第64話 変化の兆し
白い空間を抜けると、階段があった。
普通の階段。石造りの、ありふれた階段。だが、その普通さが逆に不気味だった。ドラゴンの炎と溶岩の海、そして白い空間と錆びた剣。それらを経た後に現れた、あまりにも平凡な階段。
「……下りるぞ」
ゼノが呟いた。
「……ああ」
二人は階段を下りた。足音が反響する。壁は石。天井も石。照明は青白い光を放つ苔のようなもの。それが壁一面を覆っている。
階段は長かった。どれくらい下りたのだろうか。時間の感覚が曖昧になる。ただ、足を動かし続ける。一段、また一段。
やがて、階段の終わりが見えた。
187階層。
扉を開ける。
その先は——森だった。
「……森?」
セリアは呟いた。
地下に、森がある。天井は見えない。いや、天井の代わりに空があった。灰色の空。雲が流れている。風が吹いている。木々が揺れる。葉の擦れる音。鳥の鳴き声。
「ダンジョンの中に、森だと?」
ゼノが困惑した声を出した。
「ありえない。こんなの、聞いたことがない」
「……でも、ある」
セリアは一歩踏み出した。地面は土だ。草が生えている。木の根が地面を這っている。本物の森。
「階層が変わったからか」
ゼノは周囲を警戒しながら進んだ。
「2年前は、こんなものはなかった」
二人は森の中を進んだ。
木々の間を縫うように。足元には落ち葉が積もっている。湿った匂い。土の匂い。生命の匂い。
だが、静かすぎる。
鳥の鳴き声は聞こえる。だが、姿は見えない。風は吹いている。だが、不自然だ。まるで、決められた通りに吹いているかのような。
「……何かいる」
セリアは剣を抜いた。
「どこだ?」
「……分からない」
だが、身体が警告している。危険が近い。どこかに、何かが潜んでいる。
ゼノも大剣を構えた。
二人は背中合わせになる。周囲を警戒する。木々の影。茂みの中。上空。
やがて、それは現れた。
木の陰から。
人の形をしていた。いや、人ではない。人に似た何か。身長は2メートル。全身が木の皮で覆われている。顔には目も鼻も口もない。ただ、滑らかな木の表面。腕は枝のように長く、指は鋭い。
「トレント?」
ゼノが呟いた。
「いや、違う。これは——」
それは動いた。
速い。地面を蹴り、跳ぶ。セリアに向かって。枝の腕を振るう。
セリアは剣で受けた。金属と木が激突する。火花が散る。
硬い。
セリアは押し返される。足が地面を滑る。それはさらに攻撃してくる。連続で。左、右、上、下。
セリアは避ける。受ける。反撃する。空虚の剣が枝を斬る。だが、すぐに再生する。切断面から新しい枝が伸びる。
「セリア!」
ゼノが叫んだ。
「もう一体いる!」
別の方向から、もう一体の木人が現れた。ゼノに向かって。ゼノは大剣を振るう。木人の胴を両断する。だが、木人は倒れない。上半身と下半身が、それぞれ独立して動く。
「くそ!」
ゼノは上半身を蹴り飛ばす。下半身を斬る。だが、斬られた部分から新しい枝が伸びる。再生していく。
「再生能力があるのか!」
「……どうする!」
「核を破壊しろ! 胸部に核がある!」
セリアは木人の胸を狙った。剣を突き刺す。だが、木が邪魔をする。硬い。深く刺さらない。
木人の腕が襲う。セリアの肩を叩く。セリアは吹き飛ばされた。木に叩きつけられる。背中が痛い。
セリアは立ち上がる。治療薬を飲む暇はない。木人が再び襲ってくる。
「……」
セリアは深呼吸をした。
身体を任せる。記憶を任せる。最適な動き。最適な攻撃。
木人が腕を振るう。
セリアは踏み込んだ。腕の下をくぐる。木人の懐に入る。剣を構える。
そして——突き上げた。
空虚の剣が木人の胸を貫く。深く、深く。何かが砕ける感触。硬い核。それを破壊する。
木人が動きを止めた。
全身から力が抜ける。枝がしおれる。そして——崩れ落ちた。
「……やった」
セリアは剣を引き抜いた。
ゼノも同様に、木人の核を破壊していた。大剣で胸部を叩き潰す。木人が崩れ落ちる。
「……ふう」
ゼノは息を吐いた。
「厄介な敵だな」
「……ああ」
セリアは周囲を見回した。他にはいない。今のところは。
「先へ進むぞ」
「……ああ」
二人は森を進んだ。
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188階層も森だった。
だが、木々はさらに密集している。光が届かない。薄暗い。湿気が高い。苔が木の幹を覆っている。
そして、モンスターも増えていた。
木人だけではない。巨大な蜘蛛。蔦のような触手を持つ植物。毒を吐く花。
戦闘は絶え間なく続いた。
セリアとゼノは進み、戦い、進む。治療薬を消費する。疲労が蓄積する。だが、止まれない。
189階層。
森の中に、廃墟があった。
石造りの建物。崩れかけている。窓はない。扉は朽ちている。だが、確かに建物だ。人工物だ。
「……これは」
ゼノが呟いた。
「こんなもの、ダンジョンにあるはずがない」
「……」
セリアは建物に近づいた。壁に手を触れる。冷たい。石だ。古い。何百年、いや何千年も前のものかもしれない。
「中に入るのか?」
「……ああ」
セリアは扉を押した。軋む音を立てて、扉が開く。
中は暗い。
だが、奥から微かな光が漏れている。青白い光。
二人は中に入った。
廊下。長い廊下。壁には文字が刻まれている。古代文字。読めない。だが、何かが書かれている。記録? 警告? それとも——。
光の元に辿り着いた。
それは、部屋だった。
広い部屋。中央に、何かが置かれている。
台座。
その上に——剣があった。
また剣だ。だが、186階層の錆びた剣とは違う。これは美しい。銀色の刃。宝石が埋め込まれた柄。光を放っている。
「……これは」
ゼノが近づいた。
「見たことがない剣だ」
「……」
セリアも近づく。剣を見る。
美しい。だが——。
「……触るな」
セリアは言った。
「……なぜだ?」
「……分からない」
セリアは正直に答えた。
「だが、身体が拒否している」
「……そうか」
ゼノは手を引っ込めた。
「お前の勘を信じる」
二人は部屋を出た。廊下を戻る。建物から出る。
森に戻る。
「……何だったんだ、あれは」
ゼノが呟いた。
「分からない。だが——」
ゼノは後ろを振り返った。建物は、まだそこにある。
「不吉なものを感じる」
「……ああ」
セリアも同じことを感じていた。あの剣。あの部屋。あの建物。すべてが、何か間違っている。
「行くぞ」
「……ああ」
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190階層。
森が終わった。
代わりに、湿地帯が広がっていた。泥濘。水たまり。沼。腐った植物の匂い。毒々しい色の花。
「……最悪だな」
ゼノが呟いた。
「足を取られる」
「……ああ」
二人は慎重に進んだ。足が沼に沈む。引き抜くのに力がいる。疲れる。
そして、モンスターも厄介だった。
沼から這い出る泥の塊。形を変える。攻撃を吸収する。物理攻撃が効かない。
「くそ!」
ゼノが大剣を振るう。だが、泥の塊は形を変えて避ける。そして、触手のように伸びてゼノを絡め取る。
「……!」
ゼノは引きずり込まれそうになる。セリアが助ける。剣で触手を斬る。ゼノを引き上げる。
「……すまない」
「……いい」
二人は泥の塊から距離を取る。
「どうやって倒す?」
「……分からない」
セリアは考えた。物理攻撃が効かない。ならば——。
「火だ」
「……何?」
「火で燃やせ」
「火なんてどこに——」
ゼノは周囲を見回した。そして、気づいた。
「治療薬の瓶。あれは可燃性だ」
「……やってみろ」
ゼノは治療薬の瓶を取り出した。中身を泥の塊に投げつける。そして、火打ち石で火花を散らす。
火がついた。
泥の塊が燃える。悲鳴のような音を立てる。形を失う。やがて、動かなくなった。
「……効いた」
「……次もこれで行くぞ」
「ああ」
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191階層、192階層、193階層、194階層。
湿地帯は続いた。泥の塊、毒を持つ蛇、巨大な蛙。どれも厄介だった。
だが、二人は進んだ。治療薬を消費しながら。疲労を蓄積しながら。
195階層。
ついに、湿地帯が終わった。
代わりに、広大な空間が広がっていた。天井が高い。壁が遠い。床は平らな岩。
そして、その中央に——。
「……何だ、あれは」
ゼノが呟いた。
巨大な門があった。
高さ30メートル。幅20メートル。石造りの門。表面には古代文字が刻まれている。そして、門の前には——。
「転移装置だ」
セリアが言った。
「……ああ」
白い光を放つ円形の台座。ここから地上へ瞬時に帰還できる。
「……休むか?」
ゼノが問う。
「……ああ」
セリアは頷いた。疲れていた。治療薬の残りも少ない。
「地上へ戻ろう」
「……ああ」
二人は転移装置に乗った。
光が二人を包む。
視界が白く染まる。
そして——地上へ。
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アビスの地下ホール。
二人は転移装置から降りた。職員が驚いた顔で二人を見た。
「195階層から……ですか?」
「……ああ」
ゼノが答えた。
「報告しておいてくれ。186階層以降、構造が変わっている」
「……!」
職員は慌てて記録を取り始めた。
「詳細を教えてください」
「後で報告書を出す」
ゼノは手を振った。
「今は休ませてくれ」
「はい、承知しました」
二人は地下ホールを出た。
地上の光が眩しい。新鮮な空気。街の音。
「……戻ってきたな」
ゼノが呟いた。
「……ああ」
セリアは空を見上げた。青い空。白い雲。
生きている。
まだ、生きている。
「医療室で治療を受けるか?」
「……ああ」
「じゃあ、また明日」
「……ああ」
ゼノは手を振って去っていった。
セリアは一人、医療室へ向かった。
アシュは、どうしているだろうか。
まだ、眠っているだろうか。
それとも——。




