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第63話 古代種の牙


扉の向こうは、炎の世界だった。


熱気が顔を叩く。セリアは思わず目を細めた。広大な空間——いや、空間という言葉では足りない。そこは溶岩の海だった。床の大部分が赤く煮えたぎる溶岩で覆われ、わずかに残る岩の足場が、点々と浮島のように存在している。天井は見えない。ただ、赤い光が満ちている。硫黄の匂いが鼻を突く。


「……これは」


セリアは呟いた。


「2年前と同じだ」


ゼノが低い声で答えた。彼の額には、すでに汗が浮かんでいる。


「あの時も、こうだった。まるで地獄のようだと思った」


二人は慎重に足場を進んだ。岩は熱い。靴底を通して、その熱が伝わってくる。一歩間違えれば、溶岩に落ちる。即死だ。


セリアは周囲を見回した。


空間の奥に、何かが動いている。巨大な影。それは岩の上で丸くなっていた。眠っているのか。いや、違う。待っているのだ。侵入者を。


「……いるな」


ゼノが囁いた。


「ああ。あれだ」


影が動いた。


ゆっくりと、まるで時間をかけて目覚めるように。首を持ち上げる。翼を広げる。尾を揺らす。そして——咆哮した。


空気が震えた。


鼓膜が痛い。溶岩が波打つ。セリアは思わず耳を押さえた。


それは、ドラゴンだった。


体長20メートル。漆黒の鱗に覆われた巨体。四本の脚、二枚の翼、長い尾。頭部には三本の角。瞳は赤く、まるで溶岩そのものが宿っているかのようだった。口からは煙が漏れている。牙が光る。


「ブラックドラゴン」


ゼノが息を呑んだ。


「古代種だ」


ドラゴンはセリアとゼノを見た。その視線には、明確な敵意があった。いや、敵意というより——興味。侵入者という獲物への、捕食者の興味。


「……2年前のやつか」


セリアは剣を抜いた。


「ああ。間違いない。あの傷——」


ゼノはドラゴンの左前脚を指差した。そこには、深い傷跡がある。古い傷。だが、完全には癒えていない。


「俺たちがつけた傷だ。あの時は5人がかりで、何とか逃げ延びた」


ドラゴンが動いた。


翼を広げ、飛び上がる。巨体が宙を舞う。溶岩の海の上を、まるで泳ぐように。そして——急降下してきた。


「避けろ!」


ゼノが叫んだ。


セリアは横に跳んだ。ドラゴンの爪が、さっきまでセリアがいた岩を砕く。破片が飛び散る。セリアは別の足場に着地する。熱い。靴底が焦げる匂いがする。


ドラゴンが再び飛び上がった。口を開く。喉の奥が赤く光る。


「火炎ブレスだ!」


ゼノが警告した。


ドラゴンが火を吐いた。


炎の奔流。赤と黄色の渦。空気が燃える。セリアは岩の陰に隠れた。炎が岩を叩く。岩が溶ける。熱波がセリアを包む。息ができない。肺が焼ける。


だが、炎は止まった。


セリアは岩の陰から出た。髪が焦げている。肌がひりひりする。だが、致命傷は避けた。


ゼノが反撃した。


岩の上から跳躍し、ドラゴンの背中に飛び移る。大剣を振り下ろす。鱗を叩く。火花が散る。だが、鱗は硬い。傷一つつかない。


ドラゴンが暴れた。


背中を揺らし、ゼノを振り落とそうとする。ゼノは必死にしがみつく。だが、ドラゴンの尾が襲う。巨大な鞭のように。ゼノの脇腹を叩く。


「ぐあっ!」


ゼノが吹き飛ばされた。岩に叩きつけられる。ゼノは呻き、立ち上がろうとする。だが、身体が動かない。肋骨が折れたか。


ドラゴンがゼノに向かった。


口を開く。牙が光る。噛み砕くつもりだ。


「……させない」


セリアは走った。


足場を跳び、跳び、跳ぶ。ドラゴンに近づく。剣を構える。身体が勝手に動く。最適な角度、最適なタイミング、最適な軌道。


セリアは跳んだ。


ドラゴンの首に飛びつく。剣を突き立てる。鱗の隙間を狙う。空虚の剣が、ドラゴンの首に食い込んだ。


ドラゴンが咆哮した。


痛みの叫び。怒りの叫び。ドラゴンは首を振る。セリアを振り落とそうとする。だが、セリアは離さない。剣を握りしめたまま、さらに深く押し込む。


血が噴き出した。


黒い血。熱い血。セリアの顔を濡らす。だが、セリアは構わない。さらに剣を捻る。傷を広げる。


ドラゴンが翼を広げた。


飛び上がる。セリアを引きずったまま。天井に向かって。高度を上げる。溶岩の海が遠ざかる。


そして——ドラゴンは急降下した。


セリアを岩に叩きつけるつもりだ。このまま落ちれば、圧死する。


セリアは剣を引き抜いた。


ドラゴンの首から離れる。空中に投げ出される。落下する。風が顔を叩く。下には岩。硬い岩。


セリアは身体を捻った。


足場を探す。着地点を探す。身体が勝手に動く。最適な角度。最適な姿勢。


セリアは岩に着地した。


膝で衝撃を吸収する。転がる。立ち上がる。骨は折れていない。打撲だけだ。


ドラゴンが再び火を吐いた。


セリアは走った。炎が背後を追う。岩が溶ける。熱波が背中を叩く。だが、セリアは止まらない。走り続ける。そして——跳んだ。


別の足場へ。炎は届かない。


セリアは治療薬を取り出した。瓶を開け、一気に飲む。傷が癒える。火傷が引いていく。痛みが和らぐ。


ゼノも立ち上がっていた。


治療薬を飲んだのだろう。顔色が戻っている。大剣を構え直す。


「……セリア!」


「……何だ!」


「あいつの弱点、覚えてるか!」


「……分からない!」


「喉だ! 喉の内側! 火を吐く時、一瞬だけ無防備になる!」


「……!」


セリアは理解した。


ドラゴンが再び火を吐こうとしている。口を開く。喉の奥が赤く光る。


今だ。


セリアは走った。全速力で。ドラゴンに向かって。跳ぶ。剣を構える。


ドラゴンが火を吐く——その瞬間。


セリアは剣を投げた。


空虚の剣が回転しながら飛ぶ。ドラゴンの口の中へ。開いた喉へ。


剣がドラゴンの喉の奥に突き刺さった。


ドラゴンの火が止まった。


いや、止まったのではない。逆流したのだ。喉の内側で爆発する。ドラゴンが悲鳴を上げた。首を振る。口から煙が漏れる。血が溢れる。


ドラゴンが墜落した。


岩に叩きつけられる。翼が折れる。尾が痙攣する。


セリアは走った。ドラゴンに近づく。ドラゴンの口から剣を引き抜く。そして——首を斬った。


一閃。


ドラゴンの首が落ちた。


巨体が、動かなくなった。


静寂。


溶岩の音だけが響いている。


セリアは膝をついた。息が上がっている。全身が痛い。治療薬を飲んでも、疲労は消えない。


「……やったのか」


ゼノが駆け寄ってきた。


「……ああ」


「信じられん」


ゼノはドラゴンの死体を見た。


「2年前、俺たち5人がかりでも倒せなかった。お前、たった二人で——」


「……お前がいたからだ」


セリアは立ち上がった。


「弱点を教えてくれなければ、倒せなかった」


「……そうか」


ゼノは笑った。疲れた笑顔。だが、満足そうな笑顔。


「次へ行くか?」


「……少し休む」


「だな」


二人は岩の上に座った。治療薬を飲み、水を飲み、携行食を食べる。身体を休める。


ドラゴンの死体から、何かが光っていた。


「……あれは」


セリアは近づいた。


ドラゴンの胸部に、何かが埋まっている。赤い結晶。拳大の宝石。それは脈動していた。まるで心臓のように。


「ドラゴンハート」


ゼノが呟いた。


「古代種だけが持つ。高値で売れる」


「……取るのか」


「いや」


ゼノは首を横に振った。


「取ると、ドラゴンの魂が呪う。そう言われている」


「……そうか」


セリアはドラゴンハートを見た。赤い光が、セリアの顔を照らす。


美しい。


だが、どこか禍々しい。


「行こう」


ゼノが立ち上がった。


「次の階層へ」


「……ああ」


二人は扉に向かった。


185階層の奥にある、次への扉。それを開ける。


186階層へ。


-----


186階層は、静かだった。


ドラゴンの部屋とは対照的に、ここには何もない。ただ、白い空間が広がっている。床も壁も天井も、すべて白。光源は見えないのに、明るい。


「……何だ、これは」


ゼノが呟いた。その声には、明確な困惑があった。


「2年前と、違う」


「……何?」


「2年前、ここは違った。暗い洞窟だった。床は岩で、壁には苔が生えていた」


ゼノは周囲を見回した。


「階層が、変わっている」


「……階層が変わる?」


「ああ」


ゼノは頷いた。


「稀に起こる。ダンジョンの構造が変化する。周期は不定期だ。数年に一度、あるいは数十年に一度」


「……」


「今回、変わったんだ。186階層以降が」


ゼノの声には、緊張があった。


「俺の知識が、役に立たない」


「……」


セリアは周囲を見回した。身体も、何も感じていない。記憶にない場所。未知の領域。


二人は慎重に進んだ。


足音が反響する。他には何も聞こえない。モンスターの気配もない。


やがて、空間の中心に、何かがあるのが見えた。


台座。


白い台座の上に、何かが置かれている。


近づく。


それは——剣だった。


錆びた剣。刃は欠け、柄はボロボロ。だが、確かに剣だ。


「……これは」


ゼノが息を呑んだ。


「見たことがない」


「……」


セリアは剣を見た。


錆びている。古い。だが——。


剣が、微かに光った。


「……触るな」


ゼノが止めた。


「何が起こるか分からない。階層が変わった以上、すべてが未知だ」


「……ああ」


セリアは手を引っ込めた。


だが、剣は光り続けている。まるで、セリアを呼んでいるかのように。


「行くぞ」


ゼノが促した。


「ここは、不気味すぎる」


「……ああ」


二人は台座を離れた。


だが、セリアは振り返った。


剣は、まだ光っていた。



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