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第69話 束の間の光

地上への転移は、一瞬だった。


白い光が視界を覆い、次の瞬間、セリアとゼノはアビスの地下ホールに立っていた。転移装置から降りる。足が地に着く感覚。地上の空気。硫黄の匂いも、溶岩の熱気も、騎士たちの圧力もない。ただ、石造りの空間と、職員たちの驚きの視線だけがあった。


「200階層から……ですか?」


職員の一人が、震える声で問うた。


「……ああ」


ゼノが答えた。疲労で声がかすれている。


「記録を更新した。俺は2年ぶりの200階層到達。そして——」


ゼノはセリアを見た。


「彼女は、現役で200階層到達者だ」


職員たちがざわめいた。


200階層。中層の最深部。到達者は数えるほどしかいない。ゼノは2年前に到達している。だが、セリアは——17歳の少女が、今、到達した。


「……詳細な報告書は後で提出する」


ゼノが言った。


「今は休ませてくれ」


「はい、承知しました」


職員は慌てて道を開けた。


セリアとゼノは地下ホールを出た。階段を上る。一段、また一段。足が重い。全身が痛い。だが、生きている。まだ、生きている。


地上に出ると、夕陽が差し込んでいた。


オレンジ色の光。温かい光。空は赤く染まり、雲が金色に輝いている。街には人々の姿がある。商人が店を閉め、冒険者たちが酒場へ向かい、子供たちが家路につく。日常の光景。平和な光景。


「……帰ってきたな」


ゼノが呟いた。


「……ああ」


セリアは空を見上げた。青い空ではない。夕焼けの空。だが、それでも美しい。


「セリア、ゼノ!」


声が聞こえた。


振り返ると、ミラが走ってきていた。彼女は息を切らせながら、二人の前で立ち止まった。


「お帰りなさい! 200階層到達、おめでとう!」


「……ミラ」


「職員から連絡が来たの。すぐに駆けつけたわ」


ミラは二人を見た。その目には、安堵と喜びがあった。


「怪我は? 大丈夫?」


「……ああ」


セリアは頷いた。


「治療薬で治した」


「そう。良かった」


ミラは微笑んだ。だが、その笑顔の裏に疲れが見える。彼女もまた、心配していたのだろう。


「今夜、お祝いをしましょう」


ミラが提案した。


「200階層到達記念。アビスの食堂で、ささやかな宴を」


「……いいのか」


ゼノが問うた。


「もちろんよ。あなたたちは英雄なんだから」


ミラは二人の腕を取った。


「アシュも呼ぶわ。彼、もう退院してるの」


「……退院?」


セリアは驚いた。


「もう動けるのか」


「ええ。体調が良くなったって。剣の囁きにも慣れたみたい」


「……そうか」


セリアは複雑な気持ちだった。アシュが回復したのは良いことだ。だが——本当に大丈夫なのか。剣の囁きに慣れるなど、可能なのか。


「とにかく、今夜集まりましょう。夕食の時間に」


「……分かった」


-----


夕食の時間。


アビスの食堂は、いつもより賑やかだった。冒険者たちが200階層到達の話をしている。セリアとゼノの名前が飛び交っている。だが、二人は隅のテーブルに座っていた。ミラと共に。


やがて、アシュが現れた。


彼は笑顔だった。顔色も良い。歩き方もしっかりしている。一週間前とは別人のようだ。


「セリアさん、ゼノさん、おめでとうございます!」


アシュはテーブルに近づき、頭を下げた。


「200階層到達、すごいです!」


「……ありがとう」


セリアは答えた。


アシュを見る。確かに、元気そうだ。だが——。


目に、わずかな翳りがある。笑顔の裏に、何かを隠しているような。


「座れ」


ゼノが促した。


「ああ、はい」


アシュは椅子に座った。ミラが料理を運んできた。パン、スープ、肉料理、ワイン。豪華な食事。


「さあ、食べましょう」


ミラが言った。


「今夜は祝いの夜よ」


四人は食事を始めた。


ゼノとミラが会話をしている。200階層の話、騎士たちの話、守護者の話。アシュは興味深そうに聞いている。


セリアは黙って食べていた。


だが、時折アシュを見る。彼は笑っている。普通に。だが——。


箸を持つ手が、わずかに震えている。


「アシュ」


セリアが呼びかけた。


「はい?」


「……身体は、本当に大丈夫なのか」


「はい、大丈夫です」


アシュは即答した。


「治療師さんも、もう問題ないって」


「……そうか」


「それに、剣の囁きにも慣れました」


アシュはベッドの脇に立てかけた剣を見た。


「最初は怖かったけど、今はもう平気です」


「……本当に?」


「本当です」


アシュは笑った。だが、その笑顔は——。


どこか、作られたもののように見えた。


ミラが話題を変えた。


「ところで、二人とも、これからどうするの?」


「……201階層以降へ進む」


ゼノが答えた。


「200階層は通過点に過ぎない」


「でも、階層が変わってるんでしょう? 186階層以降」


「ああ」


ゼノは頷いた。


「2年前の俺の知識は、もう役に立たない」


「……危険ね」


「だが、だからこそ行く価値がある」


ゼノはワインを飲んだ。


「未知の領域。誰も見たことのない場所」


「セリアは?」


ミラがセリアを見た。


「……同じだ」


セリアは答えた。


「進む」


「……そう」


ミラは俯いた。その表情には、不安があった。


「無理しないでね。二人とも」


「……ああ」


アシュが口を開いた。


「あの、僕も——」


三人がアシュを見た。


「僕も、また深層へ行きたいです」


「……何?」


セリアは目を見開いた。


「故郷へ帰るんじゃなかったのか」


「それ、やめました」


アシュは真剣な顔で言った。


「考えたんです。故郷に帰っても、何もない。剣使いとして生きてきたのに、今さら畑を耕すなんて」


「……」


「だから、もう一度挑戦します。身体を慣らして、少しずつ深層へ」


「無理だ」


ゼノが言った。


「治療師の診断を忘れたのか。お前の身体は深層に耐えられない」


「でも、もう大丈夫です」


アシュは主張した。


「体調も良くなったし、剣の囁きにも慣れた。今なら——」


「アシュ」


セリアが遮った。


「……無理をするな」


「無理じゃないです」


アシュの声が強くなった。


「僕、本当に大丈夫なんです。信じてください」


セリアはアシュを見た。


彼の目には、決意があった。だが、同時に——何かを隠している目でもあった。


「……分かった」


セリアは言った。


「だが、単独では行くな」


「はい」


「低層で身体を慣らせ。50階層以下だ」


「……はい」


アシュは頷いた。


ミラが心配そうに二人を見ていた。だが、何も言わなかった。


宴は続いた。


ゼノとミラが作戦会議を始めた。201階層以降の攻略について。階層が変わっている可能性、未知のモンスター、補給ルート。


「階層が変わっているなら、今までの地図も役に立たない」


ゼノが言った。


「一から探索する必要がある」


「でも、危険すぎるわ」


ミラが反論した。


「せめて、情報を集めてから」


「情報なんてない。誰も201階層以降へ行っていないんだから」


「……そうね」


ミラは溜息をついた。


「せめて、装備を整えて。治療薬も多めに」


「ああ、それは当然だ」


セリアは黙って聞いていた。


だが、心の中では考えていた。


201階層以降。未知の領域。階層が変わっているかもしれない。さらに強い敵がいるかもしれない。


だが——行かなければならない。


身体が求めている。記憶はない。だが、身体が知っている。先へ、もっと先へ。


「セリア」


ミラが呼びかけた。


「何か心配なことがあるの?」


「……いや」


セリアは首を横に振った。


「大丈夫だ」


「そう」


ミラは微笑んだ。だが、その笑顔は不安そうだった。


宴が終わり、四人は別れた。


ゼノは自室へ。ミラも帰宅した。アシュも宿へ。


セリアは一人、夜の街を歩いていた。


星が瞬いている。月が浮かんでいる。静かな夜。


だが、セリアの心は静かではなかった。


アシュの顔が浮かぶ。笑顔。だが、その裏に隠された何か。


——本当に大丈夫なのか。


本当に、剣の囁きに慣れたのか。


それとも——。


セリアは拳を握った。


分からない。


だが、見守るしかない。


アシュの選択を。アシュの道を。


そして、もし——。


もし、アシュが再び深層へ向かおうとしたら。


その時は——。


セリアは空を見上げた。


星が、静かに瞬いていた。


-----


翌朝。


セリアはアビスの受付へ向かった。ミラがそこにいた。彼女は職員として、カウンターに立っている。


「おはよう、セリア」


「……おはよう」


「今日は何の用?」


「……装備の補充」


「分かったわ。治療薬と携行食ね」


ミラは記録を取った。


「いつ出発するの?」


「……明後日」


「そう。準備、しっかりね」


「……ああ」


セリアは受付を離れようとした。だが——。


「セリア」


ミラが呼び止めた。


「……何だ」


「アシュのこと、気にしてるでしょう」


「……」


セリアは答えなかった。


「私も心配なの」


ミラは声を落とした。


「彼、嘘をついてる気がする」


「……」


「体調が良くなったって言ってるけど、顔色が悪い。手も震えてる」


ミラは窓の外を見た。


「もしかしたら、無理をしてるのかもしれない」


「……」


「セリア、もし——」


ミラはセリアを見た。


「もし、アシュが深層へ向かおうとしたら、止めてあげて」


「……約束する」


「ありがとう」


ミラは微笑んだ。だが、その笑顔は悲しげだった。


セリアはアビスを出た。


街を歩く。朝の光が差し込んでいる。人々が行き交っている。


だが、セリアの心には、不安があった。


アシュ。


彼は、本当に大丈夫なのか。


それとも——。


答えは、まだ分からなかった。

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