第54話 地上の選択
転移装置から吐き出されるような感覚。
セリアの身体が、固い石畳の上に着地する。膝が僅かに震えた。171階層での戦いの疲労が、じわりと全身に広がっている。アイアンゴーレムとの戦闘は、想像以上に消耗が激しかった。身体が覚えている動きで勝てたが、それでも限界は近い。
地上だ。
久しぶりの、明るい光。
転移装置が設置された広間には、何人かの冒険者がいた。彼らの視線が、一斉にセリアへ向けられる。その目に宿る感情は複雑だった。畏怖、好奇心、そして――僅かな恐怖。
セリアは無言で広間を抜けた。視線を受け止める余裕はない。今はただ、ミラのいる医療室へ向かいたかった。
ギルドの廊下を歩く。
すれ違う冒険者たちが、セリアを見て小声で囁き合う。
「あれが……」
「171階層まで行ったらしいぞ」
「単独で? 嘘だろ……」
「でも、ダリウスを……」
最後の言葉が、囁きの中に消える。セリアは表情を変えず、ただ前を向いて歩き続けた。右手が僅かに震える。ダリウスの心臓を貫いた感触が、まだ掌に残っている気がした。
……私は、正しかったのか?
問いかけに、答えは返ってこない。
医療室の扉を開けると、消毒液と薬草の香りが鼻をつく。いくつかのベッドが並び、そのうちの一つにゼノが横たわっていた。彼の隣には、ミラが椅子に座っている。
ミラがセリアに気づき、立ち上がった。
「セリア……!」
その声には、安堵と心配が混ざっていた。ミラは小走りでセリアに近づき、その顔を覗き込む。
「怪我は? 大丈夫?」
「……大丈夫だ」
セリアは短く答えた。実際には、全身に打撲と擦り傷がある。でも、致命傷ではない。治療が必要なほどではない。
ミラは僅かに眉を寄せたが、それ以上は追及しなかった。代わりに、優しく微笑む。
「ゼノさんは、もう少しで回復するって。深い傷だったけど、治療師の方が頑張ってくれて」
セリアは頷き、ベッドに横たわるゼノへ視線を向けた。彼の顔色は悪くない。呼吸も安定している。包帯が胸部と右腕に巻かれているが、命に別状はなさそうだ。
ゼノが目を開けた。セリアと目が合う。
「……お前、無事だったか」
ゼノの声は掠れていたが、力強さがあった。セリアは僅かに頷く。
「……ああ。お前も、生きているな」
「当たり前だ。これくらいで死んでたまるか」
ゼノは苦笑した。でも、その笑顔には疲労の色が濃い。171階層での戦闘は、彼にとっても限界だったのだろう。
「セリア、無理するなよ」
ゼノが真剣な表情で言った。
「お前、相当消耗してるだろ。俺が見ても分かる」
「……大丈夫だ」
「嘘つくな」
ゼノの言葉に、セリアは言葉を失った。彼の目は鋭い。嘘は通じない。
「少し、休め。お前は十分頑張ってる。ダリウスのことも……辛かっただろう」
ダリウスの名前を聞いた瞬間、セリアの胸が締め付けられた。右手が、再び僅かに震える。
ミラが、そっとセリアの手を握った。
「セリア……」
その温もりが、セリアの心を僅かに解きほぐす。ミラの手は小さくて、柔らかくて、温かい。まるで、セリアの震えを止めようとしているかのように。
「……すまない」
セリアは小さく呟いた。何に対する謝罪なのか、自分でも分からない。ダリウスを殺したこと? ゼノやミラに心配をかけたこと? それとも――自分の弱さ?
ミラは首を横に振った。
「謝らないで。あなたは悪くない」
「……本当に?」
セリアは、初めてミラの目をまっすぐ見た。その目には、不安と迷いが宿っている。ミラは優しく微笑み、セリアの手をぎゅっと握る。
「本当よ。あなたは、正しいことをした。ダリウスさんを、苦しみから解放してあげたの」
解放。
その言葉が、セリアの胸に沈んでいく。
本当に、そうなのだろうか? 殺すことが、解放なのか? セリアには分からない。でも、ミラがそう言ってくれるなら――少しだけ、救われる気がした。
「今日は休んで。明日、また考えればいい」
ミラの言葉に、セリアはゆっくりと頷いた。
「……ああ」
ゼノが安心したように目を閉じる。
「そうしろ。お前が倒れたら、俺が困る」
セリアは僅かに口元を緩めた。笑顔ではない。でも、心が少しだけ軽くなった気がした。
ミラが椅子を引いて、セリアに座るよう促す。
「少しここにいて。治療師さんに診てもらいましょう」
「……必要ない」
「駄目よ」
ミラの声には、珍しく強い意志があった。普段の柔らかな口調とは違う、譲らない響き。セリアは小さく息を吐き、椅子に座った。
ミラが嬉しそうに微笑む。
「すぐ呼んでくるわ」
そう言って、ミラは医療室を出ていった。
セリアとゼノだけが残される。
沈黙が流れる。でも、不快な沈黙ではない。互いの存在を確認し合うような、穏やかな静けさだ。
「セリア」
ゼノが目を開け、セリアを見た。
「お前、これからどうする?」
「……わからない」
セリアは正直に答えた。ゼノは僅かに笑う。
「らしいな」
「……」
「俺はもう少し休む。多分、数日はここだ。その間、お前も休め」
「……お前は?」
セリアが尋ねる。ゼノは天井を見上げた。
「俺も……少し考える。このまま深層へ行くべきか、それとも……」
ゼノの言葉が途切れる。その目には、迷いがあった。剣の囁きが、彼を深層へ誘っている。でも、ダリウスの末路を見た今、それでも進むべきか――彼もまた、答えを出せないでいる。
「一緒に、考えよう」
セリアは静かに言った。ゼノが驚いたように目を見開く。
「……ああ」
ゼノは頷いた。その顔には、安堵の色があった。
医療室の扉が開き、ミラが治療師を連れて戻ってきた。初老の男性で、穏やかな笑顔を浮かべている。
「さて、診せてもらおうか」
治療師はセリアに近づき、手際よく診察を始めた。打撲、擦り傷、軽度の筋肉疲労。いずれも軽傷だが、放置すれば悪化する可能性がある。
「薬を塗っておこう。それと、今夜はゆっくり休むように」
治療師は薬草を調合した軟膏をセリアの傷に塗り、包帯を巻いた。その手つきは丁寧で、痛みはほとんどなかった。
「ありがとうございます」
ミラが治療師に頭を下げる。治療師は笑顔で手を振り、医療室を出ていった。
ミラがセリアの隣に座る。
「これで少しは楽になったでしょう?」
「……ああ」
セリアは包帯が巻かれた腕を見た。確かに、痛みが和らいでいる。
「セリア、今夜は私の部屋で休んで。一人にしたくないの」
ミラの言葉に、セリアは驚いて顔を上げた。ミラは優しく微笑んでいる。
「……いいのか?」
「もちろん。あなたは、一人で抱え込みすぎ」
ミラの言葉が、セリアの心に沁みる。
「……ありがとう」
セリアは小さく頷いた。ミラが嬉しそうに立ち上がる。
「じゃあ、夕食を作るわ。ゼノさんの分も」
「おう、頼む」
ゼノが笑顔で答える。ミラは軽やかに医療室を出ていった。
再び、セリアとゼノだけになる。
「いい友達を持ったな」
ゼノが呟く。セリアは頷いた。
「……ああ」
本当に、ミラは大切な存在だ。彼女がいなければ、セリアはとうに心が折れていたかもしれない。
夕暮れの光が、医療室の窓から差し込んでいた。オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしている。
セリアは窓の外を見た。
街が、夕日に染まっている。冒険者たちが宿へ帰り、商人たちが店を閉める。いつもと変わらない、穏やかな光景。
でも、セリアの心は穏やかではなかった。
ダリウスの死。剣の支配の恐怖。そして――これから先、何人の人が同じ運命を辿るのか。
……私は、何のために戦っているんだ?
答えは、まだ見えない。
でも、今はミラとゼノがいる。一人ではない。
それだけで、少しだけ救われる気がした。
夕日が沈み、夜が訪れる。
医療室の窓に、星が瞬き始めた。
セリアは静かに目を閉じ、深く息を吐いた。
明日のことは、明日考えよう。
今は、ただ休むことだけを考えよう。




