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第62話 再起の刻

医療室の窓から差し込む午後の光が、白い床に長い影を落としていた。


セリアは椅子に座り、外を眺めていた。アシュがこの部屋に運び込まれてから、一週間が経過していた。彼の容態は安定している。呼吸も整い、顔色も戻った。だが、治療師の診断は変わらない。「深層へ行けば死ぬ」と。


アシュは眠っている。


剣は、ベッドの脇に立てかけられたまま。微かな振動も、今は感じられない。静かだ。だが、それは嵐の前の静けさのようにも思える。


「……」


セリアは立ち上がった。


これ以上ここにいても、何も変わらない。アシュには、時間が必要だ。身体を休め、回復を待つ時間。セリアにできることは、もうない。


扉をノックする音が響いた。


「……入れ」


扉が開き、ゼノが姿を現した。


彼の顔色は良くなっていた。包帯も減っている。胸部の傷はまだ完全には癒えていないだろうが、動きに支障はなさそうだ。彼は部屋に入り、アシュを一瞥してから、セリアを見た。


「……よう」


「……ああ」


「アシュの様子は?」


「……安定している」


「そうか」


ゼノは窓の外を見た。しばらく沈黙が続く。


「……セリア」


「……何だ」


「俺、もう動ける」


セリアは彼を見た。ゼノの表情は真剣だった。


「治療師の許可も出た。戦闘も問題ない」


「……本当か」


「ああ」


ゼノは自分の胸に手を当てた。


「まだ完璧じゃないが、深層で戦える程度には回復した」


「……」


「お前、一人で行くつもりだったろ?」


セリアは答えなかった。だが、その沈黙が答えだった。


ゼノは小さく笑った。


「だと思った。だから、急いで回復した」


「……無理をしたのか」


「少しな」


ゼノは窓の外を見た。


「でも、お前を一人で行かせるわけにはいかない」


「……」


「俺も、まだ先へ行きたい。200階層で止まるつもりはない」


ゼノの声には、静かな決意があった。


「一緒に行こう。セリア」


「……」


セリアは彼を見た。ゼノの瞳には、迷いがなかった。


「……分かった」


「よし」


ゼノは笑った。


「いつ出発する?」


「……明日」


「了解だ」


ゼノは扉に向かった。振り返り、最後に言った。


「165階層から、だったな」


「……ああ」


セリアはゼノに合わせる。彼の記憶がある階層から。175階層までの記憶はセリアにもあるが、ゼノの記憶も同様にある。だから、165階層から進む。


「じゃあ、明日の朝。転移装置の前で」


「……ああ」


扉が閉まる。


セリアは一人になった。アシュを見る。彼は眠り続けている。穏やかな寝顔。


「……すまない」


小さく呟いた。


アシュを置いていく。それは正しい選択だ。彼の身体は限界だ。これ以上深層へ連れて行けば、確実に死ぬ。


だが、罪悪感は消えない。


セリアは部屋を出た。


-----


翌朝。


アビスの転移装置がある地下ホールに、セリアとゼノは立っていた。天井の高い空間。石造りの壁に、青白い光を放つ装置——魔法ではない。この世界に魔法はない。ただ、古代の技術によって作られた転移装置。その仕組みは誰も理解していない。


「準備はいいか?」


ゼノが問う。


「……ああ」


セリアは頷いた。装備を確認する。空虚の剣、治療薬、水筒、携行食。すべて揃っている。


ゼノも同様に準備を整えていた。大剣を背負い、革鎧を身につけている。


「165階層へ」


職員に告げる。職員は頷き、装置を操作した。


光が二人を包み込む。


視界が白く染まる。


次の瞬間、二人は165階層に立っていた。


-----


165階層は、広大な洞窟だった。


天井は高く、鍾乳石が無数に垂れ下がっている。床は濡れており、水滴が落ちる音が静かに響いている。青白い光が岩壁から発せられ、空間全体を照らしていた。


「……2年ぶりだな」


ゼノが呟いた。


「あの時は、ここで丸一日戦った」


「……そうか」


セリアは周囲を見回した。身体が、この場所を覚えている。どこに罠があるか。どこにモンスターが潜んでいるか。記憶はない。だが、身体が知っている。


「行くぞ」


「……ああ」


二人は洞窟を進んだ。


足音が水に反響する。静かな空間。だが、その静けさは不気味だった。モンスターの気配がない。いや、隠れているのか。


やがて、前方に影が動いた。


セリアは剣を抜く。ゼノも大剣を構える。


影から姿を現したのは、巨大な蜘蛛だった。体長3メートル。八本の脚、八つの目。口からは粘液が滴っている。


「ヴェノムスパイダー。Bランク」


ゼノが呟いた。


「毒を持ってる。噛まれるな」


「……分かった」


蜘蛛が跳んだ。


速い。セリアは横に転がる。蜘蛛の脚が、さっきまでセリアがいた場所を叩いた。石が砕ける。


セリアは立ち上がり、剣を構えた。身体が勝手に動く。最適な距離、最適な角度、最適なタイミング。


蜘蛛が再び跳ぶ。


セリアは踏み込んだ。剣を振るう。空虚の剣が蜘蛛の脚を斬り裂く。黒い血が飛び散る。蜘蛛が悲鳴を上げた。


ゼノが背後から大剣を振り下ろす。蜘蛛の頭部を叩き潰す。蜘蛛は痙攣し、やがて動かなくなった。


「……ふう」


ゼノが息を吐いた。


「やっぱり、深層は違うな」


「……ああ」


セリアは剣を鞘に戻した。


二人は先へ進んだ。


-----


166階層。


狭い通路が続く。壁は岩ではなく、金属のような質感だった。古代の遺跡を思わせる。床には複雑な模様が刻まれている。


「……罠がある」


セリアが呟いた。


「ああ、ここは罠だらけだ」


ゼノが頷いた。


「2年前、仲間の一人がここで罠にかかった。運よく助かったが」


セリアは床の一部を指差した。


「……そこ」


「よく分かるな」


ゼノは慎重に罠を避けた。


「お前の身体、本当に覚えてるんだな」


「……ああ」


二人は罠を避けながら進んだ。通路を抜けると、広間に出た。


そこには、3体のミノタウロスが待ち構えていた。


-----


167階層、168階層、169階層。


二人は順調に進んだ。モンスターとの戦闘は厳しかったが、二人の連携は息が合っていた。ゼノの大剣が敵の注意を引き、セリアが急所を突く。シンプルだが、効果的だった。


170階層。


広大な空間に出た。天井が見えない。壁もない。ただ、無限に続く暗闇。足元だけが、かすかに光っている。


「……ここは」


ゼノが呟いた。


「覚えてる。ここで何人も死んだ」


「……何がいる」


「フライングモンスターだ。ワイバーン、ハーピー、グリフォン。空から襲ってくる」


「……」


セリアは空を見上げた。暗闇の中に、何かが動いている。影。複数の影。


「来るぞ!」


ゼノが叫んだ。


ワイバーンが急降下してきた。爪を伸ばし、セリアを狙う。セリアは横に跳んだ。ワイバーンの爪が地面を削る。


ゼノが大剣を振るう。ワイバーンの翼を斬り裂く。ワイバーンが悲鳴を上げ、墜落した。


だが、次が来る。ハーピーが三体。甲高い声で叫びながら、爪と嘴で攻撃してくる。


セリアは剣を振るう。一体の首を斬り飛ばす。二体目はゼノが叩き落とす。三体目はセリアが胴を貫く。


息つく暇もない。


グリフォンが襲来する。ライオンの身体、鷲の翼と頭。巨大で、速い。


セリアは転がる。グリフォンの爪が、さっきまでセリアがいた場所を抉る。ゼノが大剣を振り上げる。グリフォンの翼を叩く。グリフォンが態勢を崩す。


セリアは跳んだ。グリフォンの背に飛び乗る。剣を首に突き刺す。グリフォンが暴れる。だが、セリアは離さない。さらに深く剣を突き立てる。


グリフォンが墜落した。


セリアは地面に着地する。息が上がっている。


「……大丈夫か」


ゼノが駆け寄る。


「……ああ」


「次の階層へ行くぞ」


「……ああ」


-----


175階層。


広間に転移装置があった。白い光を放つ円形の台座。ここから地上へ瞬時に帰還できる。


「……ここで一度休むか?」


ゼノが問う。


「……いや」


セリアは治療薬を取り出した。残りを確認する。まだ余裕がある。


「……行ける」


「よし」


二人は先へ進んだ。


-----


176階層、177階層、178階層、179階層、180階層。


戦闘は激しさを増していた。Bランクモンスターが当たり前に出現する。ケルベロス、ヒュドラ、ゴーレム。どれも強敵だった。


だが、二人は進んだ。


ゼノの剣が知識を与える。「この敵は炎を使う」「この敵は再生能力がある」「この敵は弱点が背中にある」。


セリアの身体が記憶している。最適な動き。最適な攻撃。最適な回避。


181階層、182階層、183階層、184階層。


そして——。


185階層に到達した。


広間。そこには、巨大な扉があった。高さ15メートル。古代文字が刻まれている。扉の前には、何もいない。静寂だけがある。


「……ここは」


ゼノが呟いた。


「2年前、ここで苦戦した。扉の向こうに、Aランクモンスターがいた」


「……何だ」


「ドラゴンだ。古代種の」


ゼノの声が低くなる。


「俺のパーティは、あれで全滅寸前だった。仲間が二人、重傷を負った。俺も、この傷はその時のものだ」


ゼノは胸の傷に手を当てた。


「……開けるのか」


「……ああ」


セリアは扉に近づいた。身体が震えている。恐怖ではない。何か別の感情。期待? それとも——。


「待て」


ゼノが止めた。


「準備を整えてからだ。ドラゴンは強い。Aランクの中でも最強クラスだ」


「……分かった」


セリアは治療薬を確認した。残り12本。水筒も満タンだ。


ゼノも準備を整える。大剣を握り直す。深呼吸をする。


「……行くぞ」


「……ああ」


セリアは扉に手をかけた。


扉が、ゆっくりと開いた。


重い音を立てて、内側へ。


その先には——。


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