第6話 始祖の都ルミナス
2階層への階段を前に、私は立ち止まった。
頭痛はもう治まっている。だが、あのビジョン――「セリア、下がれ!」という声が、まだ耳に残っている。
誰かと一緒に戦っていた。
それは確かだ。だが、思い出せない。
私は階段を見つめた。暗闇へと続く石段。冷たい風が吹き上げてくる。
……今日は、ここまでにしよう。
まだ身体の感覚を完全に把握できていない。記憶はないが、身体は戦い方を覚えている。だが、それがどこまで通用するのか。2階層以降の魔物がどれほど強いのか。
慎重に進むべきだ。
私は踵を返し、地上へ戻ることにした。
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1階層を引き返す道すがら、私は自分の動きを反芻していた。
ゴブリンを倒したときの感覚。剣の重さ。足の運び。呼吸のリズム。
すべてが自然だった。まるで何千回も繰り返したかのように。
記憶はない。
だが、身体は完璧に覚えている。
これが、500階層へ到達した力なのか。
……それとも、何か別の理由があるのか。
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夕刻、私は管理ゲートへ戻った。
ゲートには数人の冒険者が並んでいる。彼らは疲れた表情で、血や泥にまみれていた。ダンジョンから戻る者たちだ。
私はその列に並び、ギルドカードを取り出した。
職員が私のカードを受け取り、魔導具にかざす。すると、カードが淡く光った。
「討伐記録を登録します……」
職員が魔導具の表示を見て、目を見開いた。
「……ゴブリン、14体? 一人で?」
彼は私を見た。疑念と驚愕が混ざった目。
「本当に、あなた一人で?」
「ああ」
私は短く答えた。職員は何も言わず、カードを返した。だが、その表情には明らかに動揺が浮かんでいる。
周囲の冒険者たちも、私を見ている。ひそひそと囁き合う声。
「14体……一人で……」
「嘘だろ」
私は無視して、ゲートを通過した。
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夕暮れのルミナスの街並みが、目の前に広がった。
白い石造りの建物が、夕日に染まって薄紅色に輝いている。街灯が灯り始め、通りには温かな光が灯る。商店街は夕方の賑わいを見せていた。
冒険者たちがダンジョンから戻り、酒場へと向かっている。武器屋では店主が閉店の準備をしており、薬屋では冒険者が傷薬を買っている。パン屋からは、焼きたてのパンの香りが漂ってくる。
活気のある街。
ダンジョンに依存しながらも、人々はここで生活している。
私は街を歩きながら、周囲を観察した。
……この道。
知っている気がする。
既視感。
足が自然に動く。まるで何度も歩いたかのように。だが、記憶はない。ただ、心の奥底に微かな懐かしさだけが残っている。
「……ここに、住んでいたのか」
私は呟いた。
2年前。消息を絶つ前。私はこの街で暮らしていたのだろうか。
答えは出ない。
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宿舎へ戻ると、部屋は静かだった。
簡素な部屋。ベッド、机、椅子。小さな窓からは、街の明かりが見える。そして、遠くに聳えるダンジョンの穴。漆黒の深淵が、静かに口を開けている。
私はベッドに腰を下ろし、剣を膝に置いた。
剣の手入れを始める。
布で血を拭い、刃を研ぐ。動作は流れるように自然だ。何百回も繰り返したような感覚。
「この動作も、身体が覚えている……」
私は剣を見つめた。
空虚の剣。沈黙する剣。
だが、昨日の資料室で感じた。この剣には、何かが封じられている。
……お前は、何を隠している。
剣は相変わらず何も答えない。
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そのとき、控えめなノックの音が聞こえた。
「セリアさん、いらっしゃいますか?」
聞き覚えのある声。
ミラだ。
私は扉を開けた。ミラが立っている。両手には、木製の盆が乗っている。温かいスープ、焼きたてのパン、チーズ、果物。
「お疲れ様です。無事で本当に良かった」
ミラは優しく微笑んだ。
「夕食、持ってきました。一人で食べるより、誰かと食べた方がいいかなって」
私は少し戸惑った。
「……なぜ、そこまでしてくれる」
ミラは首を傾げた。
「だって、セリアさんは一人でしょう? 記憶もないし、頼れる人もいない。少しでも力になりたいんです」
彼女は柔らかく笑う。
私は何も言わず、部屋に招き入れた。
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二人で机を挟んで座り、食事を始めた。
ミラが料理を取り分けてくれる。スープを器によそい、パンを切り分け、チーズを小さく切る。細やかな気遣い。
「今日、ダンジョンはどうでしたか?」
ミラが尋ねる。
「……問題なかった」
私は短く答えた。ミラは頷く。
「ギルドカードの記録、見ました。ゴブリン14体……すごいです」
「身体が勝手に動いた。考える前に」
ミラは真剣な表情で聞いている。
「それは……相当な実力です。普通、1階層でも油断すれば怪我をします。ゴブリンは弱い魔物ですけど、群れで襲ってくると危険なんです」
彼女は私を見た。
「やっぱり、セリアさんは本当に強いんですね」
「……わからない」
私は答えた。
「記憶がない。ただ、身体が覚えているだけだ」
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ミラは少し考え込むように黙った。そして、話題を変えた。
「セリアさん、ルミナスのこと、ちゃんと説明していませんでしたよね」
「ああ」
「じゃあ、少し説明しますね」
ミラは丁寧に話し始めた。
「ルミナスは、始祖の都と呼ばれています。5つのダンジョン都市の中で最も古い都市なんです。300年前に建設されました」
「300年……」
「はい。人口は約10万人。街の経済は、ダンジョンに依存しています。魔物の素材、鉱石、希少な植物。それらを冒険者が採取して、街で売買する。それがこの街の主要産業です」
ミラは続けた。
「そして、アビスオーダーの本部もここにあります。だから、ルミナスは5つの都市の中で最も重要な場所なんです」
「……なるほど」
ミラは少し表情を変えた。
「それと、ルミナスの階層到達記録についても話しておきますね」
「記録?」
「はい。平均的な冒険者は、30階層から50階層くらいまで到達します。一流の冒険者で、100階層から150階層。そして……」
ミラは私を見た。
「ルミナスの歴代最高記録は、250階層です」
「250……」
「8年前、エリオット・クレインという冒険者が到達しました。彼は今、引退していますけど、ルミナスでは伝説的な存在です」
ミラは静かに続けた。
「全人類史では、450階層が最高記録。20年前、別の都市で一人だけ到達した冒険者がいます。だから、セリアさんの500階層は……本当に前例がないんです」
私は黙って聞いていた。
250階層。
それが、ルミナスの限界。
なのに、私は500階層へ行ったという。
……本当に、行ったのか。
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ミラが静かに尋ねてきた。
「セリアさん、私……少し個人的なことを話してもいいですか?」
「構わない」
ミラは少し表情を曇らせた。
「私の兄が……冒険者だったんです」
私は彼女を見た。
「5年前、兄は150階層で魔物に襲われて……死にました」
ミラの声が小さくなる。
「遺体は回収されましたけど、剣は失われました。兄の記憶も、剣と共に失われたんです」
彼女は俯いた。
「それから、私はアビスで働き始めました。冒険者を支える仕事がしたかったんです。せめて、誰かの役に立ちたくて」
ミラは私を見た。少し涙ぐんでいる。
「だから……セリアさんには、無事でいてほしいんです。記憶がなくても、生きていてくれれば、それでいい」
私は何も言えなかった。
ミラの優しさ。それが、どこから来ているのか。
初めて、理解した気がした。
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ミラは気を取り直して、笑顔を見せた。
「ごめんなさい、暗い話をしちゃって」
「……いや」
ミラは明るく言った。
「それで、セリアさん、これからどうするんですか?」
「記憶を取り戻すまで、ダンジョンへ潜る」
「それなら、街での生活にも慣れた方がいいですよ」
ミラが提案してきた。
「明日、街を案内します。必要な物資を揃えたり、冒険者ギルドでの依頼の受け方を教えたり。ギルドカードの記録の確認方法も」
私は少し考え、頷いた。
「……頼む」
ミラは嬉しそうに笑った。
「じゃあ、明日の朝、迎えに来ますね!」
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ミラが帰った後、私は一人窓辺に立った。
夜のルミナスの街並み。
街灯が灯り、温かな光が街を照らしている。人々の生活の明かりが、窓から漏れる。酒場からは、笑い声が聞こえてくる。
遠くに、ダンジョンの穴が聳えている。漆黒の深淵。
私はその穴を見つめた。
ミラの優しさが、不思議だった。
なぜ、見ず知らずの私にそこまでしてくれるのか。
だが……悪い気はしない。
「これが、信頼というものか」
私は呟いた。
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眠りにつく前、再び頭痛が襲ってきた。
激しい痛み。私は頭を抱えた。
フラッシュバック。
この街の通り。昼間の賑わい。人々の笑い声。
誰かと並んで歩いている。
「セリア、今日も調子いいな! 250階層も夢じゃないぞ」
男の声。明るい笑い声。楽しそうな雰囲気。
だが、顔は見えない。ぼやけている。
ビジョンが途切れた。
私は目を開けた。
「250階層……それが、目標だったのか」
だが、なぜ500階層へ行ったのだろう。
何があったのだろう。
答えは、まだ見えない。
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