第60話 帰還
106階層。
通路は、さらに狭くなっていた。
天井が低く、セリアでさえ頭を僅かに屈めなければならない。壁は湿っていて、水滴が落ちる音が絶え間なく響く。足元は滑りやすく、一歩一歩が慎重さを要求する。
アシュの息が、荒くなっていた。
重力1.5倍の空間で、既に5階層を進んだ。彼の体力は、限界に近づいている。それでも――彼は、歩き続けていた。
「はあ……はあ……」
アシュの呼吸が、狭い通路に反響する。セリアは時折振り返り、彼の様子を確認した。顔は青白く、額には汗が浮かんでいる。足取りは覚束なく、時々壁に手をついて身体を支えている。
「……大丈夫か」
セリアが尋ねると、アシュは頷いた。
「……大丈夫、です」
その声は、掠れていた。
二人は、慎重に通路を進んだ。
モンスターの気配がする。セリアは剣を抜き、アシュに目配せした。アシュも剣を構える。その手は、震えていた。
暗闇の中から、トロールが現れた。一体。巨大な身体、棍棒を握っている。狭い通路での戦闘――不利だ。
「……下がっていろ」
セリアはアシュにそう言った。アシュは唇を噛みしめたが、頷いた。
「……はい」
セリアは前へ出た。
トロールが棍棒を振り下ろす。セリアは横へ跳んで避けた。狭い通路、動きが制限される。でも――身体が覚えている。最適な動き、最適な間合い。
セリアは剣を振るった。
トロールの脇腹に斬撃が入る。トロールが咆哮し、再び棍棒を振るう。セリアは低く身を屈め、その攻撃を避けた。そして――トロールの足を斬った。
トロールが膝をつく。
セリアは躊躇なく、その首を斬り落とした。
トロールの巨体が、地面に崩れ落ちる。ドスンと重い音が響き、通路が僅かに震えた。
セリアは剣を納めた。
「……行くぞ」
アシュが頷き、セリアの後をついてくる。彼の足取りは、さらに重くなっていた。
107階層へ進んだ。
通路は相変わらず狭く、暗い。松明の光が、僅かに道を照らしているだけだった。
アシュが、突然立ち止まった。
セリアが振り返ると、アシュは壁に手をついて膝をついていた。
「……アシュ」
「す、すみません……少し……」
アシュの声は、もはや悲鳴に近かった。
セリアはアシュに近づき、治療薬を取り出した。
「飲め」
「……ありがとう、ございます」
アシュは震える手で治療薬を受け取り、一気に飲み干した。少しだけ、顔色が戻る。でも――疲労は消えない。
「……休むか」
セリアが尋ねると、アシュは首を横に振った。
「い、いえ……大丈夫です。まだ……まだ、行けます」
「……無理するな」
「無理じゃ、ありません……!」
アシュの声には、必死さがあった。
「僕は……ここまで来たんです。もう少し……もう少しだけ……!」
セリアは、アシュの目を見た。
その目には――諦めがなかった。
ただ、前へ進みたいという、強い意志があった。
「……わかった」
セリアは頷いた。
「でも、限界だと思ったら言え」
「……はい」
二人は、再び歩き始めた。
108階層。
通路が少し広くなった。天井も高くなり、呼吸が楽になる。でも――モンスターの気配が、増えていた。
ミノタウロス、オーガ、トロール。様々なモンスターが、この階層には潜んでいる。
セリアは冷静に対処していたが、アシュはもう限界だった。
戦闘の度に、彼の動きが鈍くなる。剣を振る力が弱まり、避ける速度が落ちる。
それでも――彼は、戦い続けた。
109階層へ進んだ時、アシュが倒れた。
「アシュ……!」
セリアが駆け寄ると、アシュは地面に膝をつき、肩で息をしていた。全身が汗で濡れ、顔は蒼白だった。
「はあ……はあ……すみません……」
「……もう、限界だ」
セリアは静かに言った。
「地上へ戻ろう」
「い、いえ……!」
アシュは顔を上げた。その目には、涙が浮かんでいた。
「まだ……まだ、行けます……!」
「……行けない」
セリアの声は、冷たかった。
「お前は、もう戦えない」
「で、でも……!」
「これ以上進めば、お前は死ぬ」
その言葉に、アシュは言葉を失った。
セリアは転移石を取り出した。
「地上へ戻る。一緒に」
「……え?」
アシュが驚いたように顔を上げる。
「セリアさんも……ですか?」
「……ああ」
セリアは頷いた。
「お前を一人で帰すわけにはいかない」
「で、でも……セリアさんは、まだ行けるはずです……!」
「……関係ない」
セリアはアシュの腕を掴み、立ち上がらせた。
「お前が限界なら、戻る。それだけだ」
アシュは唇を噛みしめた。
「……すみません」
「……謝るな」
セリアは転移石を起動させた。光が二人を包み込む。
「行くぞ」
「……はい」
光が強くなり、世界が歪む。
次の瞬間――
二人は、地上の転移装置の中に立っていた。
広間には、数人の冒険者がいた。彼らは転移装置から出てきたセリアとアシュを見て、僅かに目を見開いた。
「セリア・アッシュフォード……」
「109階層から帰ってきたのか……」
囁き声が聞こえる。セリアは無視して、アシュを支えながら広間を抜けた。
廊下を歩く。
アシュの足取りは、もう限界だった。セリアが支えていなければ、倒れていただろう。
「すみません……すみません……」
アシュが何度も呟く。セリアは何も言わなかった。
医療室へ向かう。
扉を開けると、ゼノがベッドに座っていた。彼は二人に気づき、驚いたように立ち上がる。
「セリア……! アシュ……!」
ゼノが駆け寄ってくる。セリアはアシュをゼノに預けた。
「……アシュを頼む」
「ああ」
ゼノはアシュをベッドに寝かせた。アシュは、もう意識が朦朧としている。
「治療師を呼んでくる」
ゼノがそう言って、医療室を出ていった。
セリアは、ベッドの隣に座った。
アシュの顔を見る。青白く、汗で濡れている。呼吸は浅く、速い。
「……すみません……セリアさん……」
アシュが小さく呟いた。
「……僕、足手まといで……」
「……違う」
セリアは静かに言った。
「お前は、よく頑張った」
「……でも」
「もういい」
セリアはアシュの手を握った。
「今は、休め」
アシュは涙を流しながら、頷いた。
「……ありがとう、ございます」
しばらくして、ゼノが治療師を連れて戻ってきた。初老の男性で、穏やかな笑顔を浮かべている。
「診せてもらおう」
治療師はアシュを診察し始めた。脈を取り、傷を確認し、目を見る。その表情は、次第に険しくなっていった。
「……重度の疲労と、精神的な消耗だ」
治療師が言った。
「このまま放置すれば、危険だ。少なくとも一週間は、絶対安静が必要だ」
「……わかった」
ゼノが頷いた。治療師はアシュに薬を飲ませ、包帯を巻き直した。
「彼には、深層へ行かせない方がいい」
治療師は真剣な顔でセリアを見た。
「このまま深層へ行けば――彼は、死ぬ」
その言葉が、セリアの胸に刺さった。
「……わかっている」
セリアは小さく呟いた。治療師は頷き、医療室を出ていった。
ゼノがセリアの隣に座った。
「セリア、お前も休め」
「……大丈夫だ」
「嘘つくな」
ゼノの声には、強さがあった。
「お前も、相当消耗してる。顔色が悪い」
セリアは何も言わなかった。確かに、疲労は溜まっている。でも――まだ動ける。
「今日は、ここで休め」
ゾノは立ち上がった。
「ミラにも連絡しておく。お前が無事に帰ってきたって」
「……ありがとう」
セリアは小さく呟いた。ゼノは微笑み、医療室を出ていった。
セリアは、アシュの隣に座ったまま――窓の外を見た。
夕暮れが近づいている。
オレンジ色の空が、街を優しく照らしている。
穏やかで、美しい光景。
でも――セリアの心は、穏やかではなかった。
アシュは、もう限界だ。
これ以上深層へ行けば、彼は死ぬ。
それが、セリアにはわかっていた。
「……どうすればいい」
小さく呟く。
答えは、見つからない。
アシュの呼吸の音だけが、静かに響いていた。
セリアは、その音を聞きながら――深く息を吐いた。
明日のことは、明日考えよう。
今は、ただ休むことだけを考えよう。
夕暮れの光が、医療室の窓から差し込んでいた。
セリアは静かに目を閉じ、身体を休めた。
疲労が、どっと押し寄せてくる。
でも――それでいい。
今は、休むべき時だ。
セリアは、静かに眠りに落ちていった。




