第59話 共に深淵へ
朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。
セリアは目を覚ました。身体は重いが、昨夜よりは落ち着いている。深く眠れたのだろう。でも、心の奥底には――重い石のようなものが沈んでいた。
今日、アシュと共に深層へ向かう。
セリアはゆっくりと身体を起こし、窓の外を見た。青い空が広がっている。雲一つない、穏やかな朝。鳥のさえずりが聞こえ、遠くから街の目覚めの音が響いてくる。
いつもと変わらない朝。
でも――今日は、いつもと違う。
セリアは装備を整えた。剣を腰に帯び、荷物を確認する。携帯食、治療薬、転移石。全て揃っている。
部屋を出ると、階下からいい匂いが漂ってきた。ミラが朝食を作っているのだろう。
セリアは階段を降りた。
リビングに入ると、ミラがテーブルに朝食を並べていた。焼きたてのパン、温かいスープ、目玉焼き、フルーツ。いつものように、丁寧に作られた食事だった。
「おはよう、セリア」
ミラが振り返り、優しく微笑む。
「よく眠れた?」
「……ああ」
セリアは短く答えた。ミラは頷き、椅子を引いてセリアに座るよう促す。
「さあ、食べましょう。今日は、しっかり食べてね」
二人は席に着き、食事を始めた。
パンはふわふわで、バターの香りが口の中に広がる。スープは野菜の優しい甘みがあり、身体の芯から温まった。目玉焼きは黄身がとろりとしていて、塩をかけて食べると絶品だった。
「美味しい」
セリアは呟いた。ミラが嬉しそうに笑う。
「よかった」
しばらく無言で食事を続けた。スプーンが皿に触れる音だけが、静かなリビングに響く。
「セリア」
ミラが静かに言った。
「無理しないでね」
「……ああ」
「もし、辛くなったら――すぐに帰ってきて」
ミラの声には、深い心配があった。セリアは顔を上げ、ミラを見た。彼女の目には、涙が浮かんでいた。
「……ミラ」
「ごめんなさい」
ミラは慌てて涙を拭った。
「こんなこと言っちゃ駄目よね。あなたは、もう決めたんだから」
「……いや」
セリアは首を横に振った。
「……お前の心配、嬉しい」
ミラが僅かに微笑んだ。
「本当?」
「……ああ」
二人は再び、食事を続けた。
朝食が終わると、セリアは立ち上がった。ミラが玄関まで見送りに来てくれた。
「気をつけてね」
ミラが言った。セリアは頷く。
「……ああ」
「必ず、帰ってきてね」
「……わからない」
セリアは正直に答えた。ミラは僅かに目を伏せたが、すぐに顔を上げて微笑んだ。
「それでも――帰ってきて」
「……努力する」
セリアはそれだけ言って、ミラの家を後にした。
振り返ると、ミラが玄関で手を振っていた。その笑顔は、どこか寂しそうに見えた。
セリアは前を向き、ギルドへ向かって歩き出した。
朝の街は、既に活気に満ちていた。
商人たちが店を開き、冒険者たちがギルドへ向かい、子供たちが路地で遊んでいる。いつもと変わらない、穏やかな朝の光景。
でも、セリアの心は穏やかではなかった。
今日、アシュと共に深層へ向かう。
彼は、生き延びられるだろうか。
それとも――やはり、死ぬのだろうか。
答えは、わからない。
ギルドに到着すると、既に多くの冒険者で賑わっていた。セリアはその人混みを抜け、医療室へ向かった。
医療室の扉を開けると、アシュとゼノがいた。
アシュはベッドに座っていて、ゼノが彼の隣の椅子に腰掛けて何か話しかけていた。二人はセリアに気づき、顔を向ける。
「セリアさん……!」
アシュが立ち上がった。彼の顔色は、昨日よりも少し良くなっている。でも、目には深い疲労が残っていた。
ゼノも立ち上がった。彼の動きは、以前よりもスムーズだった。胸部と右腕には、まだ包帯が巻かれている。
「よう、セリア」
ゼノが声をかける。セリアは頷いた。
「……動けるようになったのか」
「ああ。歩くくらいなら問題ない」
ゼノは苦笑した。
「でも、戦闘はまだ無理だ。昨日試しに剣を振ってみたが――背中の傷が痛んで続かなかった」
「……そうか」
セリアは、ゼノの包帯が巻かれた身体を見た。まだ完全には治っていない。無理をすれば、傷が開くだろう。
「だから、今回は行けない」
ゼノは真剣な顔でセリアを見た。
「お前たちに任せる」
「……わかった」
セリアは頷いた。ゼノは荷物から転移石を数個取り出し、セリアに渡した。
「これを持っていけ。何かあったら、すぐに帰還しろ」
「……ああ」
セリアは転移石を受け取った。ゼノはアシュを見た。
「アシュ、お前もだ。無理するな」
「……はい」
アシュは小さく頷いた。その手は、腰の剣を握りしめている。
ゼノは二人を見つめ、そして――僅かに笑った。
「生きて帰ってこい」
「……ああ」
セリアとアシュは医療室を出た。
廊下を歩きながら、アシュが小さく呟いた。
「セリアさん……本当に、ありがとうございます」
「……礼はいらない」
「でも……」
アシュの声が震える。
「僕なんかのために……」
「……お前を一人で行かせるわけにはいかない」
セリアは真っ直ぐ前を向いたまま言った。
「……それだけだ」
アシュは何も言わなかった。ただ、静かにセリアの後をついてくる。
転移装置のある広間に着くと、数人の冒険者がいた。彼らはセリアとアシュを見て、僅かに驚いた表情を浮かべた。
「あれが、セリア・アッシュフォードか……」
「171階層まで行ったらしいぞ」
「隣の子は……アシュだな。100階層止まりだったはずだが……」
囁き声が聞こえる。セリアは無視して、転移装置へ向かった。
「どこへ行きますか?」
係員が尋ねる。セリアは短く答えた。
「100階層」
係員は頷き、転移石を確認した。
「お気をつけて」
セリアとアシュは転移装置の中に入った。
光が二人を包み込む。
そして――世界が歪んだ。
次の瞬間、セリアとアシュは100階層に立っていた。
転移装置から出ると――
目の前に、巨大な門があった。
石造りの、古びた門。高さ10メートルはある。門には古代文字が刻まれている。読めない。でも――何となく、わかる。
「境界」
そう書いてある気がした。
アシュが息を呑む音が聞こえた。
「……ここが」
彼の声は震えていた。
「100階層……」
セリアは門を押した。
重い。
全身の力を込めて、押す。ゴゴゴ……と低い音が響く。地面が低く唸る。
ゆっくりと――門が、開いた。
金属が軋む。ギィィと長く、耳障りな音。
そして――
光が、溢れ出した。
青白い、冷たい光。
セリアは一歩、踏み出した。
靴底が石を踏む。カツン――と音が響き、そして――消えた。
音が、空間に飲み込まれた。
100階層へ――
広い。
桁違いに、広い。
世界が音を忘れていた。
これまでの階層とは――次元が、違う。
天井は見えない。遥か上方にあるはずだが、青白い光に霞んで見えない。壁も――ない。地平線まで続いているような、果てしない空間。
まるで――地下世界。
いや――別世界だ。
光源が、わからない。松明は持っているが――それ以上に、空間全体が青白く光っている。光が、呼吸のように揺れていた。
月明かり。
そう――満月の夜のような、冷たい光。
幻想的で――不気味だ。
一歩、踏み出す。
足音が――響かない。
重い。
身体に、圧力がかかる。重力が――1.5倍になっている。
呼吸が、苦しい。空気が、喉を通るたびにゴロゴロと音を立てる。
アシュが膝をつきかけた。セリアが彼の腕を掴む。
「……大丈夫か」
「は、はい……重力が……」
「……慣れろ。ここは、これが普通だ」
アシュは歯を食いしばり、立ち上がった。
静寂――ではない。
遠くから、音が聞こえる。
咆哮。雲の奥で光が低く鳴るような、遠い音。叫び声。地を揺らす、足音。ドン、ドンと大地が震える。
戦いの音。
無数の――モンスターの、気配。
そして――
地平線の彼方まで――無数のモンスターがいた。
ゴブリン。オーク。トロール。ミノタウロス。
そして――空を飛ぶ、ワイバーン。翼が風を切る音が、遠くから聞こえる。
低層のモンスターと、高ランクのモンスターが――混在している。
戦っている。
食い合っている。
まるで――混沌だ。
アシュが、震える声で呟いた。
「こ、これが……100階層……」
「……ああ」
セリアは剣を抜いた。
「……行くぞ」
「は、はい……」
二人は、静かに歩き始めた。
重力に身体を慣らしながら、慎重に進む。モンスターの群れを避け、影に隠れ、時には走る。
しばらく歩くと、ゴブリンの群れが襲いかかってきた。十数体。
「……来るぞ」
セリアは前へ出た。
ゴブリンが襲いかかってくる。セリアは冷静に剣を振るった。一体、二体、三体。身体が勝手に動く。最適な軌道、最適なタイミング。全てが、まるで計算されたかのように流れていく。
アシュも戦っていた。彼の動きは粗削りだが、必死さがあった。ゴブリン二体を何とか倒す。
戦闘が終わると、アシュは膝をついた。
「はあ……はあ……」
息が荒い。消耗が激しいようだ。重力1.5倍の影響が大きい。
セリアはアシュに近づき、治療薬を渡した。
「飲め」
「……ありがとうございます」
アシュは治療薬を飲み、ゆっくりと立ち上がった。
「……すみません。足手まといで……」
「……気にするな」
セリアは短く答えた。
「……慣れれば、動けるようになる」
「……はい」
二人は再び歩き始めた。
100階層を慎重に進み、やがて――階段を見つけた。101階層へ続く道。
セリアは階段を上り始めた。アシュが後をついてくる。
階段を上る音だけが、静かに響く。
101階層へ入ると、空気が少し変わった。重力は1.5倍のままだが、青白い光は薄れ、代わりに松明の光が通路を照らしている。
狭い通路。
壁が迫ってくるような圧迫感があった。天井も低く、大きな動きはできない。
「……狭いな」
アシュが呟いた。セリアは頷く。
「……ここは、環境が敵だ。慎重に進め」
二人は、慎重に通路を進んだ。
しばらく歩くと、再びモンスターの気配がした。今度はミノタウロスだ。二体。
狭い通路での戦闘は、想像以上に厳しかった。セリアは冷静に対処したが、アシュは何度も壁にぶつかり、攻撃を避けきれなかった。
それでも、何とか二体を倒した。
アシュは肩で息をしていた。傷が増えている。
「……大丈夫か?」
セリアが尋ねると、アシュは頷いた。
「……大丈夫です。まだ……まだ、行けます」
その声には、強い意志があった。
セリアは治療薬をアシュに渡した。
「無理するな」
「……はい」
二人は、再び歩き始めた。
101階層から105階層まで、セリアとアシュは何度も戦闘を繰り返した。
アシュの疲労は、確実に蓄積していた。
でも――彼は諦めなかった。
剣を握りしめ、前へ進み続ける。
その姿を見て、セリアは――僅かに胸が痛んだ。
アシュは、もう長くない。
それが、セリアにはわかっていた。
でも――今は、ただ前へ進むことしかできない。
105階層に到達した時、アシュは完全に消耗していた。
「……休もう」
セリアがそう言うと、アシュは力なく頷いた。
二人は、105階層の広間で休息を取った。
セリアが携帯食を取り出し、アシュに渡す。アシュは黙ってそれを受け取り、ゆっくりと食べ始めた。
「セリアさん」
アシュが静かに言った。
「……何だ?」
「僕……ここまで来られると思ってませんでした」
アシュは僅かに笑った。
「100階層で限界だったのに……105階層まで」
「……」
「セリアさんのおかげです」
アシュの目には、感謝の色があった。
「本当に、ありがとうございます」
セリアは何も言わなかった。ただ、静かに頷いただけだった。
二人は、しばらくそのまま休んでいた。
静かな広間。
モンスターの気配はない。ただ、二人の呼吸の音だけが響いている。
「……行けるか?」
セリアが尋ねると、アシュは頷いた。
「……はい」
二人は立ち上がった。
そして――再び、深層へ向かって歩き出した。
アシュの足取りは重い。
でも――その目には、まだ諦めの色はなかった。
セリアは、そんなアシュの背中を見ながら――小さく息を吐いた。
どこまで行けるだろうか。
答えは、わからない。
でも――進むしかない。
二人は、静かに深層へと向かっていった。




