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第65話 残された者

医療室の扉を開けると、アシュは起きていた。


ベッドに座り、窓の外を眺めている。その背中は小さく見えた。一週間前よりも痩せたように思える。だが、姿勢はしっかりしている。呼吸も整っている。


「……アシュ」


セリアが声をかけると、アシュは振り返った。


「セリアさん」


アシュは微笑んだ。だが、その笑顔はどこか寂しげだった。目に力がない。


「お帰りなさい」


「……ただいま」


セリアは部屋に入った。アシュの隣に椅子を引き寄せ、座る。


「……身体は?」


「だいぶ良くなりました。もう、普通に歩けます」


「……そうか」


「治療師さんも、驚いてました。回復が早いって」


アシュは自分の手を見た。握ったり開いたりする。


「でも——」


言葉が途切れる。


「深層には、行けない。そう言われました」


「……」


「身体は回復しても、耐久力が足りないって。これ以上深層へ行けば、確実に死ぬって」


アシュの声は静かだった。諦めているような、それでいてどこか抗っているような。


「……受け入れたのか」


「……はい」


アシュは頷いた。


「受け入れるしかないですから」


「……」


「でも——」


アシュはベッドの脇に立てかけられた剣を見た。


「剣が、まだ囁くんです」


「……」


「『もっと深く』って。『諦めるな』って。夢の中でも、起きてる時も。ずっと」


アシュは拳を握った。震えている。


「どうすればいいんでしょう、セリアさん」


セリアは答えられなかった。


剣の囁きを止める方法を、セリアは知らない。自分の剣は囁かない。だから、助言もできない。


「……無視しろ」


それしか言えなかった。


「剣の声を無視して、生きろ」


「……はい」


アシュは小さく答えた。


だが、その声には力がなかった。


しばらく沈黙が続いた。


窓の外から、街の音が聞こえる。馬車の音、人々の声、鳥の鳴き声。日常の音。平和な音。


「セリアさんは、どこまで行ったんですか?」


アシュが問うた。


「……195階層」


「……!」


アシュは目を見開いた。


「195階層……もう、そこまで」


「……ああ」


「すごいですね」


アシュは窓の外を見た。


「僕は、109階層で終わりなのに」


「……お前は頑張った」


「でも、足りなかった」


アシュの声には、自嘲が混じっていた。


「身体が、ついていかなかった」


「……」


「セリアさんは、これからも行くんですよね。もっと深く」


「……ああ」


「一人で?」


「……いや」


セリアは首を横に振った。


「ゼノと一緒だ」


「……そうですか」


アシュは微笑んだ。安堵したような笑顔。


「良かった。一人じゃなくて」


「……」


「セリアさん、約束、覚えてますよね」


「……ああ」


「生きて帰ってきてください」


「……約束する」


アシュは頷いた。そして、再び窓の外を見た。


「僕、ここを出たら、故郷に帰ります」


「……故郷?」


「はい。小さな村です。孤児院があって、僕はそこで育ちました」


アシュの声は穏やかだった。


「もう、深層には行けない。なら、故郷で普通に暮らします」


「……そうか」


「剣使いとしては終わりですけど、他にもできることはあるはずです」


アシュは自分の手を見た。


「畑を耕すとか、家を建てるとか」


「……」


「それでも、剣は手放せませんけどね」


アシュは苦笑した。


「剣なき者は人にあらず、ですから」


「……ああ」


セリアは立ち上がった。


「……休め」


「はい」


「……また来る」


「はい。ありがとうございます」


セリアは部屋を出た。


扉を閉める。廊下に一人。


「……」


セリアは壁に寄りかかった。


アシュは強い。剣の囁きと戦いながら、それでも前を向こうとしている。


だが、それがいつまで続くのか。


剣の囁きは止まらない。日に日に強くなる。いずれ、アシュは耐えられなくなる。


そして——。


「……」


セリアは拳を握った。


無力だ。何もできない。アシュを救うことも、剣の囁きを止めることも。


ただ、見守ることしかできない。


-----


医療室を出ると、ミラが待っていた。


「セリア」


彼女は笑顔で手を振った。


「お帰りなさい」


「……ただいま」


「195階層まで行ったって聞いたわ。すごいじゃない」


「……ああ」


ミラはセリアの顔を見た。その表情が曇る。


「……疲れてる?」


「……少し」


「そうよね。夕食、一緒にどう?」


「……ああ」


二人はアビスの食堂へ向かった。


石造りの広い空間。テーブルと椅子が並んでいる。冒険者たちが食事をしている。笑い声、話し声、食器の音。


二人は隅のテーブルに座った。ミラが料理を取ってくる。パン、スープ、肉料理。


「食べて」


「……ああ」


セリアはスープを飲んだ。温かい。身体に染み渡る。


ミラは何も言わずに見守っていた。セリアが食べ終わるまで。


「……ごちそうさま」


「どういたしまして」


ミラは微笑んだ。


「セリア、アシュのこと、気にしてるの?」


「……」


セリアは答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。


「彼、もう深層には行けないのよね」


「……ああ」


「辛いわよね。剣使いとして終わるのは」


ミラは自分のコップを見た。水が入っている。その水面が、かすかに揺れている。


「私の兄も、最後はそうだった」


「……」


「150階層で限界を迎えて。でも、剣が囁き続けた。『もっと深く』って」


ミラの声が震えた。


「兄は、耐えられなかった。ある日、一人で深層へ向かった。仲間も止めたのに。私も止めたのに」


「……」


「そして、戻ってこなかった」


ミラは目を閉じた。涙を堪えているようだった。


「アシュも、そうなるかもしれない」


「……」


「セリア、もし——」


ミラはセリアを見た。


「もし、アシュが深層へ向かおうとしたら、止めてあげて」


「……」


「お願い」


セリアは頷いた。


「……約束する」


「ありがとう」


ミラは微笑んだ。だが、その笑顔は悲しげだった。


-----


その夜、セリアは自室で剣を磨いていた。


空虚の剣。漆黒の刃。何も宿っていない剣。


布で拭く。刃を確認する。欠けはない。錆もない。完璧な状態。


「……」


セリアは剣に問いかけた。声には出さない。心の中で。


『なぜ、お前は囁かないのか』


答えはない。


『なぜ、お前は沈黙しているのか』


答えはない。


『他の剣は、皆囁く。持ち主を深層へ誘う。だが、お前は違う』


答えはない。


セリアは剣を鞘に戻した。


窓の外を見る。夜空。星が瞬いている。月が浮かんでいる。


明日、また深層へ向かう。ゼノと共に。195階層から先へ。


そこには何があるのか。


森、湿地、廃墟、門。


階層が変わった186階層以降。未知の領域。ゼノの知識も役に立たない場所。


「……」


セリアはベッドに横になった。


目を閉じる。


だが、眠れない。


脳裏にアシュの顔が浮かぶ。窓の外を眺める背中。寂しげな笑顔。


『剣が、まだ囁くんです』


アシュの声が、耳に残っている。


『どうすればいいんでしょう』


答えは、ない。


セリアは拳を握った。


無力だ。


何もできない。


ただ、進むことしか。


-----


翌朝。


アビスの地下ホールに、セリアとゼノは立っていた。


「準備はいいか?」


ゼノが問う。


「……ああ」


セリアは頷いた。装備を確認する。空虚の剣、治療薬20本、水筒、携行食。


ゼノも準備を整えていた。大剣、治療薬、補給品。


「195階層へ」


職員に告げる。職員は頷き、装置を操作した。


光が二人を包み込む。


視界が白く染まる。


次の瞬間、二人は195階層に立っていた。


-----


195階層。


巨大な門の前。転移装置のすぐそばに、二人は現れた。


「……行くぞ」


ゼノが言った。


「……ああ」


二人は門に近づいた。


高さ30メートル。幅20メートル。石造りの門。表面には古代文字が刻まれている。何が書かれているのか、読めない。


セリアは門に手をかけた。


冷たい。重い。だが、押せば動きそうだ。


「……開けるぞ」


「……ああ」


セリアは門を押した。


ゆっくりと、重い音を立てて、門が開いていく。


その先には——。


光があった。


眩しい光。白い光。何も見えない。


だが、二人は進んだ。


光の中へ。


-----


光が収まった。


そこは——巨大な広間だった。


天井は高い。いや、天井が見えない。ただ、無限に続く空間。壁も遠い。床は白い大理石。磨かれた表面が、光を反射している。


そして、広間の中央に——何かが立っていた。


人の形をした何か。


だが、人ではない。


身長3メートル。全身が銀色の鎧で覆われている。顔は見えない。ただ、兜の奥に赤い光が見える。手には剣を持っている。巨大な剣。片刃の大剣。


「……何だ、あれは」


ゼノが呟いた。


「見たことがない」


「……」


セリアは剣を抜いた。


それは動いた。


ゆっくりと、剣を構える。


そして——。


襲いかかってきた。

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