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第71話 囁きの深化

二週間が経過していた。


アシュは50階層に立っていた。広大な洞窟。天井が高く、鍾乳石が無数に垂れ下がっている。青白い光が岩壁から発せられ、空間全体を照らしていた。


息が上がっている。全身が汗で濡れている。足が震えている。


だが——ここまで来た。


一週間前は40階層が限界だった。だが、今は50階層。10階層も進んだ。


「……やった」


アシュは呟いた。


笑顔を作る。誰も見ていない。だが、笑顔を作る。それが、自分を騙す方法だから。


体重は、さらに二キロ落ちていた。顔はさらにやつれ、目の隈はさらに深くなっていた。手の震えは止まらず、時折目眩がした。だが——進めている。それが、アシュにとっての希望だった。


『よくやった』


剣の声が聞こえた。


『50階層。立派だ』


「……ありがとう」


アシュは答えた。


もう、剣の声に抵抗することはなかった。抵抗すれば、さらに眠れなくなる。さらに囁きが激しくなる。だから、従う。剣の言う通りにする。


『明日は60階層まで行けるぞ』


「……本当に?」


『ああ。お前は強くなっている』


「……そうかな」


『そうだ。信じろ』


アシュは剣を見た。


Cランクの剣。普通の剣。だが、今では——アシュの唯一の友だった。他の誰も、アシュを理解してくれない。セリアも、ゼノも、ミラも。


でも、剣は違う。


剣は、いつもアシュの側にいる。励ましてくれる。導いてくれる。


「……ありがとう」


アシュは剣に呟いた。


『どういたしまして』


剣が答えた。


『さあ、帰るぞ。今日はよく頑張った』


「……うん」


アシュは転移石を取り出した。割る。光が包み込む。


地上へ。


-----


地上に戻ると、夕陽が差し込んでいた。


アシュは転移装置から降りた。職員が——もう驚いた顔はしなかった。毎日、アシュを見ているからだ。毎日、やつれていくアシュを。


「50階層から、ですか」


「……はい」


「すごいですね。順調に回復されてるんですね」


「……はい」


嘘だった。


回復などしていない。悪化している。だが、言えない。言えば、止められる。深層へ行けなくなる。


「無理しないでくださいね」


「……はい」


アシュは地下ホールを出た。


階段を上る——途中で、足がもつれた。


手すりにつかまる。なんとか踏みとどまる。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせる。


「僕は、大丈夫」


地上に出る。街を歩く。人々が行き交っている。だが、アシュには遠い世界のように見えた。彼らは笑っている。話している。生きている。


でも、アシュは——。


「アシュ!」


声が聞こえた。


振り返ると、ミラが走ってきていた。


「お疲れ様。今日も深層へ?」


「……はい」


「50階層まで行ったんでしょう? すごいじゃない」


ミラは笑った。だが、その目には——心配の色があった。


「……顔色、悪いわよ。ちゃんと食べてる?」


「……食べてます」


嘘だった。


朝はパンを少し。昼は何も食べない。夜はスープを少し。それだけ。それ以上は、喉を通らなかった。


「本当?」


ミラは疑っているようだった。


「……本当です」


「そう。なら、いいんだけど」


ミラはアシュの肩に手を置いた。


「無理しないでね。セリアも心配してるから」


「……セリアさんは?」


「今、ゼノと一緒に深層へ。201階層以降を探索してるわ」


「……そうですか」


アシュは俯いた。


セリアは、もう200階層を超えている。アシュは、50階層。


差が、開いていく。


「でも、あなたも頑張ってるわ」


ミラが励ました。


「50階層まで回復したんだから」


「……はい」


「ゆっくりでいいのよ。焦らないで」


「……はい」


ミラは微笑んで、去っていった。


アシュは一人、立ち尽くしていた。


——ゆっくりでいい。


そんな言葉が、胸に刺さる。


ゆっくりでは、ダメなんだ。


セリアに追いつかなければ。


追いつかなければ——。


『焦るな』


剣の声が聞こえた。


『お前は順調だ』


「……本当に?」


『ああ。明日は60階層。来週には80階層。来月には100階層を超えられる』


「……本当に?」


『信じろ』


アシュは剣を握りしめた。


「……信じる」


-----


その夜、アシュは孤児院の夢を見た。


中庭で、トムと遊んでいる夢。鬼ごっこ。笑い声。太陽の光。


「アシュ! 待ってよ!」


トムが笑いながら追いかけてくる。


アシュも笑っていた。走っていた。風が心地よかった。


だが——。


景色が変わった。


中庭が、暗くなった。太陽が消えた。トムの姿も消えた。


アシュは一人、暗闇の中に立っていた。


「……トム?」


呼びかける。だが、答えはない。


「……誰か?」


足音が聞こえた。


後ろから。


振り返る——そこには、剣があった。


宙に浮いている剣。Cランクの剣。アシュの剣。


『こっちだ』


剣が言った。


『もっと深く』


『来い』


剣が動き出した。暗闇の奥へ。


アシュは従った。歩く。走る。追いかける。


剣は止まらない。どんどん先へ。


アシュは息が切れた。足が痛い。でも、止まれない。


「……待って」


剣は待たない。


「……待ってよ」


剣は、暗闇に消えた。


アシュは一人、取り残された。


暗闇の中で。


-----


アシュは目を覚ました。


汗でシーツが濡れている。心臓が激しく打っている。呼吸が浅い。


夢だった。


だが——怖かった。


アシュは窓の外を見た。まだ夜。星が瞬いている。月が浮かんでいる。


時計を見る。午前三時。


また、数時間しか眠れなかった。


『起きたのか』


剣の声が聞こえた。


「……うん」


『夢を見たのか』


「……見た」


『どんな夢だ』


「……孤児院の夢」


『楽しい夢か』


「……最初は。でも——」


アシュは言葉を切った。


『でも?』


「……途中から、怖くなった」


『そうか』


剣は何かを考えているようだった。


『お前、孤児院に帰りたいのか』


「……」


アシュは答えられなかった。


帰りたいのか。


分からない。


以前は、帰りたかった。強くなって、みんなを守りたかった。


でも、今は——。


帰れるのだろうか。


こんな姿で。


やつれて、弱って、夢も叶えられず。


『帰らなくていい』


剣が言った。


『お前は、もっと先へ行ける』


『深層へ』


『そうすれば、強くなれる』


『そうすれば、みんなを守れる』


「……本当に?」


『本当だ』


『信じろ』


アシュは目を閉じた。


もう一度眠ろうとする。


だが——眠れなかった。


剣の声が、頭の中で響き続けていた。


-----


翌日、アシュは60階層に挑んだ。


そして——到達した。


身体はボロボロだった。傷だらけだった。治療薬を10本も消費した。


だが、到達した。


「……やった」


アシュは呟いた。


笑顔を作る。誰も見ていない。だが、笑顔を作る。


『よくやった』


剣が褒めた。


『お前は強い』


「……ありがとう」


『明日は70階層まで行けるぞ』


「……本当に?」


『ああ。お前なら、できる』


アシュは剣を見た。


もう、剣だけが——アシュの全てだった。


-----


その夜、アシュは宿の部屋で一人、鏡を見ていた。


そこには、別人がいた。


目は落ち窪み、頬骨が浮き出ている。唇は血の気がなく、肌は蝋のように白い。髪も艶がなく、ぱさついている。


「……これが、僕?」


アシュは呟いた。


右手を見る。震えている。止まらない。


左手も同じ。


身体全体が、震えている。


「……大丈夫」


自分に言い聞かせる。


「僕は、大丈夫」


『そうだ』


剣の声が聞こえた。


『お前は大丈夫だ』


『順調だ』


『もうすぐ100階層を超えられる』


『そうすれば——』


『そうすれば、セリアに追いつける』


アシュは剣を抱きしめた。


冷たい感触。金属の感触。


だが、それが——今のアシュには、唯一の温かさだった。


「……ありがとう」


アシュは呟いた。


『どういたしまして』


剣が答えた。


『さあ、眠れ』


『明日も、深層へ行くんだから』


「……うん」


アシュはベッドに横になった。


目を閉じる。


だが——。


眠れなかった。


剣の声が、止まらなかった。


『もっと深く』


『止まるな』


『お前はできる』


『信じろ』


『信じろ』


『信じろ』


アシュは、涙を流していた。


だが、それに気づかなかった。


ただ、剣の声を聞いていた。


朝まで。


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