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第70話 再起の誓い

宴から、一週間が経過していた。


アシュは目を覚ました。身体が重い。今夜も、ほとんど眠れなかった。いや、正確には——この一週間、まともに眠れた夜は一度もなかった。


目を閉じるたびに、声が聞こえる。剣の声が。


『もっと深く』


『止まるな』


『お前はまだ行ける』


最初の夜は、無視できた。二日目も、なんとか耐えられた。だが、三日目、四日目と日が経つにつれ、声は大きくなっていった。今では、目を閉じた瞬間に聞こえる。耳を塞いでも、頭の中で響く。


アシュは身体を起こした。頭が痛い。吐き気がする。鏡を見る——そこには、別人のような顔があった。


青白い顔。目の下には深い隈。頬はこけている。唇は乾いている。


一週間で、体重が三キロは落ちた。食事が喉を通らない。食べようとしても、胃が受け付けない。水とパンを少し口にするのが精一杯だった。


これではいけない。


アシュは頬を叩いた。両手で、強く。痛い。だが、少しだけ血の気が戻った。


笑顔を作る練習をする。鏡に向かって。何度も、何度も。自然な笑顔になるまで。手が震える。でも、笑顔は作れる。完璧ではないが、人を安心させるくらいには。


——大丈夫。僕は大丈夫だ。


自分に言い聞かせる。嘘だと分かっている。だが、言い続ければ、いつか本当になるかもしれない。


アシュは剣を見た。


ベッドの脇に立てかけられた剣。Cランクの剣。何の変哲もない剣。だが、この剣には前の持ち主の意思が宿っている。記憶が宿っている。


そして——囁きが宿っている。


『おはよう、アシュ』


声が聞こえた。


アシュは目を閉じた。無視しようとする。だが、声は止まらない。


『また眠れなかったのか』


『お前の顔色、悪いぞ』


『でも、仕方ないな』


『深層へ行けないんだから』


アシュは拳を握った。


「……うるさい」


小さく呟いた。


だが、声は笑っているようだった。


『怒るなよ。俺はお前の味方だ』


『一緒に深層へ行こう』


『そうすれば、眠れるようになる』


『囁きも止まる』


『だから——行けよ』


アシュは剣を掴んだ。


冷たい感触。金属の感触。そして——何か別の感触。前の持ち主の残留思念。それが、アシュの手に流れ込んでくる。


記憶が、フラッシュバックする。


-----


十年前。


アシュは孤児院にいた。


「始祖の都ルミナス」の外れにある、小さな孤児院。石造りの建物。古いが、温かい場所。そこには、十人ほどの子供たちがいた。


アシュは八歳だった。


孤児院の子供たちと一緒に、中庭で遊んでいた。鬼ごっこ。かくれんぼ。木登り。笑い声が響いていた。太陽の光が暖かかった。風が心地よかった。


「アシュ! こっちこっち!」


友達が手を振っていた。同い年の男の子。名前はトム。明るくて、元気な子。いつも笑顔だった。


「待って!」


アシュは走った。トムを追いかける。二人で、木の陰に隠れる。


「ここなら見つからないよ」


トムが囁いた。


「うん」


二人は息を潜めた。鬼役の女の子——エマという名前だった——が、周りを探している。


「どこだろう?」


エマの声。少し困ったような声。


アシュとトムは顔を見合わせて、笑いを堪えた。トムの目が笑っていた。アシュも同じだった。


やがて、エマは別の場所へ行った。


「やった!」


トムが小声で喜んだ。


「アシュ、僕たち最高のチームだね」


「うん」


アシュは笑った。心から。何の曇りもなく。


あの頃は、何もかもが楽しかった。孤児院は貧しかった。食事も質素だった。服もお下がりばかり。おもちゃも古く、壊れかけていた。だが、温かかった。仲間がいた。笑顔があった。未来への希望があった。


夜になると、シスター・マリアが本を読んでくれた。


「昔々、ある所に勇敢な騎士がいました」


優しい声。穏やかな声。まるで子守唄のような声。


子供たちは、シスター・マリアの周りに集まって、話を聞いた。アシュもその一人だった。シスター・マリアの膝元に座り、温かさを感じながら。


「騎士は剣を持って、悪い魔物と戦いました。どんなに強い敵でも、騎士は決して諦めませんでした」


「すごーい!」


子供たちが目を輝かせた。


「僕も騎士になりたい!」


トムが言った。拳を握りしめて、目を輝かせて。


「僕も!」


アシュも言った。トムと同じように、拳を握りしめて。


シスター・マリアは微笑んだ。その笑顔は、月の光のように優しかった。


「あなたたちも、いつか立派な剣使いになれるわ」


「本当?」


「本当よ。でも、剣使いになるには、強い心が必要なの」


「強い心?」


「そう。困難に負けない心。仲間を守る心。そして——自分を信じる心」


シスター・マリアは子供たちの頭を撫でた。一人ずつ、丁寧に。温かい手。


「あなたたちなら、きっとできるわ」


アシュは、その言葉を信じた。


いつか、強くなる。立派な剣使いになる。そして、孤児院に戻ってくる。シスター・マリアや、トムや、エマや、みんなを守る。


それが、アシュの夢だった。


-----


十五歳の春。


アシュは剣の儀式を受けた。


孤児院の子供たちは、全員、儀式を受ける。生後一年以内に受けるのが普通だが、孤児院の子供たちは遅れることが多い。費用がかかるからだ。一人につき、金貨十枚。孤児院にとっては大金だった。


だが、シスター・マリアは子供たちのために、必死に資金を集めた。寄付を募り、アビスで事務の仕事をし、少しずつお金を貯めた。何年もかけて。


そして、アシュの番が来た。


「アシュ、準備はいい?」


シスター・マリアが優しく問うた。


「はい」


アシュは頷いた。緊張していた。手が震えていた。儀式は、ダンジョンの中で行われる。24時間、親——アシュの場合はシスター・マリア——と一緒に、ダンジョン内で過ごす。


それが、剣との契約。


二人は1階層へ降りた。


暗い空間。石の壁。湿った空気。遠くでモンスターの鳴き声が聞こえる。ゴブリンだろうか。それとも、もっと別の何かか。アシュは怖かった。心臓が激しく打っていた。だが、シスター・マリアの手を握っていた。温かい手。大きな手。


「大丈夫よ、アシュ。私がついてるわ」


「はい」


24時間が過ぎた。


そして——剣が現れた。


光の中から。それは、普通の剣だった。Cランクの剣。何の変哲もない。装飾もない。刃も普通。だが、アシュにとっては特別な剣。


アシュは剣を手に取った。


重い。だが、しっくりくる。まるで、ずっと前から自分のものだったかのように。手に馴染む感覚。


「おめでとう、アシュ」


シスター・マリアが微笑んだ。その目には、涙が浮かんでいた。


「これで、あなたも剣使いよ」


「はい!」


アシュは笑った。嬉しかった。誇らしかった。胸が熱くなった。


これで、強くなれる。みんなを守れる。夢に近づける。


そう、信じていた。


-----


現在。


アシュは目を開けた。


記憶が途切れる。剣から手を離す。


部屋に戻る。現実に戻る。


あれから、二年が経った。


アシュは孤児院を出て、冒険者になった。最初は低層から。ゴブリンを倒し、経験を積み、少しずつ深層へ。一歩ずつ、確実に。


50階層、70階層、90階層。


そして——100階層。


あそこで、限界を迎えた。身体が壊れた。深層へ行けなくなった。治療師に宣告された。「もう無理だ」と。


それから一週間。


囁きは止まらなかった。毎晩、毎晩。眠ろうとするたびに。


アシュは窓の外を見た。


朝の街。人々が行き交っている。冒険者たちが、深層へ向かっている。彼らの顔には、希望がある。夢がある。


だが、アシュは——。


『もう終わりか?』


剣の声が聞こえた。


『お前の夢は、その程度だったのか』


「……違う」


アシュは呟いた。声が震える。


「僕の夢は、まだ終わってない」


『なら、行け』


『深層へ』


『お前なら、できる』


「……」


アシュは剣を掴んだ。


そして——立ち上がった。


足がふらつく。目眩がする。だが、立つ。


-----


アビスの転移装置がある地下ホールに、アシュは立っていた。


「30階層へ」


職員に告げる。職員はアシュを見た——その顔に、一瞬驚きが浮かんだ。アシュの顔色が悪いからだろう。だが、職員は何も言わなかった。ただ、装置を操作した。


光がアシュを包み込む。


視界が白く染まる。


次の瞬間、アシュは30階層に立っていた。


-----


30階層は、洞窟だった。


天井が低く、壁は湿っている。床には水たまりがある。遠くで、モンスターの鳴き声が聞こえる。


アシュは剣を抜いた。


身体が重い。呼吸が苦しい。一週間の睡眠不足と食事不足が、如実に身体に現れている。筋力が落ちている。集中力も続かない。


だが——進む。


一歩、また一歩。


モンスターが現れた。オーク。Eランク。斧を持っている。


アシュは剣を構えた。


オークが襲いかかってくる。斧を振り下ろす。


アシュは避けた——いや、避けようとした。だが、身体が思うように動かない。反応が遅れる。


斧がアシュの肩を掠めた。


「……!」


鎧が裂ける。血が飛ぶ。痛い。


以前なら、こんな攻撃は簡単に避けられた。だが、今は違う。


オークが再び斧を振るう。


アシュは剣で受けた。金属と金属が激突する。


衝撃が腕に伝わる。痺れる。力が入らない。


——身体が、ついていかない。


オークが蹴りを放った。


アシュの腹に直撃する。


「がっ……!」


アシュは吹き飛ばされた。床に叩きつけられる。背中が痛い。呼吸ができない。視界が歪む。


オークが近づいてくる。斧を振り上げる。


——まずい。


アシュは転がった。オークの斧が、さっきまでアシュがいた場所を叩く。床が砕ける。


アシュは立ち上がった。剣を握りしめる。手が震えている。


『立て』


剣の声が聞こえた。


『まだ終わりじゃない』


『戦え』


『お前はできる』


アシュは走った。オークに向かって。全力で——いや、全力のつもりだった。だが、足が重い。速度が出ない。


剣を振るう。オークの首を狙う。


刃が食い込んだ。


オークが倒れた。動かなくなった。


アシュは膝をついた。息が上がっている。全身が痛い。視界がぼやける。


だが——勝った。


「……まだ、行ける」


アシュは呟いた。


自分に言い聞かせる。


「僕は、まだ行ける」


治療薬を飲む。傷が癒える。だが、疲労は残る。睡眠不足は治らない。


アシュは立ち上がった。


そして——先へ進んだ。


-----


31階層、32階層、33階層。


アシュは進んだ。モンスターと戦い、傷を負い、治療薬を飲み、進む。


身体は悲鳴を上げている。もう限界だと。止まれと。頭がぼんやりする。足がもつれる。視界が時折暗くなる。


だが、アシュは止まらなかった。


剣の声が、背中を押す。


『もっと深く』


『お前はできる』


『信じろ』


アシュは信じた。


剣を。自分を——いや、もう自分を信じているのか分からなかった。ただ、剣の声に従っていた。それしか、できなかった。


40階層に到達した時、アシュは完全に限界だった。


足が震えている。視界が歪んでいる。呼吸が浅い。立っているのがやっとだった。


治療薬の残りは、3本。


「……今日は、ここまで」


アシュは呟いた。声が掠れている。


転移石を取り出す。手が震える。落としそうになる。なんとか握りしめて——割る。


光が包み込む。


地上へ。


-----


地上に戻ると、夕陽が差し込んでいた。


アシュは転移装置から降りた。職員が驚いた顔で見ている。


「40階層から……ですか? 大丈夫ですか? 顔色が……」


「……はい」


アシュは答えた。笑顔を作る。完璧ではない。でも、なんとか。


「リハビリです。大丈夫です」


「そうですか。でも、無理しないでくださいね」


「はい」


アシュは地下ホールを出た。


階段を上る。一段、また一段。足が重い。手すりにつかまらないと登れない。


地上に出ると、街はオレンジ色に染まっていた。


人々が家路につく時間。平和な時間。笑い声が聞こえる。温かい光景。


アシュは宿へ向かった。


部屋に入る。ベッドに倒れ込む。


身体が痛い。全身が痛い。頭も痛い。吐き気がする。


だが——。


「……やった」


小さく呟いた。


40階層。以前よりは浅い。だが、それでも進めた。身体が動いた。


「明日は、もっと行ける」


そう、自分に言い聞かせる。


だが——。


心の奥底で、分かっていた。


これは、無理だと。


身体が壊れていると。


いずれ、限界が来ると。


だが、認めたくなかった。


認めれば、すべてが終わる。


夢が終わる。


アシュは目を閉じた。


眠ろうとする。


だが——。


『まだ眠るのか』


剣の声が聞こえた。


『もっと行けただろう』


『50階層まで』


『いや、60階層まで』


「……うるさい」


アシュは枕に顔を埋めた。


『逃げるな』


『お前は、まだ終わってない』


『明日も行け』


『深層へ』


『そうすれば——』


『そうすれば、楽になれる』


「……分かってる」


アシュは呟いた。涙が溢れそうになる。でも、堪える。


「分かってるから、黙ってくれ」


剣は、それ以上何も言わなかった。


だが、沈黙が、逆に重かった。


アシュは、眠れなかった。


八日目の夜も。

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