第58話 最後の夜
ミラの部屋へ向かう道は、夕暮れに染まっていた。
空がオレンジ色から紫色へと変わり始めている。街灯が一つ、また一つと灯り始め、石畳の道を優しく照らしていく。商人たちが店を閉め、冒険者たちが酒場へ向かう時間。一日の終わりと、夜の始まりが混ざり合う、曖昧な時間帯。
セリアは、その道をゆっくりと歩いていた。
明日、アシュと共に深層へ向かう。
その決断が正しいのか、今でもわからない。でも――決めたのだ。後戻りはできない。
ミラの家に着くと、窓から暖かな光が漏れていた。セリアは扉をノックした。
すぐにミラが扉を開ける。
「セリア!」
彼女は驚いたように目を見開き、そして優しく微笑んだ。
「また来てくれたのね。さあ、入って」
セリアは頷き、家の中へ入った。リビングには、既に夕食の準備ができているようだった。テーブルの上に、皿が並んでいる。
「ちょうど夕食を作ろうと思ってたの。一緒に食べましょう」
ミラはそう言って、キッチンへ向かった。
セリアはソファに座り、窓の外を見た。空は既に暗くなり始めていて、星が僅かに瞬いている。
どれくらい時間が経っただろうか。
ミラが料理を運んできた。温かいシチュー、焼きたてのパン、サラダ。どれも湯気を立てていて、美味しそうな匂いが部屋中に広がった。
「さあ、食べましょう」
二人は席に着き、食事を始めた。
シチューは野菜と肉がたっぷり入っていて、クリーミーで優しい味がした。パンは外がカリッとしていて、中はふんわりと柔らかい。サラダは新鮮で、ドレッシングの酸味が心地よかった。
「美味しい」
セリアは思わず呟いた。ミラが嬉しそうに笑う。
「よかった」
しばらく無言で食事を続けた。スプーンが皿に触れる音、パンを千切る音、二人の呼吸の音。静かで、穏やかな時間が流れている。
「ねえ、セリア」
ミラが静かに言った。セリアが顔を上げる。
「アシュくんのこと、聞いたわ」
セリアは僅かに身を固くした。ミラは優しく微笑んでいる。
「明日、一緒に深層へ行くんでしょう?」
「……ああ」
セリアは頷いた。ミラは何も言わず、ただ微笑んでいる。責める様子も、止める様子もない。
「それが、あなたの選択なのね」
「……ああ」
「わかったわ」
ミラは静かに言った。
「私は、あなたの選択を尊重する」
その言葉に、セリアの胸が僅かに軽くなった。
「……ありがとう」
ミラは首を横に振った。
「お礼を言われることじゃないわ」
二人は再び、食事を続けた。
食事が終わると、ミラは皿を片付け始めた。今度はセリアも手伝った。二人で皿を洗い、拭いて、棚に戻す。その作業は、どこか心地よかった。
片付けが終わると、ミラは紅茶を淹れてくれた。二人はソファに座り、紅茶を飲みながら窓の外を見た。
夜が、完全に訪れていた。
星が瞬き、月が静かに輝いている。街は静まり返り、時折風の音が聞こえるだけだった。
「セリア」
ミラが静かに言った。
「怖い?」
セリアは、その問いの意味を理解するのに少し時間がかかった。
怖いか?
何が?
アシュと共に深層へ行くこと? それとも――アシュが死ぬこと?
「……わからない」
セリアは正直に答えた。ミラは頷く。
「そう」
ミラは紅茶を一口飲み、セリアを見た。
「でもね、怖がってもいいのよ」
「……」
「あなたは、いつも強がっている。でも、本当は怖いんじゃない?」
ミラの言葉が、セリアの心に突き刺さった。
怖い。
そうだ。怖い。
アシュが死ぬのが怖い。自分が死ぬのも怖い。でも――それ以上に怖いのは、誰も救えないことだ。
「……怖い」
セリアは小さく呟いた。ミラが優しく微笑む。
「正直に言えて、よかった」
ミラはセリアの手を握った。その手は、いつものように温かい。
「怖くても、進むのね」
「……ああ」
「それが、あなたの強さなのね」
ミラの言葉に、セリアは何も答えられなかった。強さ、だろうか。これは。
それとも――ただの愚かさだろうか。
「今夜も、ここに泊まっていって」
ミラが言った。
「明日、早く出発するでしょう? だったら、ここから行った方が近いわ」
セリアは頷いた。
「……ありがとう」
ミラは立ち上がり、客間の準備を始めた。セリアも手伝おうとしたが、ミラに止められた。
「いいのよ。あなたは休んで」
セリアはソファに座ったまま、窓の外を見続けた。
月が、静かに輝いている。
その光は、どこか冷たくて、でも美しかった。
「準備できたわ」
ミラが戻ってきた。セリアは立ち上がり、階段を上った。
客間には、昨夜と同じように布団が敷かれていた。窓際には小さな花瓶が置かれていて、白い花が一輪挿してあった。
「おやすみなさい、セリア」
ミラが扉の前で立ち止まる。
「明日、気をつけてね」
「……ああ」
セリアは頷いた。ミラが優しく微笑み、扉を閉めた。
セリアは一人になった。
部屋の中は静かで、窓の外から僅かに風の音が聞こえるだけだった。
セリアはベッドに座り、腰の剣を見た。
空虚の剣。
前の持ち主の記憶も意思も、何も宿っていない剣。
この剣は、何も語らない。何も助言しない。ただ、そこにあるだけ。
でも――それが、セリアにとっての自由だった。
剣に支配されない。
剣の囁きに惑わされない。
それは、孤独だけれど――自由でもあった。
セリアは剣を撫でた。冷たい感触が、手に伝わる。漆黒の刃が、月明かりを僅かに反射している。
「……明日、アシュを守れるだろうか」
小さく呟く。剣は、何も答えない。
いつものように、沈黙している。
セリアは布団に横になった。天井を見つめる。
明日、どうなるのだろう。
アシュは、生き延びられるだろうか。
それとも――やはり、死ぬのだろうか。
答えは、わからない。
でも――せめて、最後まで側にいてやることはできる。
それが、セリアにできる唯一のことだった。
目を閉じる。
暗闇の中で、セリアは誰かの声を聞いた気がした。
優しくて、温かい声。
「……頑張れ」
その声が、誰のものなのか、わからない。
誰かが、セリアを励ましているような気がした。
でも、目を開ければ――やはり誰もいない。
セリアには、わからなかった。
でも――その声が、セリアの心を僅かに支えてくれた。
眠りが、静かに訪れる。
夢の中で、セリアは誰かと歩いていた。
その人の顔は見えない。霞んでいて、輪郭すら曖昧だ。
でも、その人は優しく笑っていた。
「一人じゃない」
その人が言った。
「お前は、一人じゃない」
セリアは、その言葉を信じたかった。
でも――目が覚めれば、やはり一人だ。
それが、セリアの現実だった。
夜は深く、静かに更けていく。
ミラの家の窓から、月の光が優しく差し込んでいた。
明日、セリアとアシュは深層へ向かう。
その旅が、どんな結末を迎えるのか――誰にも予測できなかった。
ただ一つ確かなのは、セリアがアシュを見捨てなかったということ。
それだけが、この暗い物語の中での、僅かな光だった。
朝が来るまで、あと数時間。
セリアは静かに眠り続けていた。
その顔は、どこか安らかに見えた。
まるで、何も恐れていないかのように。
でも――心の奥底では、恐怖が渦巻いていた。
明日への恐怖。
死への恐怖。
そして――誰も救えないことへの恐怖。
それでも、セリアは進む。
それが、セリアの選んだ道だった。
夜は、静かに過ぎていく。
朝が来るまで、もう少し。




