第66話 銀の騎士
銀の鎧を纏った存在が、剣を振り下ろした。
速い——いや、速いという言葉では足りない。空気が裂ける音すら遅れて聞こえるほどの速度で、大剣がセリアの頭上に迫る。
セリアの身体が勝手に動いた。思考より先に、筋肉が反応する。横に跳ぶ。大剣が床を叩く瞬間、セリアの髪が風圧で揺れた。大理石の床が砕け、無数の破片が花火のように飛び散る。衝撃波が足元から伝わり、セリアは思わずバランスを崩しかけた。
——強い。
それが、最初の印象だった。ドラゴンとは違う種類の強さ。圧倒的な技量と、研ぎ澄まされた殺意。
「セリア!」
ゼノの声が響いた。彼はすでに動いていた。銀の騎士の側面に回り込み、大剣を横薙ぎに振るう。狙いは鎧の隙間——脇腹の関節部分。ゼノの剣技は正確だった。だが——。
騎士は反応した。
剣を持っていない左手が、まるで生き物のようにゼノの大剣を掴んだ。素手で。金属の刃を。
「……!」
ゼノの目が見開かれる。信じられないという表情。騎士の手から火花が散っている。だが、騎士は構わない。握力を込める。ゼノの大剣が軋む音が広間に響いた。
「くそ!」
ゼノは剣を引こうとした。だが、騎士の握力は尋常ではなかった。びくともしない。そして——騎士の膝が動いた。鋭い膝蹴り。ゼノの腹部を狙う。
ゼノは咄嗟に身体を捻った。膝蹴りが脇腹を掠める。それでも衝撃は凄まじかった。ゼノの身体が宙に浮く。五メートルは吹き飛ばされただろうか。床に叩きつけられ、さらに二度、三度と転がる。
「ゼノ!」
セリアは叫んだ。だが、騎士はセリアに向き直っていた。
赤い光が、兜の奥から漏れている。それがセリアを見ている。敵意というより——観察。セリアという存在を値踏みしているような、冷徹な視線。
セリアは剣を構え直した。空虚の剣。漆黒の刃が、広間の白い光を吸い込んでいる。
騎士が動いた。
今度は突進ではない。歩いてくる。ゆっくりと。だが、その一歩一歩が重い。床が軋む。まるで、何百年も生きてきた古木のような存在感。
セリアは深呼吸をした。
心臓が激しく打っている。恐怖ではない——いや、恐怖もある。だが、それ以上に、身体が興奮している。記憶はない。だが、身体は知っている。この感覚を。強敵との戦いを。
騎士が剣を振るった。
横薙ぎ。速い。だが、セリアの身体はもっと速かった。膝を折る。上体を倒す。剣が頭上を通過する。風圧が髪を巻き上げる。セリアの髪が舞う。銀色に近い髪が、一瞬だけ騎士の剣に触れそうになった。
今だ。
セリアは踏み込んだ。騎士の懐に入る。剣を突き上げる。狙いは脇腹——鎧の隙間。身体が知っている。ここが弱点だと。
刃が鎧の隙間に滑り込む。手応えがあった。だが——浅い。数センチしか入らなかった。
騎士の左手が動いた。
セリアの襟を掴む。力が込められる。セリアの身体が浮いた。
そして——投げられた。
視界が回転する。天井、床、騎士、光。すべてが混ざり合う。セリアは空中で身体を捻った。何度も、何度も訓練した動き。記憶にはない。だが、身体が覚えている。
着地。
足から。衝撃を膝で吸収する。それでも、骨が軋む音がした。痛い。だが、骨は折れていない。セリアはすぐに転がった。案の定、さっきまでセリアがいた場所に騎士の剣が突き刺さった。
「……硬い」
セリアは呟いた。
鎧が硬すぎる。剣が通らない。いや、通るには通る。だが、致命傷を与えられない。
「セリア!」
ゼノの声が響いた。彼は立ち上がっていた。治療薬の瓶を握りしめている。まだ飲んではいない——戦闘中に飲む余裕がなかったのだろう。だが、彼の目には闘志が宿っていた。
「鎧の隙間を狙え! 関節部分だ! 首、肩、膝、肘——そこなら貫ける!」
「……分かった!」
セリアは答えた。
だが、分かっていても、実行するのは別だ。騎士は速い。隙が少ない。関節部分を狙うには、もっと近づかなければならない。もっと危険な距離に。
騎士が再び動いた。
今度は跳んだ。高く。天井に向かって。あの巨体が、まるで重力を無視するかのように宙に舞う。そして——落下してきた。剣を振り下ろしながら。真上から。
セリアは走った。全力で。騎士の剣が床を叩く。轟音。衝撃波。床が陥没する。破片が飛び散る。セリアの背中に、小さな破片が当たった。鎧の上からでも痛い。
だが、セリアは止まらなかった。騎士の周りを円を描くように走る。距離を保ちながら。隙を探す。観察する。
騎士の動き。
攻撃は強力だが——確かに硬直がある。剣を振り下ろした後、わずかに体勢を立て直す時間が必要だ。0.5秒。いや、もっと短いかもしれない。だが、確かに存在する。
その瞬間を狙えば——。
ゼノが再び攻撃した。
騎士の背後から。大剣を振り上げる。狙いは首の関節部分。ゼノの剣が光を反射してきらめく。美しい軌道。だが——。
騎士は振り返った。
信じられない速度で。そして、剣でゼノの攻撃を受けた。金属と金属が激突する。火花が散る。ゼノの腕が痺れる。
騎士が蹴りを放った。
ゼノの胸を狙う。ゼノは大剣で防ごうとした。だが、間に合わない。蹴りが胸に直撃した。
「がっ……!」
ゼノは吹き飛ばされた。床を滑る。壁に向かって。だが、壁に激突する直前、ゼノは剣を床に突き刺して止まった。身体が止まる。ゼノは膝をつき、咳き込んだ。肋骨が折れたかもしれない。
「ゼノ!」
セリアは叫んだ。だが、ゼノは手を振った。
「大丈夫だ……! 続けろ!」
その声には、痛みが滲んでいた。だが、同時に決意もあった。
セリアは騎士に向き直った。
騎士はセリアを見ている。赤い光が、じっとセリアを見ている。
——何を考えているのか。
この騎士には、意思があるのか。それとも、ただの自動人形なのか。
分からない。
だが、戦うしかない。
セリアは深呼吸をした。心を落ち着ける。恐怖を抑える。いや、恐怖を受け入れる。恐怖は悪いものではない。恐怖があるから、慎重になれる。恐怖があるから、生き延びられる。
騎士が剣を構えた。
そして——突進してきた。
速い。床が揺れる。轟音。
セリアは待った。ぎりぎりまで待った。騎士の剣が迫る。振り下ろされる。
今だ。
セリアは横に跳んだ。剣が床を叩く。衝撃波。だが、セリアはすでに動いていた。
騎士の体勢が崩れる。わずかに前のめりになる。0.5秒の硬直。
その瞬間——。
セリアは踏み込んだ。全力で。騎士の首の関節部分を狙う。空虚の剣を突き刺す。全身の力を込めて。
刃が食い込んだ。
深く。
手応えがあった。何かを貫いた感触。金属ではない。もっと柔らかい何か。
騎士が動きを止めた。
剣が手から滑り落ちる。重い金属の音が広間に響く。
セリアは剣を捻った。傷を広げる。さらに深く押し込む。騎士の身体が震える。
そして——騎士が膝をついた。
ゆっくりと。まるで、長い旅を終えた旅人のように。
セリアは剣を引き抜いた。
黒い液体が刃を伝って滴る。血ではない。何か別の液体。粘性が高く、臭いもしない。
騎士が倒れた。
仰向けに。鎧が床を叩く音。それきり、動かなくなった。
静寂。
セリアの荒い呼吸だけが響いている。心臓が激しく打っている。全身が震えている。アドレナリンがまだ身体を駆け巡っている。
「……やったのか」
ゼノの声が聞こえた。彼は壁に寄りかかったまま、こちらを見ていた。
「……ああ」
セリアは答えた。
だが、膝が笑っていた。力が抜ける。セリアはその場に座り込んだ。
「……強かったな」
ゼノが呟いた。彼もゆっくりと歩いてくる。足を引きずっている。
「ああ……あんな敵、見たことがない」
「……」
セリアは治療薬を取り出した。瓶を開け、一気に飲む。温かい液体が喉を通る。傷が癒えていく感覚。打撲が和らぐ。痛みが引いていく。
だが、疲労は残る。
ゼノも治療薬を飲んだ。顔色が少しだけ戻る。だが、まだ苦しそうだ。
「……少し休むか」
「……ああ」
二人は床に座った。背中を合わせるようにして。互いの体温を感じながら。
しばらく、誰も何も言わなかった。
ただ、呼吸を整える。心拍を落ち着ける。
やがて、セリアは立ち上がった。騎士の死体に近づく。
「……何なんだ、これは」
セリアは呟いた。
銀の鎧。美しい鎧。だが、中身は——。
セリアは兜を外そうとした。だが、外れない。鎧と一体化しているようだ。継ぎ目が見当たらない。
「……中身がないのか?」
ゼノも近づいてきた。
「いや、何かはある。お前が刺した時、手応えがあっただろう?」
「……ああ」
「でも、人間じゃない。人間なら、もっと血が出る」
「……」
二人は騎士の死体を見つめた。
謎だらけだ。この騎士は何なのか。なぜここにいるのか。何を守っているのか。
答えは、ない。
「……行くぞ」
ゼノが促した。
「次の階層へ」
「……ああ」
だが、セリアの心には、不安があった。
もし、次の階層にも騎士がいたら。
もし、もっと強い騎士がいたら。
自分たちは、勝てるのだろうか。




