第57話 選択の重さ
ギルドの喧騒が、遠くに聞こえていた。
セリアは一人、ギルドの裏手にある小さな中庭に座っていた。ここは冒険者たちがあまり来ない場所で、静かだった。石のベンチに腰掛け、空を見上げる。
昼下がりの太陽が、優しく地面を照らしている。
風が吹き、木の葉が揺れる音がする。鳥のさえずりが、時折聞こえてくる。穏やかで、平和な時間。
でも、セリアの心は穏やかではなかった。
アシュの顔が、脳裏に浮かぶ。
泣きながら懇願する彼の姿。震える声。血が滲むほど強く剣を握りしめる手。
彼は、もう限界だった。
剣の囁きに、完全に支配されつつある。あと少しで――ダリウスと同じになる。
連れて行くべきか。
置いていくべきか。
どちらを選んでも、アシュは死ぬ。
ならば――せめて、どちらがアシュにとって「まし」なのか。
一人で深層へ行き、誰にも看取られずに死ぬのか。
それとも、セリアと共に行き、最期まで誰かが側にいる状態で死ぬのか。
どちらも、残酷だ。
どちらも、救いがない。
セリアは拳を握りしめた。
「……わからない」
小さく呟く。答えが、見つからない。
足音が聞こえた。
セリアは顔を上げた。ミラが立っていた。彼女は優しく微笑み、セリアの隣に座る。
「ここにいたのね」
「……ああ」
二人は、しばらく無言で空を見上げていた。
風が吹き、ミラの髪が僅かに揺れる。彼女は静かに息を吐き、セリアを見た。
「アシュくんのこと、聞いたわ」
セリアは頷いた。
「……そうか」
「辛いわね」
ミラの声には、深い同情があった。
「でも、セリア――あなたが全てを背負う必要はないのよ」
「……」
「アシュくんが剣に支配されているのは、あなたのせいじゃない。それは、この世界のシステムのせいなの」
ミラは言葉を続けた。
「剣が人を支配する。深層へ誘う。それは、誰にでも起こりうること。あなたが悪いわけじゃない」
その言葉が、セリアの心に沁みる。
でも――それでも、罪悪感は消えない。
「……でも、私が連れて行けば、アシュは死ぬ」
「連れて行かなくても、アシュくんは一人で行くわ。そして、やはり死ぬ」
ミラは静かに言った。
「どちらを選んでも、結果は同じ。ならば――あなたが自分を責める必要はないの」
セリアは俯いた。
ミラの言葉は正しい。
でも――それでも、選ばなければならない。
「セリア」
ミラがセリアの手を握った。その手は温かくて、優しい。
「あなたがどちらを選んでも、私はあなたを責めない。ゼノさんも、きっとそう」
「……本当に?」
「本当よ」
ミラは微笑んだ。
「あなたは、十分頑張ってる。だから――自分を責めないで」
セリアは、ミラの目を見た。その目には、嘘がない。本心から、そう言ってくれている。
「……ありがとう」
セリアは小さく呟いた。ミラが優しく頷く。
「どういたしまして」
二人は再び、空を見上げた。
雲が流れていく。ゆっくりと、穏やかに。
「ミラ」
セリアは静かに尋ねた。
「……お前の兄は、どうやって死んだ?」
ミラは僅かに目を伏せた。
「150階層で、モンスターに殺されたわ」
「……そうか」
「でもね」
ミラは顔を上げ、セリアを見た。
「兄は、後悔していなかったと思う。兄は、自分の意志で深層へ行った。剣に誘われていたけれど――それでも、最後まで自分の意志で選んでいたと思うの」
ミラの声には、僅かな悲しみと、そして――誇りがあった。
「だから、私は兄を責めない。兄が選んだ道を、尊重したいの」
その言葉が、セリアの心に響いた。
自分の意志で選ぶ。
それが、どれほど大切なことか。
「アシュくんも、きっと自分で選ぶわ」
ミラは優しく言った。
「あなたが連れて行くか、行かないか――それはあなたが選ぶこと。でも、アシュくんも自分で選ぶの。一緒に行くか、一人で行くか」
「……」
「だから、全てをあなた一人の責任だと思わないで」
ミラの言葉が、セリアの心を僅かに軽くした。
そうだ。
アシュも、自分で選ぶ。
セリアが全てを決めるわけではない。
「……わかった」
セリアは頷いた。ミラが嬉しそうに微笑む。
「よかった」
二人は、しばらくそのまま座っていた。
静かで、穏やかな時間が流れる。
やがて、ミラが立ち上がった。
「そろそろ仕事に戻らないと。また後でね」
「……ああ」
ミラは手を振り、中庭を去っていった。
セリアは一人、再び空を見上げた。
太陽が、少しずつ西へ傾き始めている。
時間は、刻一刻と過ぎていく。
セリアは立ち上がった。
決めなければならない。
今日中に、答えを出さなければ。
セリアはギルドの中へ戻った。
廊下を歩きながら、セリアはアシュを探した。彼は、どこにいるのだろう。
ギルドの食堂を覗いたが、いない。
訓練場も、いない。
受付にも、いない。
セリアは医療室へ向かった。もしかしたら、ゼノの所にいるかもしれない。
医療室の扉を開けると、ゼノが一人でベッドに座っていた。
「セリア」
ゼノがセリアに気づき、声をかける。
「アシュを探しているのか?」
「……ああ」
「さっき、ここに来たぞ。でも、すぐに出ていった」
「……どこへ?」
「わからない。でも――様子がおかしかった」
ゼノの顔が険しくなる。
「目が虚ろで、剣をずっと握りしめていた。もしかしたら――」
ゼノの言葉が途切れる。
セリアの胸に、嫌な予感が走った。
「……まさか」
セリアは走り出した。
廊下を駆け抜け、ギルドの転移装置がある広間へ向かう。
広間に着くと――アシュがいた。
彼は転移装置の前に立っていた。剣を握りしめ、虚ろな目で転移装置を見つめている。
「アシュ……!」
セリアの声に、アシュが振り返った。
その目には、もう正気がなかった。
剣に、完全に支配されている。
「セリアさん……」
アシュの声は掠れていた。まるで、遠くから聞こえてくるような、現実感のない声。
「僕……行きます」
「待て」
セリアは近づこうとした。でも、アシュが剣を構える。
「来ないでください……!」
その声は、悲鳴に近かった。
「僕は……もう、止められない。剣が……剣が、命令するんです。『行け』『深く』『今すぐ』って……!」
アシュの目から、涙が溢れた。
「止めたいのに……止められない……!」
セリアは、その場に立ち尽くした。
どうすればいい?
無理やり止めるべきか。
それとも――行かせるべきか。
「アシュ」
セリアは静かに言った。
「……私も、一緒に行く」
アシュの目が、僅かに正気を取り戻した。
「え……?」
「一緒に行こう。お前一人では、危険だ」
セリアの言葉に、アシュの顔が歪んだ。
「でも……セリアさん、僕なんかと一緒に行ったら……足手まといに……」
「構わない」
セリアは真っ直ぐアシュを見た。
「お前を一人で行かせるわけにはいかない」
その言葉に、アシュの目から涙が溢れた。
「……ありがとう、ございます……」
彼は泣きながら、剣を下ろした。
セリアはアシュに近づき、その肩に手を置いた。
「でも、今日は行かない」
「え……?」
「お前は、今の状態じゃ戦えない。少し休め。明日、一緒に行こう」
アシュは唇を噛みしめた。
「……剣が、今すぐ行けと……」
「明日だ」
セリアの声には、強い意志があった。アシュは、その目を見て――ゆっくりと頷いた。
「……わかりました」
セリアはアシュを医療室へ連れて行った。
ゼノが驚いた顔でセリアを見る。
「セリア、お前……」
「……明日、アシュと一緒に深層へ行く」
セリアは静かに言った。ゼノは溜息をつく。
「……そうか」
彼は何も言わなかった。ただ、頷くだけだった。
アシュをベッドに寝かせ、セリアは医療室を出た。
廊下で、セリアは深く息を吐いた。
決めた。
アシュと一緒に行く。
それが正しいのかどうか、わからない。
でも――アシュを一人で行かせるよりは、ましだと思った。
せめて、最期まで誰かが側にいてやれる。
それが、セリアにできる唯一のことだった。
夕暮れの光が、廊下の窓から差し込んでいた。
オレンジ色の光が、セリアの影を長く伸ばす。
セリアは窓の外を見た。
街が、夕日に染まっている。
穏やかで、美しい光景。
でも――明日、アシュはこの光景を見ることができるだろうか。
セリアには、わからなかった。
ただ一つ確かなのは――明日、セリアとアシュは深層へ向かうということ。
そして――その旅が、どんな結末を迎えるのか、誰にも予測できないということ。
セリアは小さく息を吐き、歩き出した。
ミラに、このことを伝えなければ。
彼女は、きっと心配するだろう。
でも――セリアの選択を、責めはしないはずだ。
夕暮れの街を、セリアは静かに歩いていく。
その背中は、どこまでも孤独に見えた。
でも――明日からは、アシュが側にいる。
少しの間だけでも、一人ではない。
それだけが、セリアにとっての僅かな救いだった。




