第67話 二百の境界
広間の奥に扉があった。
次への扉。196階層への扉。
セリアとゼノは、互いに顔を見合わせた。二人とも疲労の色が濃い。ゼノの顔には汗が浮かび、呼吸もまだ荒い。セリアも同じだ。肩が重い。足が鉛のように重い。
「……治療薬、残りは?」
ゼノが問うた。
「……15本」
「俺も同じくらいだ」
ゼノは扉を見た。その目には、迷いがあった。
「……進むか? それとも、一度戻るか?」
セリアは沈黙した。
理性は言う。戻れ、と。地上へ戻り、休息を取り、装備を整え、万全の状態で再挑戦しろ、と。
だが、身体が拒否している。
まだ行ける。もっと先へ。もっと深く。
それは剣の囁きではない。セリアの剣は沈黙している。これは、セリア自身の渇望だ。記憶にはない。だが、身体が求めている。深層を。未知を。
「……進む」
セリアは答えた。
「……そうか」
ゼノは小さく笑った。疲れた笑顔。だが、どこか嬉しそうな笑顔。
「なら、行くぞ」
二人は扉を開けた。
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196階層は、階段だった。
長い、長い螺旋階段。下へ続く階段。壁は黒い石で造られている。天井も低い。圧迫感がある。照明は壁に埋め込まれた赤い結晶。それが不気味な光を放っている。
「……また階段か」
ゼノが呟いた。
「何階層分、下りるんだ」
「……分からない」
二人は階段を下りた。一段、また一段。足音が反響する。他には何も聞こえない。モンスターの気配もない。
ただ、静寂だけがある。
時間の感覚が曖昧になる。どれくらい下りたのか。十分? 三十分? それとも一時間?
やがて、階段の終わりが見えた。
扉がある。黒い扉。表面には何も刻まれていない。
セリアは扉を開けた。
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197階層は、また広間だった。
だが、195階層の白い広間とは違う。ここは暗い。天井が低い。壁には松明が灯っている。炎が揺れている。影が踊っている。床は石畳。ところどころ、ひび割れている。
そして、広間の中央に——黒い騎士が立っていた。
銀の騎士よりも大きい。身長3.5メートルはあるだろう。全身が漆黒の鎧で覆われている。兜の奥には青い光が見える。手には両手剣を持っている。刃は黒く、まるで闇を固めたような色。
「……来たな」
ゼノが呟いた。
「……ああ」
セリアは剣を抜いた。
黒い騎士が動いた。
だが、襲いかかってはこなかった。ただ、剣を構える。静かに。まるで、礼をしているかのように。
「……何だ?」
ゼノが困惑した声を出した。
「待っているのか?」
「……分からない」
セリアは慎重に近づいた。一歩、また一歩。騎士は動かない。ただ、剣を構えたまま。
セリアが一定の距離まで近づいた時——。
騎士が動いた。
速い。銀の騎士よりも速い。剣を横薙ぎに振るう。セリアは咄嗟に剣で受けた。金属と金属が激突する。火花が散る。
衝撃が腕に伝わる。
痺れる。骨が軋む。セリアは吹き飛ばされた。床を滑る。五メートルは飛ばされた。
「セリア!」
ゼノが叫んだ。そして、騎士に向かって走る。大剣を振り上げる。騎士の背中を狙う。
だが、騎士は反応した。振り返り、剣を振るう。ゼノは咄嗟に防御した。だが、騎士の力は強大だった。ゼノの身体が浮く。吹き飛ばされる。壁に叩きつけられる。
「……くそ!」
ゼノは呻いた。立ち上がる。治療薬を飲む。傷が癒える。だが、疲労は残る。
騎士は再びセリアに向き直った。
剣を構える。そして——突進してきた。
セリアは走った。騎士の攻撃を避ける。横に跳ぶ。転がる。立ち上がる。反撃する。
剣が騎士の鎧を叩く。火花が散る。だが、傷は浅い。
騎士が剣を振るう。セリアは避ける。だが、避けきれない。剣が肩を掠める。鎧が裂ける。血が飛ぶ。
「……!」
痛い。だが、セリアは止まらない。治療薬を飲む余裕はない。攻撃を続ける。
ゼノも加わった。二人で騎士を挟む。セリアが前、ゼノが後ろ。
連携。
セリアが騎士の注意を引く。ゼノが背後から攻撃する。騎士が反転する。セリアが隙を突く。
繰り返し。
だが、騎士は強かった。二人の攻撃を捌く。反撃する。傷を負わせる。
時間が経過する。
セリアとゼノの傷が増える。治療薬を消費する。疲労が蓄積する。
だが、騎士にも傷が増えていた。鎧の隙間から黒い液体が滴っている。動きが鈍くなっている。
「……今だ!」
ゼノが叫んだ。
セリアは跳んだ。騎士の背中に飛びつく。剣を首の関節部分に突き刺す。深く。
騎士が動きを止めた。
ゼノが前から大剣を振り上げる。騎士の胸部を狙う。鎧の隙間を貫く。
騎士が膝をついた。
剣が手から滑り落ちる。
そして——倒れた。
静寂。
二人は荒い呼吸をしていた。
「……倒したか」
ゼノが呟いた。
「……ああ」
セリアは騎士から降りた。治療薬を飲む。残り12本。
ゼノも治療薬を飲んだ。
「……まだ行けるか?」
「……ああ」
「なら、進むぞ」
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198階層、199階層。
また騎士が現れた。赤い鎧の騎士、青い鎧の騎士。どちらも強かった。だが、セリアとゼノは倒した。
連携が磨かれていく。互いの動きが分かるようになる。言葉なく、視線だけで意思疎通ができる。
治療薬の残りは、セリアが8本、ゼノが7本になった。
疲労は限界に近い。だが、二人は進んだ。
そして——200階層に到達した。
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扉を開けると、そこは巨大な広間だった。
天井が高い。いや、天井が見えない。ただ、無限に続く暗闇。壁も遠い。床は黒い大理石。磨かれた表面が、わずかな光を反射している。
そして、広間の中央に——玉座があった。
巨大な玉座。黒い石で造られている。表面には古代文字が刻まれている。読めない。だが、何かが書かれている。
玉座に、何かが座っている。
人の形をした何か。
だが、人ではない。
身長4メートル。全身が金色の鎧で覆われている。鎧は美しい。まるで芸術品のよう。細かい装飾が施されている。顔は見えない。ただ、兜の奥に黄金の光が見える。手には剣を持っている。両手剣。巨大な両手剣。刃は黄金色に輝いている。
「……これは」
ゼノが息を呑んだ。
「まさか——」
金色の騎士が立ち上がった。
玉座から降りる。ゆっくりと。床が揺れる。一歩、また一歩。
剣を構える。
そして——口を開いた。
「我が名は『守護者』」
声が響いた。
低く、重く、威圧的な声。空間全体が震える。
「200階層を守りし者」
守護者の視線が、セリアとゼノに向けられる。
「汝ら、よくぞここまで辿り着いた」
「……喋った」
ゼノが呟いた。
「騎士が、喋った……!」
「だが——」
守護者が剣を振るった。
空を切る。だが、衝撃波が放たれた。目に見えない刃。空気が歪む。
セリアとゼノは横に跳んだ。衝撃波が床を削る。石が砕ける。
「ここより先へは行かせぬ」
守護者が再び剣を振るった。
今度は連続で。衝撃波が次々と放たれる。縦、横、斜め。
セリアとゼノは避ける。転がる。跳ぶ。だが——。
衝撃波がセリアの腕を掠めた。鎧が裂ける。血が飛ぶ。痛みが走る。
「……!」
セリアは歯を食いしばった。治療薬を飲みたい。だが、余裕がない。守護者が迫っている。
ゼノも傷を負っていた。脚を切られている。血が滲んでいる。だが、彼も立っている。剣を構えている。
「セリア!」
ゼノが叫んだ。
「俺が引きつける! お前は隙を狙え!」
「……無理するな!」
「大丈夫だ!」
ゼノは守護者に向かって走った。大剣を振り上げる。守護者に斬りかかる。
守護者は剣で受けた。金属と金属が激突する。火花が散る。轟音。
ゼノの腕が痺れる。だが、彼は離さない。力を込める。押し込もうとする。
だが、守護者の力は圧倒的だった。
守護者が剣を押し返す。ゼノの身体が浮く。吹き飛ばされる。
だが、ゼノは空中で体勢を立て直した。着地する。すぐに駆け出す。再び守護者に向かう。
守護者が剣を振るう。横薙ぎ。ゼノは屈む。剣が頭上を通過する。
ゼノは守護者の懐に入った。大剣を振り上げる。守護者の脇腹を狙う。鎧の隙間を。
刃が食い込んだ。
だが——浅い。
守護者が反応した。肘打ちを放つ。ゼノの顔を狙う。
ゼノは咄嗟に頭を引いた。肘打ちが頬を掠める。皮膚が裂ける。血が飛ぶ。
「……くっ!」
ゼノは後退した。距離を取る。治療薬を飲む。残り6本。
セリアは守護者の背後に回っていた。
剣を構える。身体が記憶している。最適な角度、最適なタイミング。
今だ。
セリアは跳んだ。守護者の背中に飛びつく。剣を首の関節部分に突き刺す。
だが——。
守護者は反応した。
信じられない速度で。背中に回った手がセリアの腕を掴んだ。
「……!」
セリアは目を見開いた。
守護者が力を込める。セリアの腕が軋む。痛い。骨が折れる。
そして——投げ飛ばされた。
セリアは床に叩きつけられた。背中が痛い。息ができない。視界が歪む。
「セリア!」
ゼノの声が聞こえた。
セリアは立ち上がろうとした。だが、身体が動かない。腕が痛い。折れたかもしれない。
守護者が近づいてくる。
剣を振り上げる。
止めを刺すつもりだ。
「……させるか!」
ゼノが割って込んだ。
守護者とセリアの間に立つ。大剣で守護者の剣を受ける。
金属と金属が激突する。
火花が散る。
だが、守護者の力は強大だった。
ゼノの足が床を滑る。押し込まれる。
「……くそ!」
ゼノは歯を食いしばった。全身の力を込める。だが、押し負ける。
守護者が蹴りを放った。
ゼノの腹に直撃する。
「がっ……!」
ゼノは吹き飛ばされた。床に叩きつけられる。転がる。壁に激突する。
ゼノは動かなくなった。
「……ゼノ!」
セリアは叫んだ。
治療薬を取り出す。だが、守護者が迫っている。
時間がない。
セリアは治療薬を飲んだ。残り7本。腕の痛みが和らぐ。骨は折れていなかった。打撲だけだ。
セリアは立ち上がった。
剣を構える。
守護者が剣を振り下ろした。
セリアは避けた。横に跳ぶ。剣が床を叩く。
セリアは反撃した。守護者の脇腹を狙う。剣を突き刺す。
刃が食い込んだ。だが、浅い。
守護者が剣を振るう。セリアは後退する。距離を取る。
——どうする。
ゼノは倒れている。一人で戦わなければならない。
だが、勝てるのか。
分からない。
だが、逃げられない。
ゼノを置いていけない。
セリアは深呼吸をした。
心を落ち着ける。恐怖を抑える。
そして——走った。
守護者に向かって。
全力で。




