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第56話 剣の囁き

朝日が、カーテンの隙間から差し込んでいた。


セリアは目を覚ました。身体が重い。疲労が完全には抜けていない。でも、昨夜よりはましだった。ミラの部屋で眠ったおかげか、僅かに心が軽くなった気がする。


窓の外から、鳥のさえずりが聞こえた。朝の静けさの中で、その声は清々しく響く。セリアはゆっくりと身体を起こし、窓の外を見た。


青い空が広がっている。


雲一つない、穏やかな朝だった。街は既に目覚め始めていて、遠くから人々の声が聞こえてくる。商人が店を開く音、子供たちの笑い声、馬車の走る音。


日常の音。


セリアにとっては、どこか遠い世界の出来事のように感じられた。


部屋を出ると、階下からいい匂いが漂ってきた。パンを焼く匂いと、何かを煮込む匂い。ミラが朝食を作っているのだろう。


セリアは階段を降りた。


リビングに入ると、ミラがキッチンで料理をしていた。彼女は振り返り、セリアに笑顔を向ける。


「おはよう、セリア。よく眠れた?」


「……ああ」


セリアは短く答えた。ミラが嬉しそうに頷く。


「よかった。顔色も昨日よりいいわ」


ミラは手際よく朝食をテーブルに並べた。焼きたてのパン、野菜のスープ、ゆで卵、そしてフルーツ。どれも温かくて、美味しそうだった。


「さあ、食べましょう」


二人は席に着き、食事を始めた。


パンはふわふわで、バターの香りが口の中に広がる。スープは昨夜と同じように優しい味で、身体の芯から温まった。ゆで卵は程よい固さで、塩をかけて食べると絶品だった。


「美味しい」


セリアは思わず呟いた。ミラが嬉しそうに笑う。


「本当? よかった」


二人はしばらく無言で食事を続けた。穏やかな朝の時間が、ゆっくりと流れていく。


「今日は、どうするの?」


ミラが尋ねた。セリアはスープを飲む手を止め、顔を上げる。


「……ギルドへ行く。ゼノの様子を見て、それから……」


それから、どうするのか。


セリアにも、まだ分からなかった。再び深淵へ潜るのか、それともしばらく休むのか。答えは出ていない。


ミラは優しく微笑んだ。


「焦らなくていいのよ。ゆっくり考えて」


「……ああ」


セリアは頷いた。


朝食が終わると、セリアは準備を始めた。剣を腰に帯び、荷物を整える。ミラが玄関まで見送りに来てくれた。


「気をつけてね」


「……ああ。ありがとう、ミラ」


セリアは振り返り、ミラを見た。彼女は笑顔で手を振っている。その笑顔が、セリアの心を僅かに温めた。


セリアはミラの家を後にし、ギルドへ向かった。


朝の街は、活気に満ちていた。


商人たちが店を開き、冒険者たちがギルドへ向かい、子供たちが路地で遊んでいる。どこにでもある、普通の朝の光景。


でも、セリアにとっては――どこか非現実的に感じられた。


自分は、この世界に属していないような気がする。深淵に潜り、モンスターと戦い、人を殺し――そんな自分が、この穏やかな街に居ていいのだろうか。


セリアは首を振った。


考えても仕方がない。今は、ゼノの様子を見に行くことだけを考えよう。


ギルドに到着すると、既に多くの冒険者で賑わっていた。受付には列ができていて、依頼の確認や装備の購入をする者たちで溢れている。


セリアはその人混みを抜け、医療室へ向かった。


医療室の扉を開けると、ゼノが既に起きていた。ベッドに腰掛け、包帯を巻き直している最中だった。


「よう、セリア」


ゼノが気づき、笑顔を向ける。セリアは僅かに頷いた。


「……おはよう」


「おはよう。よく眠れたか?」


「……ああ」


セリアはゼノの隣に座った。彼の顔色は昨日より良くなっている。傷も順調に癒えているようだ。


「俺はもう大丈夫だ。あと一日もすれば、動けるようになる」


ゼノは自信ありげに言った。でも、その目には僅かな疲労の色が残っている。完全に回復しているわけではない。


「無理するな」


セリアが言うと、ゼノは苦笑した。


「お前に言われたくないな」


「……」


セリアは何も言い返せなかった。確かに、自分も無理をしている。171階層まで単独で進んだことを考えれば、ゼノに無理をするなと言う資格はない。


「セリア」


ゼノが真剣な顔でセリアを見た。


「お前、これからどうする?」


「……わからない」


セリアは正直に答えた。ゼノは頷く。


「そうか。まあ、焦る必要はない。少し休んでもいいんじゃないか?」


「……」


セリアは窓の外を見た。青い空が広がっている。穏やかで、平和な空だ。


でも――深淵の中は、こんな空は見えない。暗くて、冷たくて、絶望に満ちている。


「セリア」


ゼノが再び声をかけた。セリアが顔を向ける。


「お前、無理してないか?」


「……何が?」


「全部だよ」


ゼノは溜息をついた。


「ダリウスを殺したこと、171階層まで単独で進んだこと、そして――今も、何かを抱え込んでいるだろう」


セリアは何も言えなかった。ゼノの言う通りだった。全てを一人で抱え込もうとしている。でも、それ以外にどうすればいいのか分からない。


「たまには、誰かに頼れよ」


ゼノが優しく言った。


「俺でもいいし、ミラでもいい。一人で全部背負う必要はない」


その言葉が、昨夜ミラが言った言葉と重なった。


「あなたは、一人じゃないんだから」


セリアは小さく息を吐いた。


「……考える」


「ああ、考えてくれ」


ゼノは満足そうに頷いた。


その時、医療室の扉が開いた。


アシュだった。


彼は息を切らしていて、顔は青白い。目には、深い疲労と――恐怖が宿っていた。


「セリアさん……!」


アシュがセリアを見つけ、駆け寄ってくる。その勢いに、セリアは僅かに身構えた。


「どうした?」


「剣が……剣が、止まらないんです……!」


アシュの声は震えていた。彼は腰の剣を握りしめている。その手は白くなるほど強く握られていて、血が滲んでいた。


セリアは立ち上がった。


「落ち着け、アシュ」


「落ち着けません……! 剣が、ずっと囁いてるんです。『行け』『深く』『止まるな』って……もう、頭がおかしくなりそうで……」


アシュの目から、涙が溢れた。彼は震えながら、セリアを見上げる。


「お願いです……一緒に、深層へ連れて行ってください……!」


その懇願に、セリアの胸が痛んだ。


ゼノが険しい顔でアシュを見ている。彼も、アシュの状態が尋常ではないことに気づいている。


「アシュ」


セリアは静かに言った。


「お前を連れて行けば、お前は死ぬ」


「……わかってます」


アシュは泣きながら答えた。


「でも……剣が、命令するんです。もう、逆らえない……」


彼の声は、もはや悲鳴に近かった。


「一人で行けば、もっと早く死にます。だから……せめて、セリアさんと一緒に……」


アシュの言葉が、セリアの心に突き刺さる。


連れて行けば死ぬ。


置いていけば、一人で行って死ぬ。


どちらを選んでも、アシュは死ぬ。


セリアは拳を握りしめた。どうすればいい? 何が正しい?


答えが、見つからない。


「セリアさん……お願いします……」


アシュが膝をつき、頭を下げた。その姿は、あまりにも痛々しかった。


ゼノがベッドから立ち上がった。


「アシュ、お前は休め。今の状態じゃ、深層どころか低層でも危ない」


「でも……!」


「休むんだ」


ゼノの声には、強い意志があった。アシュは唇を噛みしめ、俯いた。


「……わかりました」


アシュは立ち上がり、よろよろと医療室を出ていった。その背中は、どこまでも小さく見えた。


セリアとゼノだけが残された。


沈黙が流れる。


「……どうすればいい?」


セリアは、自分でも気づかないうちに呟いていた。ゼノが溜息をつく。


「わからない。でも――今のアシュを連れて行くのは、無理だ」


「……わかっている」


セリアは窓の外を見た。青い空が、どこまでも広がっている。


でも、その空は――アシュには見えていないのかもしれない。


彼の目には、深淵しか映っていない。


剣に支配された者の末路を、セリアは知っている。


ダリウスがそうだった。


そして――アシュも、同じ道を辿ろうとしている。


セリアは拳を握りしめた。


止められない。


誰も、止められない。


剣の囁きは、あまりにも強い。


「……セリア」


ゼノが静かに言った。


「お前は、悪くない」


「……」


「何を選んでも、お前は悪くない。それだけは、覚えておいてくれ」


ゼノの言葉が、セリアの心に沁みた。


でも――それでも、罪悪感は消えない。


セリアは深く息を吐き、医療室を出た。


廊下を歩きながら、セリアは考え続けた。


どうすればいい?


答えは、まだ見つからない。


でも――時間は、待ってくれない。


アシュは、もう限界だ。


いつ、一人で深層へ向かってもおかしくない。


セリアは拳を握りしめた。


選ばなければならない。


連れて行くか、置いていくか。


どちらを選んでも、アシュは死ぬ。


でも――せめて、苦しまずに死なせてやることはできるのではないか。


セリアの心に、一つの決意が芽生え始めていた。


それが正しいのかどうか、わからない。


でも――何もしないよりは、ましかもしれない。


セリアは空を見上げた。


青い空が、どこまでも広がっている。


でも、その先には――深淵が待っている。


暗くて、冷たくて、絶望に満ちた深淵が。


セリアは小さく息を吐き、歩き出した。


まだ、答えは出ていない。


でも――時間は、刻一刻と過ぎていく。


決断の時は、近い。

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