第61話 朝の光と囁きの残響
白い天井が視界に入った。
セリアは目を開けた。身体が重い。首が痛い。椅子で眠ってしまったのだと、ぼんやりとした意識が理解する。どれくらい眠っていたのだろうか。窓の外は明るい。朝の光が、白いカーテンを透過して部屋を柔らかく照らしている。
医療室は静かだった。
消毒薬の匂いが鼻をつく。清潔なシーツの匂い。そして、かすかに漂う汗の匂い。セリアは身体を起こし、首を回した。骨が鳴る。椅子で一夜を過ごすのは、やはり身体に堪える。
横を見る。
アシュがベッドに横たわっている。まだ眠っている。胸がゆっくりと上下している。呼吸は昨夜より安定しているように見えた。額の汗も引いている。顔色も、少しだけ血の気が戻っている。
セリアは立ち上がった。
窓に近づき、カーテンを少しだけ開く。朝の光が目に眩しい。外では街が目覚め始めていた。商人が店の扉を開ける音、馬車が石畳を走る音、人々の話し声、鳥の鳴き声。地上の朝。深層にはない光景。深層には朝も夜もない。ただ、永遠に続く薄暗い空間があるだけ。時間の感覚さえ曖昧になる場所。
セリアは自分の剣を見た。
空虚の剣は、腰に下げられたまま静かだった。何も語らない。何も求めない。ただ、そこに在る。漆黒の刃は光を吸い込むように静謐で、昨夜と変わらず沈黙を守っている。
昨夜、アシュは問うた。『どうやったら、剣の声を無視できるの?』と。
セリアには答えられなかった。自分の剣は囁かない。誘惑もしない。だから、抗う方法を知らない。他の冒険者が当然のように持っている「剣との対話」という経験が、セリアにはない。それが異常なのだと、セリアは理解している。だが、異常であることの意味を、まだ完全には理解していない。
「……」
セリアは窓の外を見た。
アビスの本部ビルが見える。石造りの重厚な建物。冒険者たちがすでに出入りしている。朝から深層へ向かう者たち。装備を確認し、仲間と言葉を交わし、転移装置のある地下へと向かっていく。
彼らは戻ってこられるだろうか。
何人が生きて帰り、何人が深層で命を落とすのだろうか。
ノックの音が響いた。
セリアは振り返る。短く、二回。遠慮がちな音。
「……入れ」
扉が開き、ミラが姿を現した。手には朝食の籠を持っている。彼女は部屋を見回し、セリアを見つけると小さく笑った。いつもの優しい笑顔。だが、その目には疲れが滲んでいる。
「おはよう、セリア。ちゃんと寝た?」
「……ああ」
嘘だった。椅子で数時間眠っただけ。身体は休まっていない。肩も首も痛い。だが、それを言っても仕方ない。ミラを心配させるだけだ。
ミラはアシュを見た。その表情が少しだけ曇る。
「まだ眠ってるのね」
「……ああ」
「治療師に聞いたわ。容態は安定してるって。ただ——」
ミラは言葉を切った。視線をセリアに戻す。
「深層には、もう行けない。身体が持たない」
「……分かっている」
セリアは椅子に座った。ミラは籠をテーブルに置き、中からパンとスープを取り出す。温かい湯気が立ち上る。バターの香り、野菜の香り。空腹を自覚する。
「食べて。昨夜はサンドイッチだけでしょう?」
「……すまない」
「謝らなくていいの」
ミラはセリアの隣に座った。しばらく沈黙が続く。窓の外から鳥の声が聞こえる。チュンチュンと軽やかな声。平和な音。
「ゼノから伝言があるわ」
「……」
「『無理をするな』って」
セリアは小さく笑った。笑うつもりはなかった。だが、自然と口元が緩んだ。ゼノらしい言葉だ。簡潔で、的確で、そして優しい。
「……らしいな」
「彼も心配してるのよ。あなたのこと」
「……ああ」
ミラは窓の外を見た。その横顔には、何か言いたげな表情がある。だが、すぐには言葉にしない。
「セリア、本当に一人で行くの?」
「……」
「ゼノは動けない。アシュも行けない。他に誰か——」
「いない」
セリアは静かに答えた。
「パーティを組める者はいない。皆、自分の挑戦で精一杯だ」
「……そうね」
ミラは俯いた。その表情には、諦めと悲しみがあった。肩が少しだけ落ちている。
「私の兄も、最後は一人だった」
「……」
「150階層で消息を絶った。仲間は全員、手前の階層で限界を迎えて。兄だけが、先に進んだ」
ミラの声は静かだった。感情を抑えているようだった。だが、その奥に深い痛みがあるのが分かる。
「戻ってこなかった。剣も、見つからなかった。今でも、どこかの階層に残っているのかもしれない。誰かの手に渡っているのかもしれない」
「……すまない」
「謝らないで」
ミラはセリアを見た。その瞳には、真摯な光があった。
「ただ、あなたには帰ってきてほしいの。生きて」
「……約束した」
「覚えてる。でも、約束だけじゃ足りない」
ミラは立ち上がった。窓に近づき、外を見る。
「兄も、約束したの。『必ず帰る』って。でも——」
言葉が途切れる。ミラは目を閉じた。深く息を吸い、ゆっくりと吐く。感情を整理しているのだろう。
「ごめんなさい。こんな話、あなたを不安にさせるだけよね」
「……いや」
セリアは立ち上がり、ミラの隣に立った。
「お前の気持ちは分かる」
「……ありがとう」
ミラは微笑んだ。だが、その笑顔は脆い。今にも崩れそうな、ガラス細工のような笑顔。
「私、ゼノに会ってくる。あなたのこと、彼も気にしてるから」
「……伝えてくれ」
「ええ」
ミラは扉に向かった。振り返り、最後にもう一度言った。
「食べて。ちゃんと」
「……ああ」
扉が閉まる。
セリアは一人になった。パンを手に取り、一口かじる。柔らかい。バターの風味が口に広がる。だが、味を感じる余裕がない。ただ、機械的に咀嚼し、飲み込む。
スープも飲んだ。温かい。野菜の旨味が染み渡る。身体が少しだけ温まる。だが、心の冷たさは変わらない。
時間が流れる。
やがて、アシュが動いた。
セリアは立ち上がる。ベッドに近づく。アシュのまぶたが震えている。ゆっくりと開いていく。焦点の合わない瞳。だが、次第にセリアを捉える。
「……ん……」
声にならない声。喉が渇いているのだろう。セリアは水差しから水をコップに注ぎ、アシュに差し出した。
「……飲め」
「……ありがとう」
アシュは身体を起こし、水を飲んだ。ゆっくりと、少しずつ。喉を潤す音が静かに響く。
「……セリアさん。朝?」
「……ああ」
「……どれくらい、寝てた?」
「半日以上」
「そっか」
アシュはコップを置いた。窓の外を見る。朝の光が彼の顔を照らす。その表情には、複雑なものがあった。安堵と、諦めと、そして何か別の感情。
「……身体は?」
「……まだ、重い。でも、昨日よりはマシかも」
「……そうか」
アシュは自分の手を見た。握ったり開いたりする。指は動く。だが、力が入らない。
「……セリアさん」
「……何だ」
「昨日、言われたこと。ちゃんと覚えてる」
「……」
「もう、深層には行けないって」
アシュの声は静かだった。諦めているようで、それでいてどこか抗っているような。拳が、わずかに震えている。
「……僕、どうすればいいんだろう」
「……」
「剣が、まだ囁いてるんだ。『もっと深く』って。『諦めるな』って。『お前はまだ行ける』って」
アシュはベッドの脇に立てかけられた剣を見た。その剣が、微かに震えている。目に見えないほどの振動。だが、確かに震えている。
「昨日も、夢の中でずっと聞こえてた。剣の声。止まらない。耳を塞いでも、頭の中で響く」
「……」
「セリアさん、僕——」
アシュは言葉を切った。何かを言いかけて、やめた。唇を噛む。
セリアは待った。彼が言葉を見つけるまで。急かさない。ただ、待つ。
「……僕、死にたくない」
小さな声だった。震えている声。
「でも、剣が言うんだ。『行け』って。『お前はまだ行ける』って。『止まるな』って」
「……」
「どっちを信じればいいの? 治療師の言葉? それとも、剣の声?」
セリアは答えられなかった。
剣の囁きは嘘だ。アシュの身体は限界を超えている。これ以上深層へ行けば、確実に死ぬ。治療師の診断は正しい。医学的に、客観的に、アシュは深層へ行くべきではない。
だが、剣はそれを認めない。剣は持ち主を深層へと誘い続ける。たとえそれが死であっても。たとえ持ち主の身体が壊れても。
「……治療師を信じろ」
セリアは言った。
「お前の身体は限界だ。これ以上は無理だ」
「……でも」
「剣の声は無視しろ」
「……できない」
アシュの声は震えていた。拳を握りしめている。爪が掌に食い込んでいる。
「できないんだ、セリアさん。無視しようとしても、聞こえてくる。頭の中で、ずっと。起きてる時も、寝てる時も」
「……」
「どうすればいいの?」
セリアは沈黙した。
答えはない。剣の囁きを止める方法を、セリアは知らない。自分の剣は囁かない。だから、対処法も分からない。
「……分からない」
「……そっか」
アシュは俯いた。肩が落ちる。
「……ありがとう。正直に言ってくれて」
「……」
二人は黙った。
窓の外で、街の音が続いている。馬車の音、人々の声、鳥の鳴き声。日常の音。平和な音。
だが、この部屋の中だけは違う。ここには深淵の影が落ちている。アシュの身体に、剣に、そしてセリアの心に。
アシュは顔を上げた。
「セリアさんは、いつ出発するの?」
「……まだ決めていない」
「……そっか」
「……お前の容態が安定してから」
「……!」
アシュは目を見開いた。
「待たなくていいですよ。僕のために」
「……」
「セリアさんには、行かなきゃいけない理由があるんでしょ?」
「……ああ」
「なら、行ってください」
アシュは微笑んだ。だが、その笑顔は悲しげだった。目に涙が滲んでいる。
「僕のことは気にしないで。僕、ここで終わる。それでいい」
「……」
セリアは彼を見た。
本当にそれでいいのか。剣の囁きを抱えたまま、ここで止まることができるのか。
答えは分かっていた。
できない。
アシュは剣の囁きに抗えない。いずれ、また深層へ向かおうとする。そして——。
「……アシュ」
「……はい」
「……無理をするな」
「……はい」
嘘だと分かっていた。アシュも、セリアも。
だが、他に言えることはなかった。




