第5話 身体が覚えている
早朝、私はダンジョンへ向かった。
街はまだ眠っている。石畳の道を歩く音だけが、静かに響く。空は薄く明るくなり始めているが、太陽はまだ昇っていない。
街の中央。
そこに、巨大な穴が口を開けていた。
ダンジョン。
直径500メートルはあろうかという、漆黒の穴。近づくにつれ、冷たい風が吹き上げてくる。底知れぬ深さから湧き出る、冷気。
穴の前には管理ゲートが設置されていた。アビスオーダーの職員が数人、出入りを監視している。既に何人かの冒険者たちが集まっていた。
彼らは様々な剣を持っている。
巨大な大剣を背負った男。両手に双剣を握った女。腰に長剣を下げた若者。短剣を隠し持つ暗殺者風の男。
剣の種類は、戦闘スタイルを表す。
大剣は力任せの一撃。双剣は素早い連撃。長剣はバランス型。短剣は奇襲と急所狙い。
私は腰に下げた剣に手を添えた。
長剣。漆黒の刃。空虚の剣。
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ゲートで職員にギルドカードを提示した。
職員は私のカードを見て、表情を変えた。
「……500階層」
彼は私を見た。疑念と、わずかな恐れが混ざった目。
「本当に、潜行するんですか?」
「ああ」
「……どうぞ」
職員はカードを返した。周囲の冒険者たちが、私を見ている。ひそひそと囁き合う声。
「あれが、例の……」
「詐欺師だろ」
私は無視した。
穴の縁に立ち、下を見る。
暗闇。底が見えない。螺旋状の階段が、暗闇の中へと続いている。
私は一歩、踏み出した。
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1階層。
石造りの通路が続いている。壁には松明が等間隔で設置され、揺れる炎が影を作っている。壁には苔が生え、湿気が漂う。空気は冷たく、澱んでいる。
遠くから、魔物の鳴き声が聞こえた。
私は剣の柄に手をかけ、慎重に進んだ。
……この感覚。
知っている。
通路の形。松明の配置。石の質感。すべてが、どこか懐かしい。
身体が自然に動く。足の運びに違和感がない。まるで何度もここを歩いたかのように。
記憶はない。
だが、身体は覚えている。
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通路の先に、影が現れた。
小柄な人型の魔物。緑色の肌、鋭い爪、凶暴な目。
ゴブリン。
1階層に生息する、最も一般的な魔物。冒険者たちにとっては初心者向けの魔物だ。
数は3体。
ゴブリンたちは私を見つけると、咆哮を上げて襲いかかってきた。
私は剣を抜いた。
――その瞬間。
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身体が勝手に動いた。
考えるより先に、足が動く。
最初のゴブリンが爪を振り下ろす。私は最小限の動きで回避した。紙一重。爪が私の髪を掠める。
そのまま、一歩踏み込む。
剣を振るう。
一閃。
ゴブリンの喉を横一文字に斬り裂いた。血飛沫。ゴブリンが倒れる。
二体目が左から飛びかかってくる。
私は剣を返し、横薙ぎに振るった。ゴブリンの腹を斬り裂く。内臓が零れ落ちる。
三体目が背後から迫る。
振り返ることなく、私は剣を後ろへ突き出した。
ゴブリンの心臓を貫く。
すべてが、数秒の出来事だった。
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私は剣を振るい、血を払った。
三体のゴブリンが、地面に倒れている。
無傷。
息も乱れていない。
「……何だ、これは」
私は自分の手を見た。
震えていない。血に濡れた手。だが、違和感がない。まるで、何度も繰り返した動作のように自然だ。
記憶はない。
だが、身体は完璧に覚えている。
足の運び。剣の振り方。呼吸のリズム。間合いの取り方。
すべてが、染み付いている。
私は……戦っていたのか。
フラッシュバック。
暗闇の中、無数の魔物。血まみれの戦場。剣を振るう自分。
――だが、すぐに途切れた。
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私は通路の奥へ進んだ。
しばらく歩くと、前方から声が聞こえた。
「おい、見ろ。あそこに誰かいるぞ」
複数の足音。
通路の先から、四人の冒険者が現れた。
先頭を歩く男は、巨大な大剣を背負っている。30代ほど。傷だらけの顔、鋭い目つき。彼の後ろには、双剣を持つ女、長剣の若者、短剣の男が続いている。
パーティだ。
男たちは私を見て、立ち止まった。
「お前……一人か?」
リーダー格の男が言った。彼は私の足元を見て、目を見開いた。
そこには、倒れたゴブリンの死体があった。
「……こいつら、お前が倒したのか?」
「ああ」
私は短く答えた。男たちは顔を見合わせた。
「一瞬で、か?」
「ああ」
男は私をじっくりと見つめた。疑念と驚愕が混ざった目。
「お前……もしかして、500階層の詐欺師か?」
後ろの若者が言った。
「そうだ、噂の嘘つき女だ!」
私は無表情で答えた。
「信じなくていい」
リーダー格の男――ダリウスが鼻を鳴らした。
「ふん。どうせ運が良かっただけだろ。ゴブリンなんて、誰でも倒せる」
彼は肩をすくめ、仲間たちと共に先へ進んでいった。嘲笑する声が遠ざかっていく。
私は一人、さらに奥へ向かった。
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さらに深く進むと、魔物の数が増えてきた。
通路の先に、影が群れている。
ゴブリンの群れ。数は10体以上。
彼らは私を見つけると、一斉に襲いかかってきた。
私は躊躇なく突入した。
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身体が自動的に動く。
最初のゴブリンの爪を避け、剣で喉を斬る。
二体目が飛びかかってくる。横に避け、剣を振るう。胴を斬り裂く。
三体目、四体目が同時に襲ってくる。
私は低く身を屈め、足元を薙ぎ払う。二体が転倒する。そのまま剣を突き立て、心臓を貫く。
五体目が背後から。
振り返ることなく、剣を後ろへ。ゴブリンの頭を斬り飛ばす。
六体目、七体目。
回避、斬撃、反撃。
敵の攻撃を最小限の動きで避け、一撃で急所を突く。無駄がない。完璧だ。
まるで踊るような、流麗な動き。
十体以上のゴブリンを、私は数分で全滅させた。
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私は剣を下ろした。
周囲には、ゴブリンの死体が散乱している。
無傷。
息も乱れていない。
私は自分の手を見た。
血に濡れた手。だが、震えていない。
「私は……強い」
記憶はない。
だが、確実に戦闘経験がある。この身体は、無数の戦いを経験している。
500階層。
本当に、行ったのか。私は。
ギルドカードが示す記録。誰も信じない記録。だが、この身体の動きは、それを証明しているのではないか。
……なぜ、覚えていないのか。
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通路の奥に進むと、開けた空間に出た。
広い部屋。天井は高く、壁には古い彫刻が刻まれている。部屋の奥には、下へ続く階段があった。
1階層の最深部。
次の階層への入口。
私はその階段を見つめた。
――そのとき。
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激しい頭痛。
私は頭を抱えた。
フラッシュバック。
この場所。見たことがある。
誰かと一緒に戦っていた。
「セリア、下がれ!」
男の声。切迫した声。
巨大な影。鋭い爪。
魔物の咆哮。
血。
――ビジョンが途切れた。
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私は息を整え、階段を見つめた。
この先に……答えがある。
記憶を取り戻す鍵が、この下にある。
私は階段へ足を踏み出した。
2階層へ。
そして、さらに深く。
真実へ。




