100階層まで行くぞ』
「……分かった」
アシュは立ち上がった。
足がふらつく。視界が歪む。だが、なんとか立つ。
治療薬を確認する。残り——5本。
「……少ない」
『大丈夫だ』
剣が言った。
『俺が守る』
『お前は歩くだけでいい』
アシュは歩き出した。
84階層への階段を下りる。一段、また一段。足元が覚束ない。何度も、つまずきそうになる。
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84階層、85階層、86階層。
アシュは進んだ。
もう、意識が朦朧としていた。目の前がぼやける。足元が見えない。周囲の壁も、天井も、すべてが歪んで見える。
モンスターが現れる。だが——。
剣が勝手に動いた。
アシュの手が、意思とは関係なく動く。剣を振るう。モンスターを斬る。返り血を浴びる。
アシュは、ただ見ているだけだった。
自分の身体が、自分のものではないように感じた。操り人形。剣に操られる人形。
『大丈夫だ』
剣が囁いた。
『俺に任せろ』
『お前は、ただ歩けばいい』
『前へ』
『もっと深く』
アシュは——従った。
歩く。一歩、また一歩。足を引きずりながら。
90階層、95階層。
身体が、もう限界を超えていた。
呼吸が浅い。心拍が弱い。視界が暗い。
でも、足は動く。剣が動かしているから。
そして——。
100階層に到達した。
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100階層は、巨大な空間だった。
天井が見えない。壁も見えない。床は白い大理石。広大な、広大な空間。
そして——。
中央に、巨大な門があった。
高さ10メートル。幅も同じくらい。石造りの門。表面には古代文字が刻まれている。「境界」と。
アシュは門の前に立っていた。
息が——ほとんどできない。
心臓が弱々しく打っている。視界が暗い。身体が冷たい。
「……着いた」
アシュは呟いた。声が、ほとんど聞こえない。
『よくやった』
剣が褒めた。
『100階層。ここが境界だ』
「……境界?」
『ああ。ここから先が、本当の深層だ』
『ここから先は、もっと強い敵がいる』
『でも——』
『お前なら、行ける』
「……」
『行くか?』
「……行く」
『本当に?』
「……うん」
アシュは門に手をかけた。
冷たい石。重い扉。
押す。
力が入らない。でも——剣が、アシュの身体を動かした。
ゆっくりと、門が開いていく。
その先には——。
青白い光が満ちていた。
重力が変わる。1.5倍。身体が、さらに重くなる。
アシュは一歩、踏み出した。
そして——倒れた。
膝をつく。手をつく。
「……あ」
立てない。
身体が、動かない。
剣の力をもってしても、もう立てない。
『立て』
剣が命令した。
「……無理」
『立て』
『ここまで来たんだ』
『諦めるな』
「……無理だよ」
アシュは涙を流していた。血の涙のように、赤く濁った涙。
「もう、無理」
『立て!』
剣の声が、怒鳴った。
だが、アシュの身体は動かなかった。
力が、もう残っていなかった。生命力が、尽きかけていた。
「……ごめん」
アシュは呟いた。
「ごめん、ごめん」
誰に謝っているのか、分からなかった。
剣に? シスター・マリアに? トムに? エマに? セリアに?
それとも——自分に?
『……仕方ない』
剣が呟いた。その声には、失望と——何か別の感情があった。
『なら、最後の力を使う』
「……え?」
その瞬間——。
アシュの身体が、勝手に動いた。
立ち上がる。剣を握る。歩き出す。
「……やめて」
アシュは叫んだ。だが、声は出ない。
「やめて!」
剣が——笑っているような気がした。
『もう遅い』
『お前の身体は、もう俺のものだ』
『お前の命も、俺のものだ』
『さあ、行くぞ』
『もっと深く』
アシュの意識が、遠のいていった。
暗闇に、沈んでいく。
抵抗する力も、もうなかった。
最後に見えたのは——。
101階層への階段だった。
そして——。
シスター・マリアの笑顔が、幻のように浮かんだ。
『お帰りなさい、アシュ』
優しい声が聞こえた気がした。
だが、それも——すぐに消えた。
アシュの意識は、完全に闇に沈んだ。




