表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
61/111

第60話 帰還

106階層。


通路は、さらに狭くなっていた。


天井が低く、セリアでさえ頭を僅かに屈めなければならない。壁は湿っていて、水滴が落ちる音が絶え間なく響く。足元は滑りやすく、一歩一歩が慎重さを要求する。


アシュの息が、荒くなっていた。


重力1.5倍の空間で、既に5階層を進んだ。彼の体力は、限界に近づいている。それでも――彼は、歩き続けていた。


「はあ……はあ……」


アシュの呼吸が、狭い通路に反響する。セリアは時折振り返り、彼の様子を確認した。顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。足取りは覚束なく、時々壁に手をついて身体を支えている。


「……大丈夫か」


セリアが尋ねると、アシュは頷いた。


「……大丈夫、です」


その声は、掠れていた。


二人は、慎重に通路を進んだ。


モンスターの気配がする。セリアは剣を抜き、アシュに目配せした。アシュも剣を構える。その手は、震えていた。


暗闇の中から、トロールが現れた。一体。巨大な身体、棍棒を握っている。狭い通路での戦闘――不利だ。


「……下がっていろ」


セリアはアシュにそう言った。アシュは唇を噛みしめたが、頷いた。


「……はい」


セリアは前へ出た。


トロールが棍棒を振り下ろす。セリアは横へ跳んで避けた。狭い通路、動きが制限される。でも――身体が覚えている。最適な動き、最適な間合い。


セリアは剣を振るった。


トロールの脇腹に斬撃が入る。トロールが咆哮し、再び棍棒を振るう。セリアは低く身を屈め、その攻撃を避けた。そして――トロールの足を斬った。


トロールが膝をつく。


セリアは躊躇なく、その首を斬り落とした。


トロールの巨体が、地面に崩れ落ちる。ドスンと重い音が響き、通路が僅かに震えた。


セリアは剣を納めた。


「……行くぞ」


アシュが頷き、セリアの後をついてくる。彼の足取りは、さらに重くなっていた。


107階層へ進んだ。


通路は相変わらず狭く、暗い。松明の光が、僅かに道を照らしているだけだった。


アシュが、突然立ち止まった。


セリアが振り返ると、アシュは壁に手をついて膝をついていた。


「……アシュ」


「す、すみません……少し……」


アシュの声は、もはや悲鳴に近かった。


セリアはアシュに近づき、治療薬を取り出した。


「飲め」


「……ありがとう、ございます」


アシュは震える手で治療薬を受け取り、一気に飲み干した。少しだけ、顔色が戻る。でも――疲労は消えない。


「……休むか」


セリアが尋ねると、アシュは首を横に振った。


「い、いえ……大丈夫です。まだ……まだ、行けます」


「……無理するな」


「無理じゃ、ありません……!」


アシュの声には、必死さがあった。


「僕は……ここまで来たんです。もう少し……もう少しだけ……!」


セリアは、アシュの目を見た。


その目には――諦めがなかった。


ただ、前へ進みたいという、強い意志があった。


「……わかった」


セリアは頷いた。


「でも、限界だと思ったら言え」


「……はい」


二人は、再び歩き始めた。


108階層。


通路が少し広くなった。天井も高くなり、呼吸が楽になる。でも――モンスターの気配が、増えていた。


ミノタウロス、オーガ、トロール。様々なモンスターが、この階層には潜んでいる。


セリアは冷静に対処していたが、アシュはもう限界だった。


戦闘の度に、彼の動きが鈍くなる。剣を振る力が弱まり、避ける速度が落ちる。


それでも――彼は、戦い続けた。


109階層へ進んだ時、アシュが倒れた。


「アシュ……!」


セリアが駆け寄ると、アシュは地面に膝をつき、肩で息をしていた。全身が汗で濡れ、顔は蒼白だった。


「はあ……はあ……すみません……」


「……もう、限界だ」


セリアは静かに言った。


「地上へ戻ろう」


「い、いえ……!」


アシュは顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。


「まだ……まだ、行けます……!」


「……行けない」


セリアの声は、冷たかった。


「お前は、もう戦えない」


「で、でも……!」


「これ以上進めば、お前は死ぬ」


その言葉に、アシュは言葉を失った。


セリアは転移石を取り出した。


「地上へ戻る。一緒に」


「……え?」


アシュが驚いたように顔を上げる。


「セリアさんも……ですか?」


「……ああ」


セリアは頷いた。


「お前を一人で帰すわけにはいかない」


「で、でも……セリアさんは、まだ行けるはずです……!」


「……関係ない」


セリアはアシュの腕を掴み、立ち上がらせた。


「お前が限界なら、戻る。それだけだ」


アシュは唇を噛みしめた。


「……すみません」


「……謝るな」


セリアは転移石を起動させた。光が二人を包み込む。


「行くぞ」


「……はい」


光が強くなり、世界が歪む。


次の瞬間――


二人は、地上の転移装置の中に立っていた。


広間には、数人の冒険者がいた。彼らは転移装置から出てきたセリアとアシュを見て、僅かに目を見開いた。


「セリア・アッシュフォード……」


「109階層から帰ってきたのか……」


囁き声が聞こえる。セリアは無視して、アシュを支えながら広間を抜けた。


廊下を歩く。


アシュの足取りは、もう限界だった。セリアが支えていなければ、倒れていただろう。


「すみません……すみません……」


アシュが何度も呟く。セリアは何も言わなかった。


医療室へ向かう。


扉を開けると、ゼノがベッドに座っていた。彼は二人に気づき、驚いたように立ち上がる。


「セリア……! アシュ……!」


ゼノが駆け寄ってくる。セリアはアシュをゼノに預けた。


「……アシュを頼む」


「ああ」


ゼノはアシュをベッドに寝かせた。アシュは、もう意識が朦朧としている。


「治療師を呼んでくる」


ゼノがそう言って、医療室を出ていった。


セリアは、ベッドの隣に座った。


アシュの顔を見る。青白く、汗で濡れている。呼吸は浅く、速い。


「……すみません……セリアさん……」


アシュが小さく呟いた。


「……僕、足手まといで……」


「……違う」


セリアは静かに言った。


「お前は、よく頑張った」


「……でも」


「もういい」


セリアはアシュの手を握った。


「今は、休め」


アシュは涙を流しながら、頷いた。


「……ありがとう、ございます」


しばらくして、ゼノが治療師を連れて戻ってきた。初老の男性で、穏やかな笑顔を浮かべている。


「診せてもらおう」


治療師はアシュを診察し始めた。脈を取り、傷を確認し、目を見る。その表情は、次第に険しくなっていった。


「……重度の疲労と、精神的な消耗だ」


治療師が言った。


「このまま放置すれば、危険だ。少なくとも一週間は、絶対安静が必要だ」


「……わかった」


ゼノが頷いた。治療師はアシュに薬を飲ませ、包帯を巻き直した。


「彼には、深層へ行かせない方がいい」


治療師は真剣な顔でセリアを見た。


「このまま深層へ行けば――彼は、死ぬ」


その言葉が、セリアの胸に刺さった。


「……わかっている」


セリアは小さく呟いた。治療師は頷き、医療室を出ていった。


ゼノがセリアの隣に座った。


「セリア、お前も休め」


「……大丈夫だ」


「嘘つくな」


ゼノの声には、強さがあった。


「お前も、相当消耗してる。顔色が悪い」


セリアは何も言わなかった。確かに、疲労は溜まっている。でも――まだ動ける。


「今日は、ここで休め」


ゾノは立ち上がった。


「ミラにも連絡しておく。お前が無事に帰ってきたって」


「……ありがとう」


セリアは小さく呟いた。ゼノは微笑み、医療室を出ていった。


セリアは、アシュの隣に座ったまま――窓の外を見た。


夕暮れが近づいている。


オレンジ色の空が、街を優しく照らしている。


穏やかで、美しい光景。


でも――セリアの心は、穏やかではなかった。


アシュは、もう限界だ。


これ以上深層へ行けば、彼は死ぬ。


それが、セリアにはわかっていた。


「……どうすればいい」


小さく呟く。


答えは、見つからない。


アシュの呼吸の音だけが、静かに響いていた。


セリアは、その音を聞きながら――深く息を吐いた。


明日のことは、明日考えよう。


今は、ただ休むことだけを考えよう。


夕暮れの光が、医療室の窓から差し込んでいた。


セリアは静かに目を閉じ、身体を休めた。


疲労が、どっと押し寄せてくる。


でも――それでいい。


今は、休むべき時だ。


セリアは、静かに眠りに落ちていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
楽しんでいただけましたら、 感想・ブックマーク・アクションをしていただけると励みになります。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ