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第55話 温もりの夜

ミラの部屋は、ギルドから少し離れた、静かな住宅街にあった。


石畳の道を歩きながら、セリアはミラの後ろ姿を見ていた。小柄な背中が、夕暮れの光を受けて柔らかく輝いている。彼女は時折振り返り、セリアが遅れていないか確認する。その度に、優しい笑顔を向けてくれた。


「もうすぐよ」


ミラの声が、静かな街に溶けていく。


住宅街は、ギルド周辺の喧騒とは対照的に穏やかだった。古い石造りの家々が並び、窓からは暖かな灯りが漏れている。夕食の支度をする匂いが、どこからともなく漂ってきた。家族の笑い声、子供の泣き声、犬の吠える声。生活の音が、ここにはあった。


セリアは、そんな光景を無表情で見つめていた。


自分には縁のない世界だ、と思った。家族も、温かな家も、何もない。あるのは剣と、記憶のない過去と、そして――深淵だけ。


「着いたわ」


ミラの声に、セリアは我に返った。


目の前に、二階建ての小さな家があった。他の家と比べて特別豪華というわけではないが、手入れが行き届いている。窓辺には小さな花が植えられていて、玄関の扉は綺麗に磨かれていた。


ミラが鍵を取り出し、扉を開ける。


「どうぞ」


セリアは僅かに躊躇したが、ミラに促されて中へ入った。


玄関を抜けると、小さなリビングが広がっていた。木製のテーブルと椅子、柔らかそうなソファ、本棚には本が綺麗に並んでいる。壁には風景画が飾られ、窓際には観葉植物が置かれていた。


温かい空間だった。


人の温もりが感じられる、生活の匂いがする部屋。セリアは、こんな部屋に入るのは久しぶりだった。いや、もしかしたら――記憶を失う前も、こんな部屋には縁がなかったのかもしれない。


「座って。すぐに夕食の準備をするから」


ミラは笑顔でそう言うと、エプロンを取り出して身につけた。そして、キッチンへ向かう。


セリアはソファに座った。柔らかい感触が、疲れた身体を包み込む。思わず、小さく息を吐いた。


キッチンから、包丁の音が聞こえてくる。野菜を切る音、鍋に水を注ぐ音、火をつける音。ミラは手際よく料理を作っている。その背中は、どこか母親のようだった。


セリアは、その背中をじっと見つめていた。


「セリア、紅茶でいい?」


ミラが振り返り、笑顔で尋ねる。セリアは頷いた。


「……ああ」


ミラは温かい紅茶を淹れ、セリアの前に置いた。湯気が立ち上り、甘い香りが鼻をくすぐる。


「ゆっくり飲んで」


そう言って、ミラは再びキッチンへ戻った。


セリアは紅茶を手に取った。温かい。その温もりが、冷えた手に染み渡る。一口飲むと、甘さと僅かな苦みが口の中に広がった。美味しい、とセリアは思った。


どれくらい時間が経っただろうか。


ミラが料理を持ってきた。テーブルの上に、次々と皿が並べられる。野菜のスープ、焼いたパン、肉料理、サラダ。どれも湯気を立てていて、美味しそうな匂いが部屋中に広がった。


「さあ、食べましょう」


ミラが席に座り、セリアに微笑みかける。セリアは頷き、スプーンを手に取った。


スープを一口飲む。


温かくて、優しい味がした。野菜の甘みと、ほのかな塩味。身体の芯から温まる気がした。


「美味しい?」


ミラが尋ねる。セリアは頷いた。


「……ああ。美味しい」


ミラが嬉しそうに笑う。


「よかった。セリア、最近ちゃんと食べてなかったでしょう? 痩せたと思ったもの」


言われてみれば、そうかもしれない。ダンジョンでは携帯食ばかりで、温かい食事を摂ることは少なかった。地上に戻っても、ギルドの食堂で簡単に済ませることが多い。


こんな風に、誰かが作ってくれた温かい食事を食べるのは――いつ以来だろう。


「たくさん食べて。明日からまた頑張れるように」


ミラの言葉に、セリアは僅かに胸が痛んだ。


明日から、また頑張る。


それは、また深淵へ潜るということだ。また戦い、また誰かが死ぬかもしれない。セリア自身も、いつ死ぬか分からない。


でも――それでも、進むしかない。


なぜなら、それがセリアの役割だから。


「……ミラ」


セリアは静かに言った。ミラがスープを飲む手を止め、顔を上げる。


「なあに?」


「……どうして、私にこんなに優しくしてくれるんだ?」


セリアの問いに、ミラは僅かに目を見開いた。そして、優しく微笑む。


「それは……あなたが、一人で頑張りすぎているから」


ミラは言葉を続けた。


「あなたは、いつも一人で全部抱え込もうとする。辛いことも、苦しいことも、全部一人で背負おうとする。でも、それは間違っていると思うの」


ミラの目が、真剣な光を帯びる。


「誰かに頼ってもいい。誰かに甘えてもいい。あなたは、一人じゃないんだから」


その言葉が、セリアの胸に沁みた。


一人じゃない。


本当に、そうなのだろうか?


セリアには、よく分からなかった。でも、ミラがそう言ってくれるなら――少しだけ、信じてみようと思った。


「……ありがとう」


セリアは小さく呟いた。ミラが嬉しそうに笑う。


「どういたしまして」


二人は再び、食事を続けた。


温かいスープ、柔らかいパン、ジューシーな肉料理。どれも美味しくて、セリアは久しぶりに満腹になった。


食事が終わると、ミラは皿を片付け始めた。セリアも手伝おうとしたが、ミラに止められた。


「いいのよ。今日はゆっくりして」


ミラは笑顔でそう言うと、一人でキッチンへ向かった。


セリアは再びソファに座った。窓の外を見ると、既に夜になっていた。星が瞬き、月が静かに輝いている。


どれくらい時間が経っただろうか。


ミラが戻ってきた。手には、二つのカップを持っている。


「また紅茶を淹れたわ。今度はハーブティー。リラックスできるから」


ミラがセリアの隣に座り、カップを渡す。セリアは受け取り、一口飲んだ。ハーブの香りが鼻をくすぐり、心が落ち着いていく気がした。


二人は、しばらく無言で紅茶を飲んでいた。


静かな夜。


外からは、時折風の音が聞こえるだけ。穏やかで、優しい時間が流れている。


「ねえ、セリア」


ミラが静かに言った。セリアが顔を向ける。


「あなたは、どうして深淵へ潜るの?」


その問いに、セリアは息を呑んだ。


どうして?


自分でも、よく分からない。ギルドカードには500階層到達の記録がある。でも、記憶はない。だから――確かめたい、という思いはある。


でも、それだけだろうか?


「……わからない」


セリアは正直に答えた。ミラは驚いた様子もなく、静かに頷く。


「そう」


ミラは紅茶を一口飲み、窓の外を見た。


「私の兄も、同じことを言っていたわ」


セリアは、ミラの横顔を見た。その目には、遠い記憶が宿っている。


「兄は、深淵に魅せられていた。『なぜ潜るのか』って聞いたら、『わからない』って笑ってた」


ミラの声は、どこか懐かしそうだった。


「でも、兄は言ってたの。『きっと、答えは深淵の底にあるんだ』って」


ミラが顔を向け、セリアを見た。


「あなたも、答えを探しているんじゃない?」


セリアは、何も言えなかった。


答えを探している。


そうかもしれない。でも、何の答えを探しているのか、自分でも分からない。


ミラは優しく微笑んだ。


「無理に答えを出さなくてもいいの。いつか、見つかるから」


その言葉が、セリアの心を僅かに軽くした。


「……ありがとう」


「どういたしまして」


ミラが立ち上がった。


「さあ、そろそろ寝ましょう。部屋は二階よ。案内するわ」


セリアも立ち上がり、ミラの後について階段を上った。


二階には、二つの部屋があった。一つはミラの部屋で、もう一つは客間らしい。ミラが客間の扉を開ける。


「ここで休んで。布団も敷いてあるから」


セリアは部屋の中を見た。小さな部屋だが、清潔で整っている。窓際にはベッドがあり、柔らかそうな布団が敷かれていた。


「……ありがとう」


セリアは部屋に入った。ミラが扉の前で立ち止まる。


「何かあったら、すぐに呼んでね。私の部屋は隣だから」


「……ああ」


ミラが優しく微笑み、扉を閉めた。


セリアは一人になった。


部屋の中は静かだった。窓の外から、僅かに風の音が聞こえる。


セリアはベッドに座った。柔らかい布団が、身体を包み込む。疲労が、どっと押し寄せてきた。


今日は、長い一日だった。


171階層でのアイアンゴーレム戦。地上への帰還。ゼノとミラとの再会。そして――この温かい部屋。


全てが、まるで夢のようだった。


セリアは布団に横になった。天井を見つめる。


ダリウスの顔が、脳裏に浮かんだ。最期に正気を取り戻した彼の目。あの目には、何が映っていたのだろう。


セリアは、その答えを知らない。


そして――知りたくもない、と思った。


目を閉じる。


暗闇の中で、ミラの言葉が蘇る。


「あなたは、一人じゃないんだから」


本当に、そうなのだろうか。


セリアには、まだ分からない。


でも――今夜だけは、その言葉を信じてみよう。


セリアは深く息を吐き、意識を手放した。


眠りが、静かに訪れる。


夢の中で、セリアは誰かの声を聞いた。


優しくて、温かくて、懐かしい声。


それが誰の声なのか、セリアには分からなかった。


でも――その声が、セリアを包み込んでいた。


夜は深く、静かに更けていく。


ミラの部屋の窓から、月の光が優しく差し込んでいた。

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