第51話 罪と孤独
血が、床に広がっていた。
黒ずんだ赤。まだ乾ききっていない。光を反射して、鈍く光っている。
私は、その血を見つめていた。
ダリウスの血。
私が、殺した人間の血。
手が、震えている。剣を握る手が。止まらない。どれだけ力を込めても、震えが止まらない。
「……セリア」
ゼノの声が、遠くから聞こえた。
彼は横たわったまま、私を見ている。重傷だ。肩から腹にかけての傷が、包帯の上からでも血を滲ませている。それでも、彼は私を気遣う目で見ている。
私は——答えられなかった。
声が、出ない。
喉が、締め付けられているような感覚。
私は、人を殺した。
その実感が、今——重く、圧し掛かってきている。
戦闘中は、何も考えなかった。身体が動いた。剣が動いた。そして——ダリウスの心臓を貫いた。
でも、今は違う。
戦いが終わった今——全てが、重い。
ダリウスの最期の顔。血を吐きながら、私に言った言葉。
「先へ……進んでくれ……」
それは、許しなのか。
それとも——呪いなのか。
私は、正しかったのか?
他に、方法はなかったのか?
考えれば考えるほど、答えが遠のいていく。
「……私は」
声が、震えた。
「正しかったのか?」
ゼノが、ゆっくりと息を吐いた。
「お前がやらなければ、エミリアも、トーマスも、レオンも死んでいた」
その声が、静かに響く。
「お前は、正しいことをした」
「……でも」
言葉が、喉に詰まる。
でも——何だ?
わからない。
何が「でも」なのか、自分でもわからない。
ただ——この重さが、消えない。
ゼノが、痛みを堪えながら上体を起こそうとした。顔が歪む。傷が開きかけている。
「動くな」
私は、彼のもとへ歩いた。足が、重い。まるで鉛が詰まっているかのように。
ゼノの隣に座る。
彼は、私を見た。その目に、理解と——何か別の感情が混じっている。
「俺も……」
ゼノが、静かに言った。
「同じことをするところだった」
私は、彼を見た。
「あの時、剣に支配されかけた。お前が止めてくれなければ、俺もダリウスと同じになっていた」
ゼノの声が、掠れる。
「だから、お前を責めることはできない」
沈黙。
それから、彼は続けた。
「お前は、正しいことをした。でも……辛いよな」
その言葉に——何かが、胸の奥で軋んだ。
「……わからない」
私の声が、震えた。
「何が正しくて、何が間違っているのか」
「私は、ただ……」
言葉が、続かない。
ただ、何だ?
ただ——生きたかった?
仲間を守りたかった?
それとも——
ゼノが、私の肩に手を置いた。温かい。その温もりが、今——酷く重い。
「お前は、強い」
彼の声が、優しく響く。
「でも……強すぎる」
「……強すぎる?」
「ああ」
ゼノが、小さく笑った。苦しそうな笑みだ。
「お前の強さは、時々……孤独に見える」
孤独。
その言葉が、胸に刺さった。
「お前は一人で全部背負おうとする。でも、それは……お前を壊す」
私は——答えられなかった。
孤独。
そうなのか?
私は——孤独なのか?
わからない。
でも——確かに、私はいつも一人だ。
剣は喋らない。仲間の記憶はない。周りの人間は、剣と会話している。
私だけが——何も聞こえない。
「……そうかもしれない」
私は、小さく呟いた。
ゼノが、何かを言いかけて——止めた。ただ、私の肩に置いた手に、少し力を込めた。
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私は、ゼノの傷を改めて治療した。
包帯を巻き直す。血が滲んでいる部分を拭き取る。治療薬を塗る。
彼の顔が、痛みで歪む。でも——声を出さない。
「すまない……」
ゼノが、掠れた声で言った。
「足手まといになって」
「……そんなことはない」
私は、短く答えた。
ゼノが、私を見た。
「俺は、もうしばらく戦えない」
その声が、悔しさに滲んでいる。
「地上で治療を受ける必要がある。お前は……どうする?」
私は、手を止めた。
包帯を巻く手が、空中で止まる。
どうする?
ゼノと一緒に地上へ戻るか。
それとも——
「一緒に戻るか?」
ゼノが、優しく問う。
私は——首を横に振った。
「……いや」
包帯を巻き終える。
「私は、進む」
ゼノの表情が、複雑に歪んだ。
予想していたような。でも、どこか悲しげな。
「そうか……」
それだけ言って、彼は目を閉じた。
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転移石の光が、私たちを包んだ。
一瞬の浮遊感。それから——地上。
アビスの転移広場。いつもの青白い光。冷たい石畳。
職員たちが、すぐに駆けつけた。
「ゼノさん!」
「医療室へ!」
ゼノが、担架に乗せられる。彼は意識がある。私を見て——小さく頷いた。
それから、運ばれていった。
私は——一人、広場に残された。
血に染まった服。剣を握る手。
周りの冒険者たちが、私を見ている。遠巻きに。恐れるように。
当然だ。
私は、血まみれだ。
「セリア!」
声が響いた。
ミラだ。
彼女が、走ってくる。息を切らして。
「無事だったの!? ゼノさんが重傷だって——」
彼女が、私の姿を見て——絶句した。
血に染まった服。剣。そして——頬の傷。
「その血……」
ミラの声が、震えた。
「……私のじゃない」
私は、短く答えた。
ミラが、何かを察したような顔をする。
「……そう」
それだけ言って、彼女は——私を抱きしめた。
突然の温もり。
私は——驚いた。
ミラの腕が、私を包む。強く。温かく。
「大丈夫……大丈夫よ……」
彼女の声が、耳元で囁く。
その温もりに——何かが、崩れた。
「……私は」
私の声が、震えた。
「人を殺した」
ミラの身体が、一瞬強張る。
でも——彼女は、私を離さなかった。
「……正しかったのか、わからない」
私の声が、掠れる。
ミラが、私をさらに強く抱きしめた。
「あなたは、生きている」
彼女の声が、静かに響く。
「それが、答えよ」
涙は——出なかった。
でも、私は——震えていた。
ミラの腕の中で。
初めて、誰かに縋るように。
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自室。
シャワーを浴びた。
血が、排水溝へ流れていく。赤黒い水が、渦を巻いて消えていく。
どれだけ洗っても——手の震えが、止まらなかった。
鏡を見る。
頬に、傷がある。ダリウスの剣が掠めた跡。浅い。でも——残るだろう。
私の顔に、初めての傷。
ベッドに座る。
剣を、膝の上に置く。
空虚の剣。相変わらず、沈黙している。
「……お前は、何も言わないんだな」
私は、剣に語りかけた。
答えは——ない。
当然だ。
この剣は、何も宿していない。
「……それでいい」
私は、小さく呟いた。
窓の外を見る。
夜だ。星が見えない。曇っている。
「……明日、また潜る」
私は、自分に言い聞かせるように呟いた。
でも——その声に、迷いが滲んでいた。
本当に、進んでいいのか。
この手で、また誰かを殺すのか。
答えは——出なかった。
ただ——疲れた。
初めて、そう感じた。
私は、疲れている。




